20180624 日本18世紀学会大会共通論題報告への質問

 プログラムはこちらだが当日配布資料あり。

佐藤淳二報告への質問

(『人間不平等起源論』でのルソーに「人間と動物を分かつものとしての完全を目指す能力」なるアイディアがあることに触れていた。)

1.ルソーが「完成可能性」について考えており、それはライプニッツの可能世界論を引き継ぐものである、という把握は適切か? 可能世界の概念は、潜在性、つまるところは実際の出来事(人間の行為を含む)として出来する以前の不可視の状態総体(人間の能力や性質、つまりはハビトゥスを含む)を有意味に概念化するために極めて便利であるが、果たして不可欠か? たとえばデイヴィッド・ルイスなどの現代形而上学における、存在論としての可能世界論(可能主義、様相実在論 )においては、そのような潜在性なるものを実体化しない(潜在性を諸可能性の集合として処理する)やり方が可能であるわけで、それはむしろ(潜在性として解釈される限りでの)「完成可能性」の概念を否定はしないまでも相対化するだろう。


2.ルソーの「完成可能性」を佐藤のように解するとき、(あくまでもこの段階での)ルソーの人間社会の未来への展望は、ある一つの正しい社会への進歩、ではなく、ありとあらゆる可能な社会システムの様態、その中でのありとあらゆる可能な人生の実現、というものに見える。初期のマルクスにおいては、共産主義という特定の社会システムの下で、ありとあらゆる可能な人生の実現が展望されていたといえようが、佐藤の解釈するルソーは、むしろ『アナーキー・国家・ユートピア』におけるロバート・ノージックに似ているのではないか。あるいは佐藤は人文研「68年」プロジェクトで「人間の終わり」について論じているが、まさに「人間の終わり」の危険、あるいはすでに終わっているかもしれない可能性について論じるニック・ボストロムの「シミュレーション仮説」も想起される。しかしながら果たしてそのようなルソー解釈は成り立つのか、またそれはどうでもよいとして、佐藤自身の「完成可能性」のアイディアをこのように解してよいのか? (「68年」プロジェクト報告での「資本による疎外革命」を私はここで想起する。)


*「可能世界」に触れた質問が多かったことへの当惑とも取れるコメントを除き、回答と言えるほどの回答はなかった。

上田和彦報告への質問

論じられている主題は果たして「後見」という言葉で語られるべきことなのか? 「啓蒙」が「後見の不要化」であるならば、「啓蒙」後としての市民社会における政治的リーダーシップと「後見」の問題は、まずは「後見」より「代理」で論じられるべき局面と、無用化したはずの「後見」が残存、ないし無用化しきれずに(「代理」の中にかあるいはその他の形でか)回帰してくる局面とを腑分けしてから論じた方がよいのではないか。すべての「後見」は「代理」の一種であろうが、すべての「代理」が「後見」というわけではないだろう。


*質問が多かったし、こちらの質問提出の不手際もあり、特に回答はなかった。