AMSEA講義準備から「表現の自由」からみの抜粋

 現代社会においては「公的/私的」の区別には幾通りかあり、混乱のもとである。
 ひとつに、先に指摘したような、国家など公的権力、政府の領分と、民間の市民社会の領分との区別。
 いまひとつは、国家も市民社会もひっくるめた開かれた領域と、秘め隠されうる私的な領域との区別。この場合民間の団体も公的でありうる。すなわち、私的な友人間でのやり取りではなく、表通りに店を出して取引をする場合、私的な営利目的であろうとそこは公的な領域である。
 「レンブラントでダーツ遊び」問題はこの観点から意味づけることができる。芸術作品の多くは私的に所有・占有されているし、営利目的で取引されているが、それを権利者が自由に処分すること、とりわけ消費して消耗してしまうことに対しては、強い批判が向けられるのは、この所以である。公的な価値を認められた芸術作品(そして自然の土地など)の所有者が、その管理責任をしばしば公的に負わされる理由。芸術と娯楽の境界は、ここにも求められる。

 さて、「便所の落書き」は公的な表現か?
 自宅の便所の落書きは私的な表出にほかならない。それはプライバシーとして保護される。しかし普通の意味での「表現の自由」か?
 「表現の自由」の定義次第だが、それを「公的表現の自由」とするならば、自宅便所の落書きは「公的表現の自由」ではない。
 「私的表出の自由」は公的な行為の自由ではなく、外部からの干渉をはねつける権利、放っておいてもらうという意味での自由(語の最も強い意味での「消極的自由」)であり、いわば絶対的なものであって公的権力はもちろん、他の私人からの干渉にも抗しうる。(木庭顕はこれを「占有」と呼ぶ。)
 反面「公的表現の自由」は「公共の福祉」との関係で制約を受けうる、というのが普通の考え方である。
 政治的言論ではない芸術・娯楽表現はさてどちらに属するか? と言えば、先の二つ目の意味での公私区分の枠組みからすれば、公的な表現ということになる。
 ただ、ここで普通の意味での「便所の落書き」に再び戻ろう。普通の意味での「便所の落書き」とは公衆便所の個室内の落書きであり、それは非常に微妙かつ厄介な領域での出来事である。公衆便所はそれ自体は公的領域であるが、その個室は一時的、緊急避難的に私的利用(占有?)の対象となるのであり、かつまたその際利用者は自分の家を構える場合とは異なり、匿名的な存在となる。家における個人のプライバシーとは、自らは何者であるかを明らかにしつつ、その上で家の中で何をしているかを秘め隠せるということだが、公衆便所の個室では、一時的であるということと引き換えに、匿名化が可能となる。
 普通の公的な表現は、公共空間で行われると同時に、その責任主体が明らかともなる。すなわち、起点たる私人のアイデンティティが確保される。「便所の落書き」にはそれがない。
 言ってみればそれは公的でも私的でもない「社会的な領域」である。そしてしばしばそれは、孤独に耐えかねた私人が、公的表現としての責任を回避しつつ私的な表出を開示するために用いられる。
 基本的には公共空間である市場も、こうした目的に使われることは可能である。すなわち、表現の中味を厳格に秘密とし、関係者以外には知られないようにして流通させるならば、このような意味で「公的ではないが社会的」な機能を果たしうる。
 こうやって「公的表現/私的表出/私的表出の公的ではないが社会的な流出」の三つがきちんと使い分けられれば問題は少ないのだが、なかなかそうはいかない問題がある。堅い言い方をすれば「存在承認」の問題だ。建前としては市民社会においては、人は存在しているだけで人権の主体であり、尊厳があり、生きているだけで価値がある、はずだ。しかし実際には人々は、自分についても他人についても、やはり存在しているだけではなく、何らかの行動をしていることによって、その価値を確認せずにはいない。そこで、公的な表現(を含む公的な活動)が十分にできる人はよいが、そうではない人は、ただ単に名前をもって家を構える(というのはここでは比喩的な意味であり、社会の中にきちんと居場所をもっていてその存在が公的に確認されうる、くらいの謂いである)だけでは、存在承認を得難い。そこで、公的な価値はなくとも自分の私的な趣味なり生きがいなりについて、どうしても表出したくなる。自分の家の便所に落書きするとか、一人カラオケとかでは、足りなくなる。社交を求める。
 このような極めてミニマルな、かつ実存にかかわる社会的表出は、厳格に秘め隠された私的表出とは異なり、社会的な影響を持ちうる。その意味では普通の公的な表現(その他公的な活動)と同様に、場合によっては公共の福祉と衝突し、調整を必要とするが、厄介なことに、普通の公的な表現とは異なり、実存、私的な存在そのものに触れる度合が極めて強い。すなわち、その制約は、その主体の存在それ自体に対する干渉であるように受け取られてしまう。あからさまに公的な表現の主体の場合には、表現活動とその主体の区別は明確で、積極的な活動能力を有する主体の存在、尊厳は、個別の、特定の表現や活動を制約されても、全面的に否定されるという印象を与えにくい。しかし極めて私的な趣味の表現に対する制約は、その主体にとって、その特定の表現活動ではなく、自分自身の存在そのものを否定されたという印象を与えてしまうのであろう。
 芸術・娯楽は先の第二の意味において公的な表現であるが、実際にはこの存在承認という意味での極私的な表出と通じる部分をどうしても抱え込んでしまうことが多い。