『週刊現代』「わが人生の最高の10冊  No Books, No Life」没仮想インタビュー


 講談社の『週刊現代』から、異例に失礼な扱いを受けたためにここに公表させていただく。
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 9月27日に、『週刊現代』ライターのXさんよりメールで当該誌読書欄の「わが人生の最高の10冊  No Books, No Life」の取材依頼を受けた。以下、依頼メールより適宜引用する。

「お好きな10冊について1時間ほどお話をお伺いし、編集部でまとめさせていただきます。
稲葉先生の読書歴について、興味を持っております。」
「稲葉先生の「10冊」と「最近読んだ1冊」をお教えください。
取材日の1週間前くらいまでに、お教えいただきたいと考えております。
「仕事の糧になった10冊」「学生時代に読んだ10冊」など、10冊の範囲を設定いただいてもかまいません(特に、設定いただかなくても、かまいません)。
漫画や洋書、絵本、現在は絶版になっている本を選んでいただいてもかまいません。
ただ、読者層が高齢のため(60歳以上・・・)、その年代でも知っていそうな本を数冊は入れていただけると助かります。
また、「最近読んだ1冊」も誌面で紹介しておりますので、こちらもお願いいたします。比較的新しい本を選んでいただけるとありがたいです。」

 同日中に承諾の旨返信し、以下の選書を提示した。


☆10冊
*小中学生のころ
ジャンニ・ロダーリ『チポリーノの冒険』岩波書店
エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』早川書房河出書房新社
*大学生として
関曠野プラトンと資本主義』北斗出版
中西洋『増補・日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東京大学出版会
*大学院生として
森建資『雇用関係の生成』木鐸社
永井均『〈魂〉に対する態度』勁草書房
*大学教員になってから
デイヴィッド・ドイッチュ『世界の究極理論は存在するか』朝日新聞社
グレッグ・イーガンディアスポラ早川書房
ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』春秋社
木庭顕『ローマ法案内』羽鳥書店勁草書房
☆1冊
渡辺澄夫『ベイズ統計の理論と方法』コロナ社


 当然ながら極めて偏った個人的な履歴の断片であり、読者への推奨を意図した選書ではない。それについてはインタビューで趣旨を説明する予定であった。また依頼の際「漫画や洋書、絵本、現在は絶版になっている本を選んでいただいてもかまいません。」とあったので、読者の関心を直接引くようなものであっても、当方の人生にとって重要であれば当然に許容される、と判断した。
 xさんからは翌日28日に承諾への返礼があり、そのまま具体的な日程調整に入った。10月4日には、13日にインタビューとのスケジュールが確定した。
 ところがインタビューを二日後に控えた11日に、xさんよりメールで連絡があった。以下適宜引用すると、

「先生に挙げていただいた10冊および、最近読まれた1冊を事前に準備しているなかで、
すみません、率直に申し上げて、ちょっと難しすぎて、弊誌の読者にはついていけないのではないか、という懸念を持ちました。
もう少し簡単な本・ポピュラーな本(定義が難しいのですが、いわゆる学術書や専門書ではない小説やノンフィクションなど一般的な本…、あるいは学術書でも、手に取りやすそうな本など)を、半分くらいは入れていただくことはできないでしょうか。
イメージとしては、大学1年生くらいが手に取れるような本を入れていただけると、ありがたいです。
ただ、そうしますと、稲葉先生の人生の10冊にはならくなってしまうかな、とは思っております。」

 これまでであればご注文には最大限応じることを旨としてきた私であるが、これは「約束が違うのではないか」と腹中ふくるるものがあり、当日中に以下の通り返信した。

「変更の意志はございません。
もとより題名は「人生の10冊」であって「若い人に勧める10冊」ではないのですから、ストレートな読書案内にする必要もないでしょう。
どのみち読者の皆さんにお勧めするつもりで書いてはおりません。
むしろその線を踏まえたうえで再度企画の方針につきご一考ください。
どうしてもご提案の線で、ということであれば今回に限り企画タイトルを「若い人に勧める10冊」にご変更ください。」

 これに対して、後にわかる通り、xさんも苦慮されたとは思われるが、以下の通りのお断りのメッセージが翌日到着した。

「仰るとおり、企画は人生の10冊であり、若い人に薦める10冊ではございませんで、
先生に筋違いのお願いをしたこと、お詫び申し上げます。
ただ、弊誌としては、先生の10冊はレベルが高すぎまして、今回の企画でお話をお伺いするのは難しいと判断させていただきました。」

 これはもちろん受容して、ここで打ち切りとせざるを得ないが、やはりこれは約束違反であり信頼関係の破壊であると当方では判断し、以下の通り抗議のメールを送った。

「今回の件につきましては、いささか立腹しております。
1.当企画が読者に本を進めるコーナーでは直接はなく、インタビューイーの読書経験を提示するものである以上、また読者の守備範囲とは言えない洋書や児童書もまた問題ないと予め申し出ておられた以上、当方の選書がそちらのご提案から大きく外れるものであったとは思えません。それを後から「本誌読者がついていけないので選書のし直しを」とおっしゃられても全く承服できません。
2.私が選書リストをそちらに送付したのはご連絡をいただいた翌日であり、それに対してのレスポンスには何ら否定的なニュアンスはなく、「わざと辛口の選書を行ったが特に問題はないのだな」と当方は判断しました。それを取材の直前になって急に修正の申し入れをされるというのは、いささか誠意に欠けるふるまいではないでしょうか。また、決して一般的ではない選書をもとに、あえてそれなりに一般的な話(読書とは個人的な営みなのでいわゆる古典や良書に過度に拘泥する必要はない云々)をする用意もこちらにはなかったわけではないのです。直前になっての修正のお申し入れは、要するに書き手語り手としての当方のことを信頼していただいていないということ、また最初のお便りにある「稲葉先生の読書歴について、興味を持っております。」とのお言葉もリップサービス以上のものではなかったということを示すものではないか、とこちらとしては邪推いたします。
 以上二点につきまして、x様、ならびに読書欄責任者の忌憚のないご意見を頂戴したいと存じます。」

 この抗議に対してはxさんと担当編集者のy氏から敏速なレスポンスが、xさんからはメールで、y氏からは電話で即日到着した。
 xさんは2の件について

「・まだ取材日まで時間があると油断し、寝かしてしまっていた
・私としては、こちらの選書で問題がないと思っていた
・そう思った理由として、3、4年ほど本欄を担当しておりますが、これまで選書を変えていただくということが私の経験上はなかった(挙げていただいた選書で話を聞くというスタンスでやってきていた。ただ、ライターは私だけではなく、そういうお願いをすることも場合によってはあったのだが、把握できていなかった)
その後、本欄の担当編集者の判断により先生の選書は難しいということになり、昨日ご連絡申し上げた次第です。」

と説明された。その後のy氏との電話も、それと矛盾するものではなかった。そこで当方からは、xさんとy氏の協議を踏まえて、もう少し明確なガイドラインとともに、改めて依頼をメールにていただきたい、との要望を提示し、それは了承された。
 しかしながら翌日12日、最初の依頼メールに添付されていた以外の当該記事を、インターネット上のサイト「現代ビジネス」でいくつか確認し、とりわけ社会学者岸政彦、憲法学者木村草太のそれなどを閲覧したうえで、当方は考えを改め、以下の通りxさんにメッセージを送付した。

「先ほどこちらを拝見いたしました。

http://gendai.ismedia.jp/search?fulltext=%E4%BA%BA%E7%94%9F%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE10%E5%86%8A

その結果、私だけがここで妥協しなければならない理由は全くない、と再度確信いたしました。
最初の選書で受け入れられないのであれば、この話はなかったこととさせていただきます。その場合、流れた企画についての原稿はこちらで勝手に作成し、公表させていただきます。」

 そして、明けて本日13日、当初の取材予定日の午後、xさんより直接お断りの電話をいただいたのであった。
 以上について特に粉飾や歪曲はないはずなので、双方の落ち度については各自で判断されたい。
 以下に、現代ビジネス上の記事を参考にしつつ、私自身の筆でありうべかりしインタビューを仮構してみる。

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 子供の頃は本ばかり読んでいる引っ込み思案の子どもで「読書好き」とか「物知り」とかいわれても素直に受け止め悦に入っていました。『チポリーノの冒険』は無垢な「読書好き」でいられた時期の1冊です。まんが的な楽しさはもちろん、戦後のイタリアの民主主義への著者ロダーリの思いが伝わります。ただある時期から自分の読書傾向が偏っていることについては自覚ができました。小学校高学年当たりからSFばっかり読んでいたのです。低学年の頃から学校の図書館で児童向けのシリーズを読み漁っていたわけですが、高学年の頃から自分のお小遣いで文庫本を集め、大いに目を悪くしました。中学生ともなれば、当時の早川書房の在庫事情の悪さのせいで、古本屋巡りを覚えました。アニメにもなった『キャプテン・フューチャー』で小学生のぼくに文庫を買いあさらせたハミルトンの短編集『フェッセンデンの宇宙』は楽しい冒険SFではなく、奇想とペーソスにあふれたSFの原点ともいうべき1冊です。神保町の古本屋でようやく手にしたものです。


 そんな育ち方をしましたので、大学に入りますと、周囲が漱石だの鴎外だの、あるいは柴田翔だの高橋和巳だの大江健三郎だの、スタンダードな古典を読んでいるのに対して、こちらはろくに読んでないわけです(SF好きとして大江と安部公房はかじりましたが)。大学ともなれば本当にすごい読書家とか書痴もいるわけで、「読書家」などという恥ずかしい自認は消えました。SFへの熱中もこのころには冷めてしまいました。今思えば「あんなものは子供っぽい」という、それ自体子供っぽい背伸びにすぎませんでしたが。そんなぼくが若気の至りを反省し、四〇を過ぎて再びSFを真剣に読むようになったきっかけの一つはイーガンの小説、とりわけこの『ディアスポラ』であり、拙著『宇宙倫理学入門』はその強い影響のうちにあります。量子計算の発見者たる天才物理学者ドイッチュの『世界の究極理論は存在するか』と併せて「人類の未来」について真面目に学問的課題として考えなければならない、という思いを固めさせてくれました。


 話を若き日に戻すと、本を読むということの怖さと有り難さがわかってきたのは、おそらく大学院に入ってからです。院での師匠と定めた中西洋先生の最初のご本『増補・日本における「社会政策」「労働問題」研究』はおおむね60年代一杯までの日本の労働問題研究の学説史的検討を通じて、資本主義とは、近代国家とは何か、とかいった大問題と真っ向から対決する稀有壮大な奇著ですが、マルクス主義の枠組みから出発しつつそれを内側から食い破って示される異様なヴィジョンは、その後の先生ご自身の実証研究、三菱長崎造船所を徹底的に描いた三巻本『日本近代化の基礎過程』は無論、後進の研究者たちにも影響を与えていますし、本来ならばもっと読まれてしかるべき本だと思います。


 労働問題を学んでいた大学院時代のもうひとつのお手本は、森建資先生の『雇用関係の生成』でした。この本は日本の社会科学の中で初めて明確に「労使関係」と「雇用関係」を区別した上で、会社と従業員たちとの集団的な関係である前者とは明確に異なる、雇い主と雇人の一対一の関係たる後者を社会科学の対象としてクローズアップした本です。本書は自由な契約主体であるはずの賃金労働者と、隷属身分の家内奉公人や奴隷を連続線上でとらえ、近代市民社会と身分社会の区別がそう簡単につくわけではないことを、数百年にわたるイギリスの判例と法律実務書の膨大な蓄積を精査しつつ論証しています。実証的社会科学者たることをあきらめたぼくですが、近代とは何か、資本主義とは何か、あるいは市民社会とは何か、という問題について原理的に考える際のベンチマークが、実証史家たるこのお二人の本にあることは、拙著『政治の理論』からも明らかでしょう。


 ぼくの近代観の基礎を作ったこの二冊にもう一冊付け加えるなら、在野の思想家関曠野さんの『プラトンと資本主義』です。現代の研究水準からすれば、誤った――というより的を外した主張をしている本だとは思いますが、鋭い問題意識と雄大な構想力は今なお意味を失っていません。ただ、木庭顕先生の『ローマ法案内』を読んでしまった今となっては、ギリシアを顕彰する一方でローマをくさす関さんのこの本を、もはや素直に読むことはできません。市民社会の原点たる共和政ローマから遠く二千数百年後の現在までを見晴らす本書は、五〇を過ぎて再び一から考え直す機会をぼくに与えてくれました。


 九〇年代初め地方に定職を得られたぼくは、国立大学の最後の長閑な日々の恩恵を被り、『ナウシカ解読』で物書きとしてやや変則的なデビューを遂げました。その後のより「堅い」仕事『リベラリズムの存在証明』への道を開いてくれたことも含めて、この本と版元の窓社には恩義を感じていますが、意外かつ有り難かったのは永井均さんが図書新聞の「今年の収穫」で本書を挙げてくださったことです。本書も『存在証明』も永井さんのお仕事、とりわけここに挙げた『〈魂〉に対する態度』から強い影響を受けています。永井さんには『存在証明』に対し「書いた時には存在していなかったはずの仮想論敵」との評価をいただいて恐縮したことを覚えています。以降ぼくの仕事は完全に実証社会科学を離れ思弁的な倫理学・政治哲学にシフトしていきますが、永井先生の徹底的にニヒルで浮世離れした思考は常に気になっています。他方でもっと(少なくとも見かけは)堅気の哲学者としてお気に入りの存在はドナルド・デイヴィドソンです。デイヴィドソンの仕事の核心には「合理的主体性とは何か」という問いがあり、これは社会科学の基礎理論の問いとしても読み替え可能だと思います。『合理性の諸問題』にはそれが比較的わかりやすく提示されています。


☆10冊(順番は「順位」ではなくおおむね「出会った順」)
*小中学生のころ


1 

チポリーノの冒険 (岩波少年文庫)

チポリーノの冒険 (岩波少年文庫)

 タマネギ小僧のチポリーノが、暗愚で暴虐なレモン大公の支配する国で自由を求めて闘う、まあありがちといえばありがちな子ども向けファンタジーですが、その中では傑出した楽しさにあふれた古典です。改訳されて現在も流通しています。


2 

フェッセンデンの宇宙 (河出文庫)

フェッセンデンの宇宙 (河出文庫)

 戦前は通俗冒険SFを量産し、戦後はスーパーマンなどアメリカンコミックの原作者として活躍したハミルトンの短編集です。表題作は今や宇宙論などで大真面目にその可能性が論じられる「人工宇宙」のアイディアを提示した古典中の古典です。


*大学生として


3 

プラトンと資本主義

プラトンと資本主義

 マックス・ウェーバーの「資本主義の精神」論を検証すべく、その原点を古代ギリシアプラトンの思想にまでさかのぼる野心的な力技です。「「資本主義の精神」の原点はプラトン哲学である」というその主張の当否はともかく、通常プラトンの引き立て役にしかならないソフィストの偉大さを含めて、古典古代期のギリシア民主政が今なお我々にとって「ベンチマーク」であり続けていることの意義を強く印象付けてくれます。


4 

 本文を参照のこと。どう転んでも決して万人向けではありませんが、もう少し読まれるべき本です。


*大学院生として


5 

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

 本文を参照のこと。個人的意見を言わせていただければ、本書を読まないから日本のフェミニスト社会科学は学問的に未熟なままなんです。


6 

「魂」に対する態度

「魂」に対する態度

 永井哲学の真価が誰の目にも明らかになった記念碑的一冊ですね。


*大学教員になってから


7 

世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間

世界の究極理論は存在するか―多宇宙理論から見た生命、進化、時間

 天才物理学者が物理学者の分を踏み越え、宇宙とその中での人間知性の運命について縦横に想像をめぐらせた一冊です。続編というべき新著『無限の始まり』(インターシフト)もあります。


8 

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 20世紀におけるSF失速の理由の一つは、村上春樹にも明らかなように、主流文学における「寓話の復権」であり、「人類の運命」とか「歴史の意味」を問うべくファンタジックな仕掛けを普通の小説家が好き勝手に使うようになったからですが、イーガンのすごいところは、「人類の運命」「歴史の意味」あるいは「人生の不条理」を描くために彼が用意する非現実的な架空世界が、普通のSF作家やそれこそ主流文学とは異なり、本気の物理学的・数学的考証によって綿密に構築されているところです。本書もその彼の特質がいかんなく発揮されています。


9 

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

 デイヴィドソンという人は非情なまでに玄人好みの、専門家にしかその意味が分からない論文のみを延々と書き続けた人ですが、間接的なものまで含めるとその影響は大変なものです。現代の人工知能やロボット工学における基礎研究として「意図の論理学」「行為の論理学」ともいうべき領域がありますが、その基礎を作り上げたマイケル・ブラットマンはデイヴィドソンの弟子であり、デイヴィドソンの行為理論の影響を強く受けています。
 この論文集はデイヴィドソンの著作の中では比較的とっつきやすいもので、素人であるぼくなどは重宝します。


10 

ローマ法案内―現代の法律家のために

ローマ法案内―現代の法律家のために

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

 かつて東京大学本郷の生協書籍部でベストセラーになったという本書は、学士院賞に輝いた『法存立の歴史的基盤』にいたる木庭先生のギリシア・ローマ三部作をもとに、学生・一般法曹向けの教科書として書かれたものです。この三部作は正直法律学西洋古典学か、そのどちらかに素養のある読者でなければ到底歯が立つものではありませんが、『案内』の方は頑張れば素人でもなんとか読めます。私たちの生きる「市民社会」の原点はギリシアのポリスとローマのレス・プブリカにあり、そこはその限界も含めて、いまだに立ち帰られるべき原点なのです。


☆1冊

ベイズ統計の理論と方法

ベイズ統計の理論と方法

 「今読んでいる」というより「今読む準備をしている」状況です。かつての人工知能が「論理学の機械化」だとしたら現代の人工知能は「統計学の機械化」ですが、その理論的基盤についての深い考察がここにあるそうです。まだちゃんと読んでいないのになぜそれがわかるかといえば、著者のサイトにある学生向けの講義スライドを見たからです。この本自体を薦めはしませんが、人工知能に興味のある方は、一度著者のサイトをご覧になることを勧めます。現代統計学は革命の真っただ中にあり、科学の全体をひっくり返すのかもしれません。どうやら統計学は単なる科学の道具ではなく、それ自体で固有の深遠な内容を持つエキサイティングな科学なのです。