ヘイトスピーチと言論の自由につき思いつき

 生煮えで恥を晒すところが多いがちょっと書いてみた。
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 応用哲学会のシンポで若い人たちが報告したヘイトスピーチ言語哲学的解剖はとても面白くて論文になるのが待たれるけど、帰りにちょっと大庭弘継君と話した通りいろいろ難しいところもある。
 言語行為論を用いてヘイトスピーチ発話行為であり、通常「言論の自由」が想定している発話と行為の切断、行為から切断された独立の言論空間の設定を悪用したものである、という指摘はたしかに正しい。言論の自由が前提としている言論空間の中では、たとえ大量殺戮の計画とそれについての討論であれ「決してそれが実行に移されることはない」という前提が確固として守られるのであれば、当然に許容される。ヘイトスピーチについても同様の論法がある程度は可能だろう。すなわち、それが実生活における差別行為を伴う、帰結することがなければ、だ。ところがいわゆるヘイトスピーチはこの境界を侵犯している。言論空間の中の思考実験?にとどまることなく、実生活上の効果を及ぼそうとする。
 このようなことが起きるのは言うまでもなく、厳密に言えば実生活、行為から切断された言論、純粋発話などというものはなく、すべての発話は発話行為として、何ほどかの実践的効果をもたらすからだ。しかしながらやっかいなことに、この真実をまじめに取りすぎて「独立した言論空間などというものはありえない、虚妄だ」と言い出すと、これは反対方向への暴走である。すなわち、行為の自由から区別されるものとしての、固有の意味での言論の自由が死んでしまう。つまり発話空間、言論の自由の場とは人為的構築物、人工物なのである。ヘイトスピーチ発話行為として実践的な害悪を及ぼす以外に、その際この人為的構築物としての自由な言論空間を悪用することによって、それを掘り崩し消耗させる。「なんのための言論の自由なんだ?」という懐疑を蔓延させる。
 とはいえ言論空間は、実生活から隔離された純然たる遊び場というわけではない。厳密に言えば、実生活、現実の行為から切り離された自由な言論の空間には、複数の機能が課されている。ヘイトスピーチの自由、ならぬ社会的に害悪な悪口雑言を垂れ流す自由、とは言ってみれば「便所の落書きの自由」、であり、落書きの場所たる公衆便所は公共空間ではあるとはいえ、用便という私的な営為を緊急避難的に行う、つまり一時的に私的な空間を供与するために存在しており、自由な言論の空間ではない。それゆえ便所の落書きは、「便所の落書き」にとどまる限りにおいては、公的言論ではない。それゆえにヘイトスピーチではない。ヘイトスピーチは「言論の自由」原則に依存しようとする限りにおいて、公的言論、ただし公的言論の前提条件を掘り崩す自己破壊的な公的言論である。話を元に戻すと、広い意味での言論の自由には、「言論の自由」の基本、パラダイムである公的言論の自由だけではなく、このような私的領域における言論、発話、つまりはおしゃべりの自由も含まれてしまう。公権としての言論の自由と、私権としての言論の自由、「放っておいていもらう権利」がある、というわけだ。
 では公権としての言論の自由とはなんだろうか? これはなかなか厄介なことで、いっそ「そんなものはない」と切れてしまいたくなることもあるが、頭を冷やして続けよう。公的な言論は公的な効果を持ちうる言語行為であり、かつ、特定の相手に向けられ、関係者間のうちにその効果をコントロールできる私的言論とは異なり、その効果は広く漏出しうる。つまり公共財でありうるし公害でありうる。――とこのような論理で「思想の自由市場」に対する部分的統制を正当化することはできるだろう。しかしこのような一般論で終わっても仕方がない。どのような規制が、どの程度必要か、である。
 特定の個人に対する「殺す」といった脅迫は、言論の自由にとって自己破壊的であるから規制されるという理屈はたいそう見やすい。それに対して団体、組織、法人に対する「殺す」ならぬ「潰す」といった脅迫はどうか? その有害性は一等減じるであろう。きわどい隘路だが、問題の団体が自由意思に基づく結社であるならば、関係者たる生身の人間自体への脅迫を避けつつ、その団体そのものの存在意義を否認し攻撃することは不可能とは言えない。これに対して現今の「ヘイトスピーチ」で問題となっている、自由意思に基づかない、それによって変更が困難な属性やそれを共有する集団への攻撃は、このような分離がほとんど不可能であるため、生身の自然人への脅迫との相違は程度問題に過ぎず、場合のよってはより激甚な被害を生み出しうるので、規制されねばならないだろう。
 このレベルですめば話は簡単なのだが、そうもいかない。確認しておくが、言語行為論の意義は発話と行為の区別は厳密には成り立たず、すべての発話はそれ自体が行為である、ということの確認にあるが、それは逆に言えば、発話と行為、単なる言論と実践との区別は人為的な構築物であり、もともと行為の一種であった発話を、他の行為一般から切り離し、それどころか行為とは全く別次元の何物かである、ということに我々がしてしまった、ということでもある。言語行為論は「王様は裸だ!」と喝破したかもしれないが、我々が裸の王様の見えない着物をみえることにしていたことにも相応の理由があったのである。言論の自由、とりわけ公権としての言論の自由については、ここまで考える必要がある。
 そもそも私的な領域にとどまるならその自由は問題なく保障される一方で、公的領域に出てくればその効果について責任が問われ、コントロール困難な場合には公的に規制される、というのでは、言論というよりむしろ実践的帰結を伴う行為一般について当てはまる話である。わざわざ行為一般と区別された言論について考える必要がない。
 「言論の自由」と完全に一致はしないが重なるところの多いカテゴリーとしての「表現の自由」について考えてみよう。ここでも表現は行為一般とは区別される。それは一体どういうことなのか? 問題はひとつには、表現されるものは何か、である。普通「表現されるもの」といえば「表現の内容」ということになろうが、問題はそれだけではない。表現行為は通常、ひそやかになされるものではなく、そこでは行為自体も明らかな形で公的世界に露出する。表現において表現されるのは、表現の内容のみならず、その表現の主体の存在でもある。
 私的な言論・表現の厄介なところは、それが必ずしも「便所の落書き」的な匿名性のうちに埋没するとは限らない、ということだ。表現内容については私的であっても、その表現行為自体は匿名的にではなく、公然と行われ、表現主体の存在を公的領域に表示する場合もある。そして現代における私的な言論の自由は、むろん主として私権の行使ではあるものの、同時に最低限かつ致命的に重要な公権としての側面を――すなわち実存の開示を伴う。これはむろん内面の吐露ではない。吐露し得ない私秘的な内面を抱え込む存在であることの公的な開示であり、そのような存在であることの承認の要求である。この、最低限のベースラインとしての公的な表現ないし言論の自由は、言論・表現空間が成り立つための要件であり、絶対的に守られねばならない。このような実存の開示としての最低限言論・表現の上に、実践から相対的に距離がある無色透明な情報・知識がさらに折り重なる形で、実践的行為の空間から明確に区別された領域としての「言論の自由」空間がイメージされる。
 問題は、このような実存の開示としての言論・表現が、内容において公益に反する場合である。それが実存の開示である以上、当然に「便所の落書き」ではありえない。それでも、匿名的ではなくとも単なる私的な言論・表現であり、仲間内の陰口や軽口としてその効果が及ぶ範囲がコントローラブルであるならば、「放っておいてもらう権利」が主張できるだろう。だがそのような表現・言論が信書などの形でなされるならばともかく、公的領域で――それこそ、今日のインターネット上でなされるならば、それではすまない。しかしながらそのような言論・表現に対する公的な介入・規制は、当の表現者にとっては、自らの実存の開示自体を踏みにじるものと感じられてしまうのだろう。
(未完)

追記

 関連してハーバーマスの名著に少し先立つこの古典も読み返したいものである。

批判と危機―市民的世界の病因論 (フィロソフィア双書)

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