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シンポジウム「宇宙にひろがる人類文明の未来2015」配布原稿(2015年1月10日)

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宇宙植民の倫理学――どのようなものが考えられるか? メモ

                           稲葉振一郎(明治学院大学)


「創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺戟を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。」
──クロード・レヴィ=ストロース「人種と文化」『はるかなる視線1』みすず書房、34頁



 宇宙倫理学に限らずいわゆる応用倫理学全般、つまり実践的倫理学は、基礎的倫理学としてのメタ倫理学と区別して「規範倫理学」と呼ばれるが、更にこの規範倫理学には二つのタイプ、つまり「a(狭義の)規範理論」と「b批判理論」とが考えられる。本日の主題は前者であるが、それを論じる前に後者についても簡単に触れておこう。


 科学哲学・科学史・科学社会学といった科学論の伝統の中には、科学技術をテクノクラシー――つまりは技術官僚による支配体制と見立て、それに対する批判理論的アプローチ(いうなれば「科学技術の政治社会学」。初期の準拠枠を提供したのはネオマルクス主義、特にフランクフルト学派(ex.ユルゲン・ハーバーマスイデオロギーとしての技術と科学」)、その後フーコーの影響も甚大)が確固としてある。
 たとえば、原子力開発やバイオテクノロジー、あるいはインターネットを管理社会や高度資本主義と不可分のものとしてとらえ、そのもとでの人間疎外や抑圧について告発する。(フーコー派以降単純な疎外論は旗色が悪くなるが……。)


 しかし宇宙開発については、このような批判理論的アプローチはあまり実りあるとは言えない。
 第一に宇宙開発は「悪役」として迫力を欠く。現行の宇宙開発・宇宙利用、つまり軌道上の衛星を利用しての資源探査や通信等では、せいぜいが安全保障体制やネットワーク社会の一環としての意味付けしかできない。(批判理論は主として「現状」を批判するのが仕事である。批判すべき「現状」が大したことなければ……。)
 「未来の宇宙開発についてのヴィジョン(含むSF)」がイデオロギーとして現実にはたらきかける(人々の意識の在り方に影響を与え、ひいては政治動向にも……)可能性を念頭において、そうしたイデオロギーに対する批判もなされることもある(カルチュラル・スタディーズの科学批評、SF批評。ex.ダナ・ハラウェイ、フレデリック・ジェイムソン)が、そんなものにさほどの影響力があるとも思えない。
 その手の批評はよくできたものでも、あくまで「現実世界の寓話としてのSF(に描かれた宇宙開発)」の批評を通じて、現実社会の批判を行うのがせいぜいである。
 そうしたSF批評の中から、個人的に啓発された一例を挙げる。日本の小説家佐藤亜紀の小説論『小説のタクティクス』である。そこで佐藤は、デイヴィッド・キャメロンの映画『アバター』、ニール・ブロムカンプの映画『第9地区』、スティーヴン・スピルバーグの映画『宇宙戦争』、そして佐藤哲也の小説『下りの船』を挙げて比較している。(SFとしては伊藤計劃著作も重視されているが、ここでは広い意味での宇宙SFに限定する。)
 乱暴に言えばここで佐藤が行っているのは、宇宙を新たなフロンティアに見立て、そこでの人間的自由の希求を、一応は帝国主義批判を交えつつも礼賛する『アバター』の陳腐さと、人間が塵のように捨てられていく地球上の現実がそのまま宇宙にも延長されていくさまを描く『第9地区』『宇宙戦争』『下りの船』とを対比しているわけである。
 ――むろん後者の方が上等だし面白いが、いずれにせよそこでの宇宙は単なる寓話の装置でしかない。
 宇宙開発の批判理論は、当分の間は「未来の課題」であろう。



 では、宇宙開発、とりわけ宇宙植民(人間の長期的な生活拠点が地球外の宇宙に確保される、というほどの意味で理解していただきたい)の規範理論について、すでに何度か触れてきたが、簡単に見てみよう。


 宇宙開発の規範理論においては、宇宙開発はどのようになされるべきか、そこでは何がなされてはならないか、そもそも宇宙開発にどれほどの意義があるのか、を考察することが主題である。(最後の方に行くと批判理論と交錯する可能性が出てくる。)
 この場合にもいくつかの立場がある。


 古典的、伝統的倫理学(西洋に限らず)においては、ひとの本来あるべき姿、なすべきことが積極的に想定され、現実の人間と社会をそれに近づけていくことが目指される。(実は正統派マルクス主義においてもそうであった。)
 宇宙開発はそのような「理想」足りうるのかどうか、がまずそこで問題となる。それに肯定的な答えが出されうるならば、あとは細かい実践論になる。


 他方、近代倫理学の主流はリベラリズムであり、そこでは「ひとの本来あるべき姿」は天下りに想定されない。
「権利」重視の立場(カント主義、ロールズ主義)からは「人の基本的人権を侵すことなく宇宙開発はどこまで可能か」が基本的な問いとなる。
「厚生」重視の立場(広義の功利主義)からは「宇宙開発は誰の幸福にどの程度貢献するか? その費用対効果は?」が基本的な問いとなる。


 では、この広い意味でのリベラリズムの線に沿って考えてみよう。
 現状での宇宙利用が地球周回軌道の無人衛星にとどまること、将来的に予想される科学的探査や資源開発でも無人機が主役となると予想されることは否定しがたい。それは有人探査のコストが(権利と福祉両面の観点から見て)甚大すぎるからである。リベラリズムの人間観が廃れ、古典的倫理学の復権(あるいはマルクス主義の復興?)が政治のありようまでをも大幅に変えることがない限り、更にそこでの「あるべき人間像」が「宇宙への人間の進出」を自己目的的に含意しない限り、この傾向が逆転する見込みは薄い。
 すなわち、かつての地球上での絶えざる人口移動、移民、植民の延長線上に大規模な宇宙植民の可能性を展望することはできない。移動した先でそのまま生存することはできないし、生存可能なレベルに環境を改造する(人工環境を持ち込む)コストに見合うだけの資源も期待できない。
 そもそも人口爆発はかつてのスペース・コロニー構想の立役者ジェラード・オニールらが危惧したほど激甚ではない。
 またそもそもオニールらの見積もりは甘すぎる。


 テラフォーミングは無論のこと、人工的な小規模バイオスフェアの維持さえも極めて高くつく以上、自発的にかつ低コストで自らの身体を宇宙に運び、かつそこで生活を維持しうる「人間」は、もし仮にそのようなものが存在したとしても、現状の生身の自然人ではありえない。それらは物理的・生物的に改造された人間か、あるいは逆に、「人間」と呼べるレベルの自立知性を備えた機械になるだろう。しかしそのような「人間」はどのようにして発生しうるのか? とりわけ、リベラリズムが支配的であり続けたとして? 
 また、そのような「人間」が大規模に宇宙に進出していったとすると、現在の地球社会を覆い尽くしつつあるリアルタイムネットワークからは外れることになる。これは非常におおざっぱに言えば人類史の長期的な方向性に対する逆転を意味する。宇宙植民地を含めた人類社会の中では、人やモノの移動はもちろんのこと、情報の流通でさえも光速度の限界によって大きな制約を受けるようになる。
 現状の自然人とは有意に異なった性質を備えた「人間」が、相互に物理的に切り離された生活拠点で、物理的にはおおむね自立した生活を営み、主として情報面で交流する――しかもパッケージ化された知識のやりとりが主となる――のみの世界において、もともと互いに異なった存在であった人々は、互いの異質性をより強めていくだろう。


 確認しておくが、このような「ポストヒューマン」主体の宇宙植民、という未来予想は、「リベラリズムの下ではこうなる可能性が高い」ということを意味しない。「リベラリズムの制約の下での宇宙植民は、このような形をとらないと許容されないだろう」という程度の意味である。
 また更にそこでは「道徳的・政治的強制が人々の宇宙進出を後押しすることはない」「宇宙植民する人々は、あくまでも自発的に移民する」と仮定されている。そして「宇宙植民する動機を持つ人々は、自然人ではなく何らかの意味でのポストヒューマンである」と考えられているわけだが、問題はここでリベラリズムの支配の継続が仮定されている以上、「宇宙植民事業のみならず、そもそもれがリベラルになされうるための大前提であるはずのポストヒューマンの出現――自然人のサイボーグ化にせよ、人造人間の開発にせよ――それ自体もまた、リベラリズムの制約の下でなされている」と想定されているということだ。人口爆発の圧力、つまり生存の危機による後押しがないところで、宇宙植民の可能性があろうがなかろうが、あるいは宇宙植民も生きる上での一つの選択肢以上のものではないところで、わざわざ人がポストヒューマン化を推し進めるとしたら、その理由は何か? 


 「好き好んで自らをまた自らの子孫を、意思疎通可能で同じ「社会」のメンバーたりうる範囲内においてではあれ様々に改造する人々が、すでに普通にたくさんいる社会」は「リベラリズムの制約」の下で許容されるではあろう。しかしながらリベラルな社会が必然的にそういう社会になるわけではない。では、どのような条件がそのような社会をもたらすだろうか?



 以上の考察の暫定的な結論としては、宇宙植民の倫理学は同時にポストヒューマニティー――ヒューマン・エンハンスメント、ロボット等々――の倫理学であらざるを得ない、というものである。


*参考文献
稲葉振一郎「宇宙倫理・ロボット倫理・ヒューマン・エンハンスメント倫理の交差点」『明治学院大学 社会学社会福祉学研究紀要』143号(2014年)
(未定稿:http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20131230/p1
佐藤亜紀『小説のタクティクス』(筑摩書房)

                              (2015年1月10日)
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