流れた研究会用のメモ


新自由主義neoliberalism」という思考停止用語について


何でもかんでも憎らしいものに対してレッテルを貼っているだけではないか?


☆例えば――


バブル崩壊前の日本経済についての理念的モデルとしての「日本的経営」「日本型企業社会」と「産業政策」「護送船団行政」の組み合わせ
その組み合わせを破壊し、退廃した安定を崩してより大きな混沌へと導いたのが「新自由主義」である――というのがバブル崩壊以降、ことに21世紀に入ってからよく聞かれる話
ネオリベ」という頭の悪そうな略称が出現したのは21世紀?


しかしながらそもそも「新自由主義」の語自体はもっと古い。
フーコーはすでに70年代、「福祉国家の危機」の時代に用いている。
石油ショック、財政危機、スタグフレーションから貿易摩擦の時代には大流行
80年代には定着


ただしその時代は――「ジャパンアズナンバーワン」
ケインズ政策への懐疑とマネタリズムの流行、「行政改革」の掛け声のもと「民営化」「規制緩和」の推進は日本でも見られた、しかし――
「日本的経営」と「護送船団行政」への信憑は揺らいでいない。
とりわけ――大量の失業を出さずに切り抜けた日本の企業と労働市場
(金融については? 金融革新の掛け声はもちろんあり、実際に様々変化は起きたが……。)


80年代の日本における「新自由主義批判」はどのようなものだったのか? とりわけ、「労働」「雇用」については?
「日本的経営」「日本的労使関係」「日本的雇用慣行」の変質や揺らぎが認識されていなくはない。
「民営化」による公共セクターの労働運動の衰退
民間主導の「労線統一」
「分社化」「柔軟な人事戦略」「派遣業法」
――こうした、「労働市場の柔軟化」に対してそれを「新自由主義」的と批判する向きが左翼の労働研究者の中になくもなかったし、それに対して労働政策に近いサイドの研究者が現状を合理化する傾向もあった。


――しかも厄介なことに、左翼はこうした柔軟化傾向に対して批判的であるだけではなく、旧来のあり方にも「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と批判的であった――ではどこにいきたいのか? 
 アカデミックな落としどころは、戦後日本のいわゆる「年功的労使関係」が実は実態としては競争的な「能力主義」的であることについて大まかに合意し、それをストレートに肯定する(代表が小池和男)か、そうした実態を共同体的・家族的雰囲気で糊塗する企業社会のありようを欺瞞として批判する(代表が熊沢誠)かの対立図式であった。


――しかし、マクロ的に言えば完全雇用が継続していたので、今となってはそんなものは「コップの中の嵐」にしか見えない!
「フリーター」なる語はバブルの産物、ただしこの時代「フリーター30歳定年説」がささやかれたように、個人的な限界にきたフリーターはいずれ安定した正規雇用に吸収されるものと想定されていた(ライフサイクル・サーバントならぬライフサイクル・フリーランサー?)――今日との大きな違い


――結局バブル崩壊以降、労働プロパーの研究者の大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない。
 それができない条件があるのに、それを問題にできない――つまりマクロ的な完全雇用有効需要不足は、労働研究者の道具箱ではとらえがたい。


☆個別の具体的雇用はどこまでもミクロ的、かつ実体的な現象
 それに対してマクロ的な完全雇用―失業は基本的には貨幣的現象


 市場が正常に機能していれば、価格メカニズムはたとえゆっくりとであれ取引を均衡に導く。ただし、市場の調整機能は基本的にミクロ的、というより局所的なもの。マクロ的、全域的な調整機能はない。(他の物の価格が大体変わらないと想定できるからこそ、ある物の価格の変化がシグナルとして機能する。ほとんどすべてのものの価格が激しく変動していたら、個別の価格変化はシグナルの用をなさない。)
 更に、取引の多くは時差を伴う信用取引であるから、金融秩序が健全でなければならない、すなわち、銀行が健全で、かつ貨幣供給が適切でなければならない。
 そもそも貨幣がなく、さらに信用取引がなければ、取引は即時的な物々交換しかありえず、実現の見込みの薄い取引は最初から行われず、均衡は保障される。
 信用取引や貨幣の導入は取引のチャンスを飛躍的に増大させるが、同時に不均衡の可能性が生まれる。
 実物の実需に基づく取引においては、価格メカニズムは基本的にネガティブフィードバックメカニズムとしてはたらき(需要不足だと価格が下がり、それが供給を減らし……)、均衡は安定的になるが、投機的な取引の場合にはポジティブフィードバックになることがありうる。
 たとえば、ある土地について、地価が上がったのだから買うまい、と思うのではなく、上がってるんだからもっと上がるに違いない、だから今のうちに買おう、と投資家たちが判断してますます上がる……これがつまりバブルである。あるいはそこから反転して、資産価値が底なしに下がり続けるのが恐慌である。それ自体が信用そのものである金融資産の場合にも同様のメカニズムが発生しがちであることは言うまでもない。だが、そうした投機的バブルを過度に警戒すると、十分に履行可能な取引までが抑制されてしまう。
 貨幣は複合的な現象であるが、今日その中で中核的な存在の一つは、他人から貨幣を含めた資産を預かり、それを担保(不正確な言い方だが)に貸出しを行う発券銀行である。その際銀行が発行する手形=銀行券(預金引き出し権を主とする債権の証券)が、複雑な金融システムのある社会におけるもっとも支配的な貨幣である。
 このような発券銀行が純然たる私企業としてのみ存在する、貨幣が民営化された世界も理論的には可能であるし、歴史的にもそれに近い状況は成立したことがあるといえよう。ただそういう状況においては、銀行は自己防衛のために貸し出しを、自分の発行する銀行券の発行を控えめにするだろう。つまり、貸し出しを抑制して貸し倒れを防ぎ、自行の銀行券の価値の安定を目指すだろう――つまりデフレ基調となるのである。
 これを回避しようとするなら、発券業務=貨幣供給を私企業に任せず、どこかで公的に統制する必要がある。今日広く普及している中央銀行システム、つまり特定の一行に発券業務を独占させ、同時に銀行の銀行としてすべての銀行と取引を持たせる(銀行に自行に預金させ、その手形として自行券を振り出す)仕組みは、この任務にこたえる存在である。個別具体的な発券=貨幣供給業務は銀行にゆだねつつ、そのマクロ的な総量を政策的にコントロールするのである。


 つづめていうと信用秩序が不在であれば、あるいはまた信用システムが全面的に民営で私企業の競争に委ねられていれば、経済はデフレ基調となり、取引は成り立ちにくくなる――つまり倒産、失業が増える。これを回避するためには中央銀行制度などの公的な貨幣供給の仕組みが必要である。


 民間の金融システムは放っておけばデフレ基調となる、とは述べたが、もちろん逆にインフレもありうる。中央銀行の任務は両面にわたるのである。


――こうしたヴィジョンを仮に「ケインズ的」と呼んだとして、ではマネタリズムは「反ケインズ的」か? 必ずしもそうではない。
 たとえば『一般理論』前、『貨幣改革論』の頃のケインズマネタリストと呼んでもよい。
 いわゆるケインジアンマネタリストの違い――失業等のマクロ的不均衡を「一時的」とみなすかどうか。
 マクロ的不均衡は、特に失業(需要不足)は信用の不足、貨幣供給の不足による取引の不全による、という理解は大体共通する。
 マネタリストはどちらかというと、そうしたマクロ的不均衡は一時的なもので、経済は常にそうした不均衡から均衡への調整過程にあり、かつその調整過程は中央銀行のマクロ政策によってスムーズにされるはずで問題とされるに足りない、とする。
 どちらかというとマネタリストは、すでに完全雇用(存在する失業は不可避的な摩擦的失業、「自然失業率」)であるはずなのに中央銀行が拡張政策をとり続けることによるインフレーションを警戒する。
 ケインジアンはどちらかというと、マクロ的不均衡の持続可能性を警戒する。が、この点については立場はいろいろ。
 正確に言うとケインジアンマネタリストは、背反したり矛盾しあう立場ではない。またその焦点もあくまでマクロ政策、貨幣政策にある。
 いわゆる「ケインジアンマネタリスト論争」がこじれたのは、他の論点(福祉国家、民営化、規制緩和等々)と輻輳したからである。(フリードマンのアカデミックな本業はマクロ金融だが、オピニオン活動はマクロ、ミクロ両面にわたっていた。)
(「マネタリスト・マーク2」と呼ばれた合理的期待形成学派の一部は実は貨幣政策の短期的有効性さえ否定するので、本当は「マネタリスト」ではない?)
ついでに言うとハイエクマネタリストと言えるかどうか微妙である。晩年のハイエクは貨幣発行自由化論を打ち出した。つまり反インフレ的なものも含めてマクロ政策総体に対して否定的。フリードマンはそんな立場をとるはずはない。


新自由主義」のレッテルは「マネタリズム」「小さい政府論」「規制緩和論」「民営化論」をごっちゃにしたうえでその幻想の複合体につけられたもの、といった方がよい。


 比較的アカデミックに見て害のない「新自由主義neoliberalism」概念はフーコーのそれだが、そうなるとシカゴ学派が象徴する「マネタリズム」「小さな政府」「規制緩和」「民営化」複合と一見正反対の、フライブルク学派の「社会的市場経済」も入ってしまう。
 オルドリベラリスムスは穏健な福祉国家論であり、かつドイツのハイパーインフレーションのトラウマのせいか、マクロ金融政策や財政バランスについては一貫して緊縮志向。それが今日のEUの苦境の主因である。


 通俗的な(マネタリーな側面への理解を欠いた)ケインジアンのイメージは、実は初期ベヴァリッジ的(ケインズと出会う前の『失業』など)ということができる。そこでの失業理解はピグー的な摩擦的失業のそれであり、しばしば独占資本主義論的な不完全競争のイメージが混じる。そうした摩擦的失業を伴う労働市場のインフラとして、社会保険と公的扶助が構想される。後期ベヴァリッジ(『ベヴァリッジ報告』『自由社会における完全雇用』)においては、実はそれにケインズ的景気政策が加わっている。


☆マクロ金融政策とマクロ財政政策の関係
 金融的拡張政策の副作用――インフレーション
 財政的拡張政策の副作用――財政赤字


 マネタリズムの「貨幣錯覚」論――完全雇用時にインフレ政策によって拡張を図った時、人々はインフレによる賃金上昇によって労働市場の需要が逼迫したと一時的に錯覚するけれど、その錯覚は修正される――ケインズ的な意味での有効需要不足局面には通じない議論。


 リカード=バローの「等価定理」――赤字財政で一時的に需要喚起しても、人々はいずれそれを返済しなければならないことを予想できるから、そうした需要喚起には限界がある――もっともだが、インフレ政策で実質債務は削減できるので、赤字財政と拡張的金融政策をうまく組み合わせると良好な成果をあげられるかもしれない。


 マイルドであればインフレにはさほどの害悪はない。インフレは債権者から債務者への富の移転(前者の資産としての債権を目減りさせて実質的に課税する一方で、後者の負債を減免させる――つまり所得移転をしている)という効果を持つ。
 デフレがマイルドであっても破壊的な理由は、貨幣経済の下では実質金利にゼロ制約があるから。マイナス金利の実現が不可能とは言えないまでも困難。デフレ期には名目金利がゼロでも実質金利がプラスとなってしまい、仮に均衡実質金利がデフレ率を下回ると、名目金利をゼロとしてもこの均衡実質金利が実現できず、金融取引が不均衡――貸出し不足となって、債務不履行、倒産を増やしてしまう。


緊縮財政は、公債の価格を維持することにコミットするので、金融政策に対しても抑制的であることを求める傾向がある。


☆改めて、通俗的な「新自由主義」のイメージを切り分けする
aマクロ・マネタリーに緊縮志向か、拡張志向か
bミクロ・実体面において規制緩和か、規制志向か
c財政的に緊縮志向か、拡張志向か


 通俗的な「新自由主義」イメージはおおむねa軸における緊縮、b軸における規制緩和、c軸における緊縮を混交させたもの。しかしそうしたイメージで「新自由主義」批判を行う論者には、a、c両軸についてあまり定見を持たない人が多い。むしろ拡張志向をを古い「土建国家」のそれとして否定的に評価する人も多い。
 そもそも伝統的にマルクス主義者はマクロ的拡張志向に対してきわめて否定的。そうした発想の影響が残る限りにおいて、労働運動セクターも消極的(シュトルムタールが描く20世紀欧州労働運動。日本の場合現在もなお……)。農民運動は大体の場合拡張政策支持。なぜか? 小農は自作であれ小作であれおおむね債務者だから! 一方、初期の労働組合はスト資金が減価するインフレを嫌ったのかも……。
 実体としての「新自由主義者」など現実にはほとんど存在しない。それは左翼とリベラル左派の頭の中の幻影である。あえて言えば、そういう左翼が転向した場合にこそ、この戯画的な「新自由主義者」に最も近い何かになってしまう。


cf.シカゴ学派ノーベル賞学者を瞥見すると、フリードマンはミクロ的には一貫した規制緩和論者だったようだが、マクロ的にはそうでもない。スタグフレーション時代には断固とした緊縮的貨幣政策の主張者だったが、デフレ期の日本に対しては拡張的金融政策を提言した。合理的期待形成革命の立役者であるルーカスも似た立場。実物的景気循環論のプレスコットは、戯画的な「新自由主義者」にかなり近い。


☆いわゆる「リフレ派」の立場
 不況期における規制緩和、財政緊縮は明らかにマイナスである(競争が潰し合いのマイナスサムになる)、と考えるが、景気が良い時には財政健全化、規制緩和をむしろすべき、とする論者が多い。
 今日でもなお石橋湛山が範型を提供する。


☆a、b、c軸は完全に独立しているわけではないが、それでも区別されるべきである。

参考文献追加

お金の改革論 (講談社学術文庫)

お金の改革論 (講談社学術文庫)

大収縮1929-1933「米国金融史」第7章 (日経BPクラシックス)

大収縮1929-1933「米国金融史」第7章 (日経BPクラシックス)

貨幣発行自由化論

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ケインズかハイエクか―資本主義を動かした世紀の対決

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ヨーロッパ労働運動の悲劇〈第1〉―1918-1939年 (1958年) (岩波現代叢書)

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ヨーロッパ労動運動の悲劇〈第2〉―1918-1939年 (1958年) (岩波現代叢書)

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