機能主義についてのメモ(「理論社会学III」@筑波大から)

 これをしゃべったというよりはあそこで思いつきでしゃべったことの敷衍である。
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 「社会学の基本形はロバート・K・マートンにあり」――つまり彼の言う意味での「機能主義」「中範囲の理論」にこそ、社会学の極意はある。あえてそう言い切ってみる。
 いかなる意味においてか?


 社会学という学問の特徴を、拙著『社会学入門』では暫定的に「社会的に共有された意味・形式についての科学」としてみた。あるいは他の機会においては、社会学は実は「社会人間学」、つまり、客観的な社会的現実についての学であると同時に、それ以上に、それについての人々の主観的な経験についての学でもある、とも述べた。この二つの規定を交差させてみよう。
 社会学が問題とする、社会についての人々の主観的な経験とはもちろん、社会的に共有された意味、の一部でもある。そのような、多くの人々の間で共有された、自分たちが生きる社会についてのイメージ、人々が共有する社会観、が、マックス・ウェーバーの言う「理解社会学」の基本的なターゲットである。それを佐藤俊樹は、普通の意味ので社会科学の理論たる「二次理論」とは区別して「一次理論」と呼んだ。あるいはこれを「心の哲学」における「素朴心理学folk psychology」なる言い回しをまねて「素朴社会学folk sociology」と呼ぶこともできよう。
 社会学を他の社会や人間を扱う科学、例えば経済学や心理学から分かつのは、他の諸科学はこの「素朴社会学」の水準を必ずしも必要としない、ということである。基本的にそれらは、「素朴社会学」(や「素朴心理学」)とは別の水準で、現実の人間・社会の作動にまつわる客観的な現実をモデル化する理論――たとえば経済学の「ホモ・エコノミクス」モデル――を持っており、それに準拠する。人々の主観的な認識や証言よりも、そちらの方を信頼する、とさえ言えよう。それに対して社会学は、人々の主観的な社会認識を無視しない。それがたとえ現実から外れた誤謬を含んでいたとしても、端的に無視するのではなく、そういう誤謬を含んだ認識に基づく実践が、社会的現実にフィードバックされていく可能性をも忘れない。
 しかしながら、社会学において「素朴社会学」、人々の主観的な社会認識が重要である理由は、それだけではない。それが「機能」という概念に集約されている。
 マートンの有名な論文に「顕在的機能と潜在的機能」があるが、ここでの「顕在的」とはまずは人々に意識され、気付かれているという意味であり、「潜在的」とは気づかれておらず、意識されていないという意味である。しかしながら注意すべきは、第一には当然のことながら、どちらも「機能」の名を関して社会学――というより社会科学的な分析の対象となっている以上、客観的な作用を社会的な現実のレベルで引き起こしている何事か、である。しかしながらさらに第二に注意さるべきは、「顕在的機能」を果たしている物事の方も――マートンの分析事例は犯罪組織、自警団としてのマフィアであるが――、気付かれていないのはあくまでもその一部の機能でしかない、ということだ。マフィアの存在自体は多くの人々に気付かれていて「顕在的」であることは言うまでもないし、またその社会的な機能(並びに逆機能)の多くもまたよく知られ「顕在的」である。そしてこうしたマフィアの存在とそのいくつかの機能が「顕在的」でなければ、そもそもその「潜在的」機能が発見されることもない。
 経済学者ならば、すでに確立された「ホモ・エコノミクス」仮説、合理的選択モデル、あるいは進化論的推論を用いて、当事者たる人々の認識とはお構いなしに、客観的な観察者として現存する社会的慣行その他の「潜在的機能」を遠慮会釈なしに剔抉していくことを好むだろう。しかしながら社会学者は、あくまでも、問題の社会的コンテキストを生きる人々の当事者としての「顕在的機能」への認識を手掛かりに、それをずらしたりその裏側を探る形で「潜在的機能」を探索していく。その意味において「機能理論」とは抽象的な一般理論ではありえず、特定の具体的な状況に応じた「中範囲の理論」でしかありえないし、また「理論」というよりは具体的な実証研究の方法論、発見的技法とむしろみなすべきものなのだ。
 以上のように考えるならばいわゆる「社会的構築主義」の意義もより明らかとなる。「社会問題への構築主義的アプローチ」とは、客観的実在と信憑されている「社会問題」を主観へと還元していくことを目指す懐疑主義ではなく、むしろ「顕在的」な「社会問題」の「潜在的」相を剔抉しようという素朴なほどの実在論に根差しているのである。


 整理しよう。意図的な行為は通常、その意図された目的として「顕在的機能」を有している。しかしそれ以外に、気づかれていないがそれが恒常的に引き起こしているほかへの影響、効果をとりあえず「潜在的機能」なる言葉で言い表すことができる。しかしのみならず今度は焦点を「行為」の方から「機能」の方に移して、その機能を同様に果たしうる――ある程度は現にはたしているかもしれない他の何事かを探していく。「機能」概念は説明においてのみならず、このような発見的役割をも期待されている。ニクラス・ルーマンが「等価機能主義」という表現で言おうとしたことである。つまり、いくつかのファクターを識別同定したうえで、それらの関係を理解するために「機能」の概念が用いられるのみならず、考慮に入れるべき新たなファクターを発見するための梃子としても「機能」の概念は頼りにされるのだ。

社会理論と社会構造

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