中江兆民『三酔人経綸問答』評

 ゼミでしゃべったことをもとに。
==================
 中江兆民『三酔人経綸問答』という本の切迫感とアクチュアリティを支えているのはその独特の問答体、三人のキャラクターが、それぞれある程度一貫した政治思想的なスタンスのみならず、人格的な個性、肉体的な息遣いまでをも割り振られ、論争を繰り広げるという体裁である。これはたとえば丸山真男が指摘している通り、世界的にのみならず、日本の思想史上もいくつかの先例を見つけることができるスタイルであるが、その中でもある種の突出性を帯びている。
 複数の登場人物のうちの特定の一人、主人公格のキャラクターが、著者自身の思想を仮託され、他のキャラクターたちはこの主人公、すなわちは思想家としての著者自身に対する(仮想)論敵としてありうべき疑問、反論を突き付け、それに対して主人公が応じる、というスタイルは、ひとつのありふれたパターンである。はなはだしい場合は主人公は師匠として、他のキャラクターたちは意欲はあるが知識や思慮の足りない弟子たちとして描かれる。あるいはプラトンによるソクラテスを主人公とする対話篇のように、ライバルに常識や通説を代表させ、主人公によってそれを点検吟味し反駁する、といったものもある。ライバルが単なる主人公≒著者の引き立て役にとどまるのではなく、手ごわい論敵として登場し、自説に対する対抗理論が相応の公平さで描かれる場合も多い。
 兆民の本書は、この最後のパターンに当てはまるようにも見える。すなわち、若い洋学紳士君と豪傑君のラディカリズムに対して、最後に提示される南海先生の穏健な提案は、まさに兆民自身の立場の表明と読むことができる。しかしながらよく読み込んでいくと、紳士君の論説にしても豪傑君の主張にしても、一見したところに比べてはるかに屈折して複雑なものであり、それだけの立体感を与えられているところから見れば、それはただ単に兆民の主張≒南海先生の見解の意義を際立たせるための当て馬という以上の意義を有している、との解釈も有力である。すなわち、議論を総括する南海先生のみならず、紳士君と豪傑君もまた、兆民自身の分身であり、彼ら三人は兆民の中に内在し葛藤しあう複数のスタンスを仮託されているのだ、と。
 筆者自身はいずれかと言えばむろん最後の解釈をとるものであるが、そこからもう少し議論を進めてみたい。すなわち、なぜそもそも兆民がこのようなスタイルをとったのか、を考える必要がある、ということだ。このようないわばポリフォニックなスタイルをとっている以上、本書は兆民自身の政治的な主張をストレートフォワードに世に問うために書かれていると考えるよりも、もう少し迂遠な目的のために書かれ出版されたと考えるべきであろう。
 ある特定の立場の主張のために書かれているのではなく、複数のそれぞれに対立しあう思想が提示され、そのどれが優位にあるとも決着がつけられないという形で書かれている本書は、普通の政治思想書というよりはむしろ文芸作品、小説に近い。すなわち、ある理念や教説を提示することを主題とするのではなく、その理念、教説を生きる人間の姿を描き、更にはそうした人間の住まう世界そのものを描く、ということを主題とするのが、この『問答』の本義である。現実を変革すべく理想を語るのではなく、多様な理想を抱く人間たちがぶつかり合うこの世界の現実そのものを読者に突きつけることこそ、ここで兆民がやろうとしていることである。そう考えると本書はなまじの思想小説よりよほど「小説」としての資格を備えている。
 このように本書がストレートな「論説」ではなく「小説」としての骨格を備えている理由として今一つ注目せねばならないのは、三人の登場人物が思想の擬人化という以上に、生身の人間性を付与されているということである。つまりは三人の論争は単なる理論的討論、思想的対決にとどまらず、生身の人間同士の葛藤という側面を備えており、兆民が描きたかったのも思想の対決のみならずこうした実存の対決とでもいうべきものだったのである。
 坂本多加雄は、討論を総括する立場にあり、かつ思想の内容それ自体としてはもっとも兆民自身に近いと思しき南海先生のデタッチメントと、若い紳士君と豪傑君のコミットメントの対比に注目する。よく知られている通り本書の末尾では、問答後の三人の去就が軽く触れられるが、渡米した紳士君、中国大陸に渡ったという豪傑君に対して、南海先生は相変わらず酒びたりの無為の日々を送っている、と締めくくられる。すなわち、南海先生の冷めた現実主義は、若い二人の理想主義、ファナティシズムに比べて、現実に関与する力が弱い、というわけである。一見逆説的ではあるが、理にかなった解釈である。
 ここからさらに一歩踏み込むと、政治にとっての個人の実存、という問題から、更にその裏返しとしての、個人の実存にとっての政治、というテーマが浮上してくる。これはとりわけ豪傑君の言動を理解するにあたって看過できない論点である。一見したところ豪傑君は後の大アジア主義にあたるものの主唱者であり、問答後は大陸浪人となったことが暗示されているのであるが、大陸浪人という存在が単に日本帝国主義のアジア侵略の尖兵というにとどまらない、複雑で多様な様相を呈していたことは想像に難くない。むろんそうした後知恵を弄さずとも、テキストを虚心に読むだけでも、豪傑君の性格に与えられた過剰な陰影は十分に興味深い。
 紳士君においては、その掲げる理想と、彼自身の実存との間に、深刻な葛藤は存在しないように見える。しかしながら豪傑君は違う。かれは理性的には、実は南海先生の提示する現実主義的なビジョンに賛成している。しかし彼個人にとっては、それは全く面白くない。できうるものならば古代的な英雄豪傑のごとき武断的な生き方に身を投じたい彼には、そのような政治的選択に身をもってコミットしたところで、到底喜ばしい生き方ができるとは思えない。しかし彼は、そうした自分の性向が「遅れすぎた青年」として全くの時代錯誤であり、それに賭ける生が破滅的なデカダンスでしかないことを自覚している。それゆえに彼は、その破滅をもって歴史の進歩に貢献する捨石となることで、危ういバランスをとろうとする。
 この政治と実存との関係についての豪傑君の苦悩は、非常に乱暴に言ってロールズ以降、生きがいと政治を切断することをお作法とするリベラリズムの再台頭によって我々にとってやや縁遠いものになってしまったが、かつてはことにマルクス主義青年の間で真摯に受け止められたはずのものである。歴史の法則性と個人の自由にかかわっての「戦後主体性論争」とは結局、そういう問題を問うていたはずである。いや、マルクス主義青年の大半は、自らの生を捨石として貢献する歴史の進歩に、ストレートに自らを重ねるごく素直な殉教者であれるのに対して、豪傑君の屈折は際立っている。

*参考文献
丸山真男「日本思想史における問答体の系譜」(初出:木下・江藤編『中江兆民の世界』筑摩書房、1977年。のち丸山『忠誠と反逆』筑摩書房、1992年、に収録。)
米原謙『兆民とその時代』(昭和堂、1989年)
坂本多加雄中江兆民『三酔人経綸問答』再読」(『学習院大学法学部研究年報 26』1991年)


兆民とその時代

兆民とその時代

三酔人経綸問答 (岩波文庫)

三酔人経綸問答 (岩波文庫)