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「成長の政治経済学」についてのノート(未定稿)

 11月23日の科研の研究会での報告。
 実際にはこの前段のサックス、イースタリーらの論争を軸とする開発の政治経済学の簡単な展望を口頭で行ったうえで、このレジュメの要所だけを紹介した。
 未定稿だが単なる勉強ノートで金をとるようなものではないので公開する。専門家がご覧になっていろいろ不備を指摘していただけることを期待していることは言うまでもない。大幅に拡充したものをいずれ紀要あたりに載せて、更にまた大幅に圧縮して準備中の『政治理論入門(仮)』に取り込む予定。
 なお口頭報告で紹介したのは

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

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最底辺の10億人

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貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

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 経済学者Daron Acemogluらの研究グループ(他の中核メンバーは政治学者のSimon JohnsonとJames A. Robinson)による「成長の政治経済学Political Economy of Growth」のプロジェクトにおける一つの論点は、包括的inclusiveな政治制度≒民主政と、包括的な経済制度≒自由な(開放的で公平な)市場経済との相互依存(好循環)、それと裏腹の略奪的extactiveな政治制度――権威主義的独裁等――と、略奪的な経済制度――奴隷制農奴制等――との相互依存(悪循環)というメカニズムの存在の主張である。
 一時期のいわゆる開発独裁(1980年代頃の開発経済学でいわれた「韓国モデル」)や、あるいは第二次大戦後のソ連の高度成長など、略奪的政治制度の下でも一定の経済成長がみられたが、Acemogluらによればそうした成長は持続可能ではない。それは後発性の利益などの好条件による短期的なものである。何より略奪的政治制度の下では、(仮に計画・指令型経済が弱く、自由な市場経済制度が優越していたとしても)創造的破壊による技術革新への許容度が極めて低い。それは既存の産業構造を揺るがすことを通じて、既得権益に対して破壊的にはたらく。政治体制を支配するエリートの経済的基盤が揺るがされることを、略奪的政治制度は許さない。それゆえ、略奪的政治制度の下では、一見、政府による統制が緩められ、自由な市場競争がある程度進んだとしても、そうした規制緩和の限界はすぐに訪れる。つまり、略奪的政治制度の下では、包括的、開放的な経済制度は持続可能ではなく、あるいは一定の限界内に押し込まれる。こうした理解に立ちAcomogluらは、たとえば中国の経済発展も、現在の政治体制の下では長期的には限界に突き当たる、と予想している。
 逆に、包括的な政治制度としての民主政の方も、包括的な経済制度としての自由で開放的な市場経済に支えられないと、やはり持続が難しい、とAcemogluらは判断する。財産、とりわけ土地の社会的な分配が著しく不平等な状態で仮に形式的に著しく進んだ民主政が導入されると、急進的な再分配政策、社会改革などの進行が、富裕な社会的エリート層の危機感を煽り、クーデターの危険を高める。独立以降のラテンアメリカの、クーデターが反復される不安定な政治情勢は、このような観点から理解される、という。


 この理論はひとつの仮説としては有力であり、このメカニズムで理解可能な現実の出来事は多々あるとは思われるが、さてその通用性がどこまで高いか、については議論の余地は当然にあるだろう。とりわけ包括的―略奪的政治制度にせよ経済制度にせよ、そこには程度の差というものがあるのであるし、またその程度を測る指標が一時限的なものとも限らない。更に、この理論は進行するプロセスとその定常均衡について論じるためには便利だが、歴史的な「起源」問題を解くには不向きかもしれない。持続的経済成長のためには、包括的政治制度と包括的経済制度の両方がそろっていることが望ましい、とは言えるだろうし、現実にこれまでに生起した持続的経済成長が、包括的政治制度と包括的経済制度の好循環を生み出し、それによって支えられている、ということもできるだろう。しかし、そうした成長過程のそもそもの端緒、離陸の過程においては何が起きたのか――僥倖によって包括的政治制度と包括的経済制度の双方がほぼ同時に発生したのか、それともどちらかが先行したのか、を考える際に、どの程度役に立つのか、はさだかではない。
 実際Acemogluら自身もこのいわば「起源」問題については極めて禁欲的である。彼らの記述からあえて包括的な制度セットの「離陸」のありうべきメカニズムを定式化するならば、包括的な政治制度の確立(≒民主革命)が、一部の社会集団によってではなく、ある程度多元的な諸集団・諸運動の広範な連携によって達成される、というものであるが、そういうプロセスが進行するためにも一定の幸運な諸条件が満たされている必要がある。
 まずそもそも、この理論に従えば――それは事実認識として適格であるが――人類社会の歴史において、「自然」なデフォルトの「常態」であるのは、略奪的な制度セットの方である。ただしこの略奪的な制度セットにもさまざまなバリエーションが考えられる。一方の極には、略奪的政治制度における支配的エリートの実力が脆弱であるような状況が考えられる。このような状態では、支配者の地位に伴ううまみを羨望するライバルによる挑戦が頻発し、社会が潜在的あるいは顕在的な内戦状態になる。つまりはアナーキーであるが、現代において「破綻国家」と呼ばれる状況は、これにあたると思われる。このような状況では、広範な諸勢力の結集による「革命」は極めてありそうになく、具体的な支配者は入れ替わりつつも、略奪的制度構造それ自体は持続する、という可能性が高い。
 他方の極に、支配者が圧倒的な実力を持ち、ことに暴力行使を独占しているような状態が考えられる。Acemogluらによれば、包括的制度セットの「離陸」のためには、このように略奪的ではあっても十分に集権的で安定した政治制度が確立していることが、ほぼ必須の前提条件である。これはどういうことだろうか? このような状況下では、一部軍閥や武装集団のクーデター的決起による権力奪取は極めて難しく、支配者に対してある程度有意味な抵抗を提示するためにも、広範な諸勢力の連携が必要になる。また、こうした連携の結果なされた権力奪取は、一部の集団によるその成果の独占という形では、権力奪取への参加者を納得させることはできず、社会の中の多元的な諸集団をそれなりに納得させる包括的な制度セットの形成によってしか、妥協は成り立たないだろう、とも予想される。
 ただしこうした集権的権力の確立した状況下では、たとえ広範な社会的諸勢力の連携があっても、統治権力の圧倒的な強さ――とりわけ暴力の独占によって、抵抗と変革自体が極めて困難となるという要因も考慮せねばならない。この点を念頭に置きAcemogluらは、古典的な近代化理論とは異なり、経済成長が民主化をもたらす、という楽観にはくみしない。
 乱暴に言うならば、集権的な権力の確立(略奪的ではあっても安定した政治制度)が、経済成長を少なくとも短期的には可能とするが、ただ必ずそうなるというわけではない。その上で、そうした短期的・一時的な成長の下である程度の実力(ただし暴力行使の能力を除く)を蓄積した社会的諸勢力が広範に連携すれば、革命≒包括的な制度セットの確立に成功する可能性が、わずかながら存在する、ということになるだろう。だから、包括的制度セットの確立においては、どちらかと言えば政治的変革の方が論理的には先行しなければならない、と言えようが、それが可能となるための条件は極めて厳しい。


 少し角度を変えてみてみよう。Acemogluらの理論構想は政治的・経済的双方の「制度Institution」を重視するものであり、そう考えるならば「政治制度と経済制度のどちらが先行するか/重要か」よりも、「制度か、資本財か、人材か、知識か、文化か、あるいは自然環境か」といった問いかけの方が、彼らの議論の評価に際してはふさわしいことになるかもしれない。実際彼らの理論は後者の問いの地平に置いた時には、いわば「制度基底主義」とでもいうべきものとなる。非常に大まかに言えば、彼らの考えるところでは、良き制度、この場合には包括的制度は経済成長にとってのほぼ必要条件である。自然環境上の好条件が欠けていても、持続的経済成長は可能であるのに対して、良き制度が欠けている場合には、持続的成長は不可能である。制度がそろっていても、資本や労働力、それらを活用する知識がなければ成長はもちろんできないが、十分な資本や労働の供給があっても、また人々にそれを活用するに足る知識や能力があっても、制度的枠組みが整備されていなければ成長はできない。更に先述の通り、包括的制度が欠けているところでは、創造的破壊が抑圧されてしまう。その意味で良き制度、具体的には、万人の財産権の安定、取引の安全を保障する法制度と、それを実現しかつ保持するにたる政治機構が必要となる。ここで非常におおざっぱに、資本財、人材、知識、自然環境を一括して、(占有権、所有権、様々な債権等々すべてを含めた)財産権の対象となりうる対象をあえて「資源」と呼ぶならば、Acemogluらは「制度か、文化か、あるいは資源か」という問いを立てたうえで、「成長にとっては制度がもっとも基底的なファクターである」と答えていることになる。


 ただここで注意すべきは、Acemogluらの「制度」概念が基本的には経済学、合理的選択理論、ゲーム理論の枠組みの下で理解されている――ダイナミックゲームのナッシュ均衡として、定式化されているということである。つまりそれは、この文脈における社会学的な「文化」概念(その典型がWeberの「プロテスタンティズムの倫理」「世界宗教の経済倫理」)のような、特定のタイプの主体の行動様式やその独自の価値観(経済学的に言えば効用関数の形状で定式化されるべき?)ではない。そこでは人々、経済主体の価値観や欲求の対象の多様性自体は否定されていないが、各主体は自分なりの価値を追求するにあたって合理的に思惟し行為する、という意味においては同質な存在として想定されている。ここでの制度とは、そのような合理的な主体たちが、それぞれの環境の中で相互行為する中で到達するある種の定常的なバランスである。制度の形成と持続は、それに関与する人々の(意図的であれ無意識的であれ)合理的選択の結果である。それゆえに、制度変化の可能性は、困難ではあってもゼロではない、とされているのである。


 Acemogluらの議論においては、なぜ略奪的制度が持続するのか、とりわけなぜ支配エリートによるそれへのコミットが継続するのか、という問いへの答えは、乱暴に言えば「包括的制度に移行することによって、創造的破壊が解放されると、既得権益が掘り崩され、ライバルに支配的地位を奪われる危険が生じるから」というものであったが、もちろんそこにはある前提が隠されている(別に無視されているわけではないが)。すなわち、社会全体の生産力が十分に底上げされれば、少なくとも理論的には、(旧)支配的エリート層は、仮にその支配的地位から追い落とされたとしても、その収入、厚生水準を低下させずに済む可能性が存在するのだが、その可能性が無視できるほど小さい、という。
 支配的エリートの消費できる財は、自分たちが保有する生産的資源からの収益と、被支配層の富の収奪から得られるとすると、それを増やす方法は、(1)自分たちの生産力を上げること、(2)被支配層からの収奪率を上げること、そして(3)被支配層の生産力を上げて、収奪できる原資そのものを増やすことに大別されるが、支配層が十分な強制力を確保している場合には、(2)が少なくとも短期的には容易で確実である。更に支配的エリートの目標に、ただ単に自分たちの収入を増やすだけではなく、被支配層が実力をつけて自分たちにとって代わる危険を減らす、というものが含まれていると考えるならば、(3)が採られる見込みは少ない。
 こうした事情についてAcemogluは収入略奪revenue extraction、要素価格操作factor price manipulation、政治的置き換えpolitical replacementといった言葉で論じている。「収入略奪」とは、(2)に専心する搾取方式であると考えてよい。「要素価格操作」とは搾取率、税率などを操作する(ことを通じて市場における価格メカニズムを歪める)ことによって経済主体の動機づけを歪めることであり、(3)の反対に被支配層の生産意欲、収入を減らし、(1)をいわば不真面目なやり方で――エリート層自身の生産力を高めることによってではなく、市場において有利な地位に自らを置くことによって達成することである。「政治的置き換え」とは、主として要素価格操作を通じて被支配層の経済力をそぎ、政治的挑戦の不可能にすることである。Acemogluによれば、長期的な投資の阻害効果などの点を考慮に入れると、収入略奪よりも相対的価格操作の方が経済成長にとってはマイナスである。


 以上の議論を踏まえるならば、大体において次のような、一見矛盾した仮説を引き出すことができる。
(A)政治的エリートが私有財産を保有し、統治行為と並行して私的経済活動を行うことは、エリートが政策と法の運用を自分に都合よく操作する動機を与えるので、市場経済の効率を歪め、成長にとってマイナスである。
(B)政治的エリートが統治行為それ自体からは収益を引き出さず、むしろその私有財産から収益を得るならば、政治的エリートは政治的支配者の地位それ自体に固執する理由はない。
 一見矛盾したテーゼであるが、もちろんそんなことはない。要するにこれは我々の知る「民主主義」「法の支配」の理念のインプリケーションに他ならない。政治的エリートは「階級」ではあってはならない、政治的支配権力を資産として保有する特権的身分はあってはならない、ということだ。そうではなく、政治的エリートは単なる「官職」でなければならない。
 政治的エリートの「官職」から特段の便益が帰結しないのであれば、エリートはその収入を(「官職」とは別に私的に保有している)自らの資産から得なければならない。それだけではもちろん、エリートは法を恣意的に運用して自らの階級にとって有利な政策を実施する動機を持つが、他方このエリートが「官職」を占める根拠が「民意」にあり、「民意」に背いた場合には職を追われる可能性がある場合には、この動機が減殺される。更にそもそもこのエリートの地位、「官職」が基本的に万人に開かれたものである場合には、エリートが自らの階級にのみ有利で、他の階級を不利化するような政策を行う動機は、更に削がれる。


 更にそもそもこの種の議論、つまり略奪的制度か包括的制度か、という議論は、経済成長――一人あたりの生産力、消費、富の増加が可能であるという前提のもとでしか意味がないことにも、注意しておかねばならない。

 簡単にまとめるならば、Acemogluらの仮説は、技術革新による持続的な経済成長のためには包括的経済制度(≒自由な市場経済)が必要だが、それだけでは不十分で、包括的政治制度(≒自由民主主義)もまた必要である、というものである。ただしその双方がそろえば十分というわけではない。民主政治によるものであろうとなかろうと、財政を通じた再分配は、場合によっては成長抑制的にはたらく。財政的再分配――課税と所得移転は市場を――というよりインセンティブをゆがめて、資源の活用を不完全にするからだ。しかしながら自発的拠金ではなく、強制的課税によらなければ、公共財の供給は不十分となる。一般論としていえば、民主的であれどうであれ、市民社会に対して弱すぎる政府は公共財を十分に供給できないことによって、強すぎる政府はインセンティブをゆがめることによって、成長抑制的にはたらいてしまう。成長抑制がゼロとはいかないが、最小で済む、政府の最適な強さとでもいうべきものが、その中間のどこかに存在することになる。


 再分配それ自体がインセンティブをゆがめて成長抑制的にはならず、むしろ資源配分の効率性を高めて成長促進的となる理論的可能性もまた、少なからぬ論者によって指摘されている。ここで重視されているのはひとつには信用市場の不完全性であり、それゆえの投資不足、とりわけ人的資本投資≒教育訓練投資の不足である。まず第一に、研究開発投資や教育投資は収益見込みの不確実性が高いため、信用市場が未発達な状況下ではどうしても不足しがちである。そして第二に、研究開発投資や教育訓練投資、つまりは知識資本や人的資本の蓄積はネットワーク外部性を持つと考えられるため、たとえ信用市場が完全であっても、公共財と同様、市場的配分のもとでは供給不足に陥る。こちらの方は、Paul Romer以来、内生的成長理論の中心テーマであり続けたし、そうした外部性の再分配による利用の可能性も、Acemoglu自身のほかRoland Benabou、そして後述のOded Galorらを含めた多くの研究者たちによって、政治経済学的分析の対象となってきた。
 つまり、信用市場の不完全性を補うため、そして更に、ネットワーク外部性を生かすためには、自由な市場的取引にまかせるだけではなく、政策的介入が有意義になりうる、というわけである。しかしながらもちろん問題は、どのような介入、再分配が有意義なのか、それをもたらす政治メカニズムとはどのようなものか、である。それをどう定義するかによって議論はいくらでも変わりうるが、おおざっぱにいって民主政による再分配が、富者から貧者への富の移転を行う傾向がある、位は言ってもよいかもしれない。しかしながら、「富者から貧者への富の移転」は、「生産性の高いセクターから生産性の低いセクターへの富の移転」とは必ずしもイコールではない。
 Acemogluによる要素価格操作の理論的分析において、歴史的事実の上での典型的なケースとして念頭に置かれているのは、封建領主や大地主など、伝統的セクターに基盤を置く支配エリート層と、産業革命を支える新興産業の市民層の対抗関係であり、この場合はむしろ「富者から貧者への富の移転」ではなく、反対にストレートな収奪、「貧者(というより中間層だが)から富者への富の移転」ないしは「貧者(中間層)の更なる貧困化」であり、と同時に「生産性の高いセクターから生産性の低いセクターへの富の移転」であるか、あるいは「生産性の高いセクターの抑圧」である。しかしもちろんこうした構造は典型的には民主革命以前のレジームにおけるものである。
 では民主革命、ないしその脅威の存在のもとでの政治体制の包括化以降では、どのようなことが起きうるか? もちろん、さまざまな可能性があるのだが、Acemogluの議論を参考にベンチマーク的なケースについて少し考えてみよう。
 Acemogluは分析の都合に応じて、政治社会を(自身で生産活動を行う場合もあればそうではない場合もある)エリート支配層と(自身で生産活動を行う)市民、という二分法でモデル化することもあれば、支配層と中間層(自前の財産で生産活動を行う市民)、そして労働者(無産階級、賃金労働者)の三分法のモデルも用いる。またそれ以外にも、特に民主政の分析に際しては単一階級社会、すべての主権者市民はヨーマン的自営業者、有産者であって、ただ財産の多寡の格差、富の量的な不平等が存在する、というモデルも用いられる。
 これらのモデルを民主政とそのもとでの再分配の分析に用いるとすれば、(1)旧支配層を追い落とした直後の(a)中間層独裁、あるいは(b)労働者独裁のケースと、(2)より洗練され、制度化された民主政のもとでの階級間取引のケース、そして(3)単一階級社会のケース、といったいくつかの典型例が思い浮かぶ。このうち中間層独裁は過渡的な制限民主政のケースと考えるべきだとすれば、ベンチマークとして考慮すべきは労働者独裁と単一階級社会、ということになるだろう。
 労働者独裁のケースはかなり悲観的な予想しか生み出さない。ここで労働者はあくまでも無産者として、つまり富の移転を受けて所得を向上させても、それを人的資本にであれ物的資本にであれ投資して、中間層へと移行することのない存在として想定されている(こうした想定は不自然ではある)ので、ここでの再分配は「富者から貧者への富の移転」であると同時に「生産性の高いセクターから生産性の低いセクターへの富の移転」であって、あくまで成長抑圧的である。
 これに対して単一階級社会の場合には、もう少し事態は複雑である。この状況下では誰もが有産者であり、投資の主体である。だから移転された富は、投資の原資ともなりうる。問題は、どこからどこへと富は移転されるか、である。こうした単一階級社会のもとでの普通選挙制からどのような結果が出てくるか、現実の歴史をみるならばまったく自明ではないが、経済学流にあえて単純に考えるならば、Anthony Downs以降の投票の経済分析における「中位投票者定理median voter theorem」がベンチマークとして役に立つ。
 課税と所得移転を問題として、投票する市民の性質がみな同じだとするならば、財産、所得が多く、課税による負担が所得移転による利益を上回ると予想されるものは低い税率(と少ない給付)を、逆の場合には逆に高い税率を望むと思われる。そうなった場合に、この財政による再分配を争点として行われる多数決投票で、キャスティング・ヴォートを握るのは、中位投票者median voterであり、選挙において勝利を収め政権を握るのは、この中位投票者の選好を実現する政策メニューの提示者である――というのが、「中位投票者定理」の非常に乱暴な要約である。
 さて問題は、この「中位投票者」が、社会の中で相対的に「富者」の方に位置するのか、「貧者」の方に位置するのか、である。理論的な可能性はともかく、経験的にいえば、所得や富の分布における中位medianが平均averageと一致することはまずない。それどころか通常、中位は平均averageを相当程度下回っているものである。となれば、選挙とそれに基づく政策決定が、中位投票者定理の予想から概ね外れずになされるとすれば、富・所得において平均的な市民もまたどちらかというと「富者」の側に数えいれられてしまうので、財政による再分配ははっきりと「富者から貧者への富の移転」となる。(反対に、中位投票者が平均以上の富・所得を得ている場合には、そもそも課税による移転は行われないだろう。)この場合、(人的資本を含めた)資本のネットワーク外部性が存在しなければ、こうした課税と移転支出はディスインセンティブ効果を持ち、成長抑制的となってしまうであろう。
 しかし、このような分析の含意は――それが仮に妥当だとしても――必ずしも自明ではない。たとえば、以上の分析からは、財政による再分配は、エリート支配のもとでは不平等を温存し、かつ成長に対して抑圧的に作用する、ということはあまり問題なく言えそうである。そしてそれは、途上国における貧困問題を理解するにあたっても、有益な知見を与えてくれそうだ。
 しかしながら民主政のもとでの再分配については、どうだろうか? そうした再分配もまた、多くの場合にはむしろ成長抑制的であろう。それゆえその効果は、短期的には社会における不平等を緩和するとしても、長期的には貧困者を含めた社会全体にとっての不利益を招来するかもしれない。Acemogluらが示唆する通り、南米における民主政の不安定性は、こうしたメカニズムと関係があるのかもしれない。
 しかし実は、それだからと言って、民主政のもとでも、再分配を可能な限り抑制すべきだ、という結論が直ちに出るわけではない。経験的にも、クーデターを通じた民主政と独裁制の循環という現象は、以上ではないが、かといって必ずしも普遍的なものではない。理論的に見ても、すでに触れたとおり、市場の失敗、特に信用市場の不完全性や、ネットワーク外部性の可能性も存在する。
 だがそれ以上に注意すべきは、以下の問題である。「極端な所得や富の不平等の存在するもとでの民主政は、特に貧困者の利益を代弁して積極的な再分配を志向した場合には不安定となりうる」ということが事実だとしよう。しかしそこからストレートに「長期的には持続的成長が最貧困層の生活水準をも絶対的に改善することが期待できるから、民主政のもとでも再分配の抑制は可能であるし、それを目指すべきだ」という(新自由主義的?)戦略が、最も説得力あるものとして出てくるか、といえば必ずしもそうではない。もちろんそうした戦略は穏健で穏当なものではあるだろうが、この認識からその対極のラディカルな戦略、つまり「民主政が社会を不安定化させることがないように、資産の分配を革命的に平準化させるべきだ」という主張だって可能である。もちろん、より穏当に「控え目な再分配政策を継続することで、長期的な成長と平等化を両立させる」という戦略を提示することも可能ではあろう。


2
 Acemogluらの「制度基底主義」に対してはもちろん批判が多く、たとえばJeffery Sachsも『フォーリン・アフェアーズ・リポート』最新号で「問題は制度だけではない」との批判を提示しているが、Acemogluらは「制度還元主義」を展開しているのではないので、必ずしもその批判は決定打とはいえない。彼らの「制度基底主義」に対する批判は、第一にはその経験的な説明力の検証を行うことによってなされるべきであるし、更には、必ずしもそれを否定するわけではなくとも、「制度」以外のファクターについての洗練された理論を提示して、それを補完していくことが必要であろう。


 そうした理論的研究の中で、ここで注目したいのはOded Galorの主導するグループである。Galorらの研究の特徴は人口、世代間関係、次世代育成を焦点として歴史的スケールの研究を行うところにある。その一方の成果は、「成長の統一理論Unified Growth Theory(UGT)」のタイトルのもとでまとめられている。そこでは出生力の内生変数化と、それを人的投資≒養育・教育とを連続的に理解し、モデル化して、人類史上の一大転換――多産多死の人口構造の下での、生活水準の固定化としてのMalthus的均衡から、産業革命・人口転換を経て持続的経済成長が開始され、少産少死の人口構造の下での、生活水準の持続的向上、に移行するという一連の変化を、統一的なモデルで説明しようとする。ここでは物的資本という要因はあえて切り捨てられ、関心が人的投資に集中される。
 「成長の統一理論」における人口転換と持続的成長開始のメカニズムをおざっぱに言うと、非常に緩やかなペースで継続していたが、その成果が出生力向上から人口増加を帰結して、生活水準に結び付かないというマルサス的均衡状態が、それでも生産性がある限界的レベルを超えた時に、人々の次世代育成戦略の転換をもたらす、というものである。つまり、たくさんの子どもを産み育てることより、子ども一人あたりの養育・教育にかけるコストを増やし、子どもの能力を向上させることを選ぶようになる、という移行が、そこでは想定されている。
 他方Galorらは、物的資本や土地、更にそれらの財の配分による社会的な階級構造を想定した政治経済学的研究も行っている。「統一理論」においては代表的個人の行動分析に集中しているが、政治経済学的研究では地主、資本家、無産労働者というふうに所有する財産の種類に応じて異なった階級に属し、効用関数の形状(嗜好、価値観)まではことにしないまでも、利害を異にする複数の主体が想定され、それぞれの主体のそれぞれに異なる経済活動と相互の取引の帰結(ただしそれらはゲーム理論的な交渉関係ではなく、完全競争、つまり対面的コミュニケーションと取引不在のもとでの、自由な市場取引と想定されるが)、更に政治過程を分析の対象とする。ただ、Acemogluらの場合とは異なり、制度の形成・移行のメカニズムはあまり分析対象とせず、制度自体は所与の環境の側に置かれることが多い。
 こちらの政治経済学的研究はまだ発展途上であるが、基本的なアイディアとしては以下のような戦略がとられているように思われる。すなわち、「統一理論」では資本・投資については大胆に単純化し、人的投資のみがモデルの中に取り込まれていたが、政治経済学の方では上述の通り、複数の種類の資産がモデルに取り込まれている。それらはそれぞれの特徴を極端にデフォルメして、投資によっても改良されず、高技能労働を必要としない「土地」(これは土地改良による土地の増加分を農業資本家の「資本」と見なしたその残余と解釈できる)、改良投資と高技能労働によって生産性が向上する「物的資本」、公共投資(学校教育)によってのみ改良され高技能労働を生み出す「人的資本」に三分される。そのうえで、それぞれの階級が政治的支配者の地位に就いた場合、それぞれの階級利害の観点から、どのような政策をとると考えられるか、が考察される。そして、地主が支配的である限り、研究開発投資や人的投資への政策的支援は見込み薄であるが、資本家階級が政治的支配者の地位に就いた場合には、その限りではない、という予想、更には、人的資本が蓄積されれば、労働者階級もまた(物的)資本を蓄積し、将来的には単一階級社会が生まれる可能性までをも展望されている。


3
 非常に乱暴に言えば、Acemogluは制度と階級闘争の相互連関に焦点を当てている。制度的な配置の、あるいは歴史的な作用の、またあるいは自然環境の帰結として、社会内の各主体に様々な資源が割り当てられ、そうした資源配分と、経済的制度の組み合わせを受けて、各主体がそれぞれに経済活動を行い、その結果次世代の資源配分が決まる。またその一方で、そうした資源配分と政治制度を前提としたうえで、各主体は政治活動を行い、その結果場合によっては経済制度が、更には政治制度が変更されることもある。しかしながら制度の慣性は強く、こうした変化は必ずしもスムースではない――こうしたモデル化を、Acemogluは試みている。
 それに対してGalorは階級闘争よりも、今少し自然史的なプロセスとしての人口と生産力の発展に焦点を当てている。政治プロセスのモデル化においても、ゲーム理論的な闘争・交渉関係や制度変化のメカニズムにはあまり関心を寄せない。
 あえてミスリーディングな言い方をすれば(AcemogluもGalorも個人レベルでは、実証研究者というより応用に関心が深い理論プロパーの研究者であるが)、Acemogluが開発経済学者として、地主貴族や軍閥などの、低生産性セクターを基盤とする旧支配エリート層による新興階層窮乏化政策と、その結果としての成長抑圧に主たる関心を寄せているとすれば、今までのところGalorは経済史研究者として、西欧を中心にして起こった人口転換と経済成長の成功のメカニズム理解が関心の中心のようである。それゆえ政治経済学的研究においても、西洋――現先進諸国におけるスムースな産業化――資本家層へのスムースな権力移動と、資本家による労働者の取り込み、労働者の市民化=プチ資本家化の円滑な進行が分析される。そこでのレジーム転換、あるいは政治的ヘゲモニー転換の分析は、ひどくスムースである。すなわち、成長が緩やかに進んでいけば次第に資本家のみならず地主、そして無産労働者層も物的資本を蓄積していくため、革命的闘争がなくとも、階級間の利害対立は漸次的に薄れ、同質化していく、というビジョンが提示されている。


 Galorの楽観(? 単なる差別化戦略にすぎないのかもしれないが)の根拠はどこにあるのか? それはあえて言えば、教育、人的投資、より広く言って知識資本の外部経済性への信頼にあるように思われる。政治経済学のみならず「統一理論」においても、基底にあって超長期過程を最終的に持続的成長へのブレークスルーへと導くのは、このファクターである。すなわち、「統一理論」においては、人口転換をもたらす臨界的生産性水準突破は、ストックとしての人口の絶対量があるレベルに達することによって引き起こされる。Malthus的停滞のさなかにも、ほんのわずかな人口増とともに、ほんのわずかな技術革新、生産性上昇が実は継続しているのだ、という想定がそこでは決定的である。

参照文献(論文はすべて雑誌掲載前の未定稿がダウンロード可能。)

・Acemogluのグループ
Daron Acemoglu and James A. Robinson, Why Nations Fail, Crown Business, 2012.

Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty

Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity, and Poverty

 一般向け啓蒙書。数式なし、ただし大部。
Daron Acemoglu, Simon Johnson and James A. Robinson, "Institutions as the Fundamental Cause of Long-Run Growth." Philippe Aghion and Stephen Durlauf eds., Handbook of Economic Growth, Volume1A, Elsevier, 2005, 385-482.
 内容的に上記におおむね対応する業界向けサーベイ論文。数式なし。
Daron Acemoglu, "Politics and Economics in Weak and Strong States." Journal of Monetary Economics, 52, 2005, 1199-1226.
Daron Acemoglu, "Modeling Inefficient Institutions." Richard Blundell, Whitney Newey, and Torsten Persson eds., Advances in Economic Theory, Proceedings of World Congress 2005, Cambridge University Press, 2005, 341-380.
Daron Acemoglu, "Oligarchic versus Democratic Societies." Journal of the European Economic Association, 6(1), 2008, 1-44.
Daron Acemoglu and James A. Robinson, Economic Origins of Dictatorship and Democracy, Cambridge University Press, 2006.
Economic Origins of Dictatorship and Democracy

Economic Origins of Dictatorship and Democracy

 今回の展望対象とした専門論文、専門書。
Daron Acomeglu, Introduction to Modern Economic Growth, Princeton University Press, 2009.
Introduction To Modern Economic Growth

Introduction To Modern Economic Growth

 大学院レベルの教科書。初歩(といっても学部上級)から先端(研究者レベル)までの積み上げ式。数式がないはずはない。chs.22, 23が上記の論文群のまとめとなっている。


・Galorのグループ
Oded Galor, Unified Growth Theory, Princeton University Press, 2011.

Unified Growth Theory

Unified Growth Theory

 「成長の統一理論」の中間総括書。数式あり。
Oded Galor, "From Stagnation to Growth: Unified Growth Theory." Philippe Aghion and Stephen Durlauf eds., Handbook of Economic Growth, Volume1A, Elsevier, 2005, 171-293.
 上掲書の準備稿のような展望論文。数式少。
Oded Galor and Omer Moav, "Das Human Kapital: A Theory of the Demise of the Class Structure." Review of Economics Studies, 73, 2006, 85-117.
Oded Galor Omer Moav and Dietrich Vollrath, "Inequality in Land Ownership, the Emergence of Human Capital Promoting Institutions, and the Great Divergence." Review of Economic Studies, 76, 2009, 143-79.
 今回の展望対象とした専門論文。

                               (2012年11月23日)