「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ

 この間昔の講義ノートを読み返したら、さして進歩していない――というか、今回の講義では実はそれほど新しいことが言えてない……あと1回最後の補講に何を積み込めるのか……。

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 ヘーゲル『法の哲学』における「市民社会」という言葉遣いは、マルクス主義を経由しつつ明らかにわれわれの、「国家」とは区別されるものとしての「市民社会」の概念の重要な源泉、お手本ではあるが、すでに見たとおりそこには重要な違いもまたある。ヘーゲルにおいては市民社会は国家の部分、あるいはある側面であって、国家とは別個の、国家に外在する別の存在とはいえない。またそれは内と外とが区別され、数え上げることができる「個体」である。しかし現代のわれわれが日本語で「市民社会」、いやおよそ「社会」というときには、いま少し異なったものがイメージされているとはいえまいか。
 「市民社会」の対応語としてここで念頭においているのは、英語では"civil society"であるが、現代英語の"society"はつねに日本語の「社会」へと翻訳できるわけではない。現代日本語で「社会」というと、境目も内も外も持たない、ちょうど水や砂、穀物のように物質名詞で呼ぶことがふさわしい無定形な人の集まり("population"、「人口」もまたそういう言葉である)か、あるいはそうした人々の間の関係やその織りなす空間を指す言葉に現在はなってしまっている。しかしながら現代英語の"society"は、そうした開かれた集合としての社会を指示することもできれば、"association"、"company"の同義語として、限定された団体としての「結社」「会社」「協会」を意味することもできる。ヘーゲルの"burgerliche Gesellschaft"はKorporationとは区別されてはいるが、国家の一部として閉じられた有限な個体ではある。しかし現代のわれわれの「市民社会」ということばは、どちらかというと物質名詞ないしは抽象的対象を名指す言葉であり、そこで考えられている対象は無定形な人の集まり、あるいは社会関係のネットワーク、ないしはその展開する空間である。


 ところで、90年代以降の、社会主義の崩壊を受けての「市民社会」ブームにおいては、やや言葉遣いの上で混乱が見られた。すなわち、社会運動団体やNGONPOなどを指す言葉としてしばしば「市民社会」が用いられていた。これは"civil society"を無思慮に「市民社会」と訳してしまったことから来る混乱である。それらはむしろ「市民団体」「市民(的)結社」と訳されるべきものであった。90年代以降の社会運動団体を主として念頭に置いた「市民社会」論においては、直接のパラダイムは言うまでもなくユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』における「市民的公共圏(公共性)」にある。それはハーバーマスによれば"burgerliche Gesellschaft"のある一側面を切り取ったものであり、ハーバーマス自身は90年代に入って、弟子のクラウス・オッフェの議論(それはまた『後期資本主義における正統性の諸問題』の着想源でもあった)をも念頭に起きつつ"Zivilgesellschaft"なる造語をなし、この意味での"civil society"の対応語とした。
 この「市民的公共圏」とほとんど同義の、かつてのヘーゲルマルクス的意味での「市民社会」から、その経済的側面を捨象した、現代の「市民社会」概念の登場には、それなりの理由があるのは当然である。しかしながらそれこそが「市民社会」なる語の現在における真正な用法である、と結論するのは穏当さを欠くであろう。


 ハーバーマスが「市民的公共圏」の理念のパラダイムをカントやそしてとりわけジョン・スチュアート・ミルに求めるならば、我々はそれをほとんど今日のリベラル・デモクラシーの理念像と同一視してしまう。すなわちそこではbourgeoisとしての市民は、市民法に従いつつそれぞれ自由に――勝手に自分のビジネスを展開し、好きな相手と取引したりしなかったりする。その一方でcitoyenとしての市民=公民は、自由で開かれたコミュニケーションの空間で議論を戦わし、その延長線上で民主的な政治過程に参加していく。そこでは市民社会は、ヘーゲル流に言えば「欲求の体系」、市場経済と、民主政治の下部構造としての「市民的公共圏」とに少なくとも二重化されている。


 市民社会の前者の相においては、その構成員たる市民はそれぞれの私益を追求するのみであり、他者との有意義なコミュニケーションは必ずしも行わない。その限りで各市民は、徳隊の他の市民の行動に拘束されることなく、ただ物象化された社会法則、市場の「見えざる手」と、市民社会に外在的な所与としての既存の法秩序、そして国家、政府による政策介入にのみ拘束される。
 近代的な政策科学の視線、あるいは、市民社会に介在的な政策担当者のスタンスとは、このような市民社会を、相互了解的なコミュニケーションの相手としてではなく、一方的な操作介入の対象として扱うスタンスである。こうすることによって政策担当者は、コミュニカティブな関係性における不確実性、予測不可能性を低減することができる。これがハーバーマスの言うところの「道具的理性」である。それはまた、社会法則や政策を所与として受け止め、ただそれに適応することを目指す一般市民の立場でもある。
 市民社会の後者の相においては、市民たちは相互にコミュニケーションを行う、すなわち、不確実で予測不能の関係性の中に飛び込んでいく。ただし、そこでのコミュニケーションは、市場経済レベルでの実業、実際にモノやサービスを生産し流通させ分配させる営為――マルクス主義的に言えば「労働」――からは隔離されているのみならず、実際に拘束力を持つ公共的意思決定の形成としての、狭義の「政治」からも隔離されている。
 すなわち、ハーバーマスの言う意味での「市民的公共圏」とは、現実の価値を生み出し流通させる経済からも、実際に拘束力を伴う不可逆の決定としての政治からも相対的に切断され、隔離された、シミュレーション、バーチャルリアリティの空間なのである。
 もちろん、以上はあくまで理念的な構図である。現実の市場経済においては、情報の不完全性もあり、すべての個人と企業が無名でアトミスティックな受動的存在であるわけではない。だから厳密に言えばいわゆる「経済」の世界にも、実際にはコミュニケーションと政治が満ち溢れている。たとえば企業の経営は、厳密に言えば、ただ市場に受動的に適応するだけの、道具的理性にのみ導かれた営為ではない。国家レベルでの政治と同様に、ステークホルダー間のコミュニケーションを通じた不確実性への投企である。株主・債権者との関係におけるコーポレート・ガバナンスや、従業員との関係におけるインダストリアル・デモクラシーは、本来そうしたものである。また市場での企業間競争や企業と顧客との取引も、少数者間の顔の見える関係となれば、政治的な性格を強く帯びる。
 自由なコミュニケーション空間においても、情報の流通や処理のコストは決してゼロではなく、経済的な制約は無視できない。また、公式の正規的な意思決定プロセスに組み込まれる前の自由な言論も、他者への抑圧的な拘束力を帯びることもあれば、またそうした拘束をかけられることもある。


 以上の事情を、20世紀末の政治哲学の言葉づかいを用いて定式化しなおしてみよう。ロールズがその代表であるようなリベラリズムの政治哲学は、ハーバーマス的な市民社会の重層化、市民的公共圏の理念と重なり合うものである。
 ロールズのカント主義的リベラリズムは人格の尊厳を主軸とし、ことに初期の『正義論』においては、「無知のヴェール」をかぶった誰でもありうるが誰でもない主体による自己立法としての社会構想を打ち出した。それは別の観点からすれば、人格の尊厳を尊重するがゆえに、人格的存在の内実や性質についてはとやかく言わない、つまりは、リベラルな社会の制度構想においては、人格の存在とその尊厳は政治的な介入を許さない不可侵の所与としてかっこにくくられる。つまり、「人格の陶冶」は公共政策の――少なくとも枢要の主題にはなりえない。あるがままの人間性は尊重され、例えば「他者危害の原則」などを侵害しない限りで、人間の性質そのものは政策や法制度によるコントロールの対象からは除外される。法制や政策による統制の対象、更に言えば道徳的な評価の対象はあくまでも個別の行為であり、行為を生み出す人間の存在や性質は政策からは保護されるのみならず、道徳的に指弾されることもない。
 このリベラルな世界では、人格、人間性が評価や介入の対象となるのは、まず第一には私的領域におけるパーソナルな人間関係であり、第二には市民的公共圏においてである。しかし市民的公共圏は、拘束力としての経済や政治からは保護隔離されている。
 では、人格、人間性の評価や統制、すなわち「人格の陶冶」とは具体的には何かといえば、それは、フーコーの言葉づかいを借りれば、規律訓練(調教)disciplineである。規律訓練を私生活、私的領域に封じ込める、というのがリベラリズムの基本方針であり、実際にはリベラリズムの支配する世界でも、規律訓練は私的領域に封じ込めきれず、私的でも公的でもない奇妙な領域――ウェーバーの表現を借りればアンシュタルトはそれに浸透される。
 そしてそれはまた現代政治哲学の言葉でいうと、徳virtusである。いわゆるコミュニタリアニズムの政治哲学のリベラリズムとの最大の違いは、人格の陶冶を政治、公共政策の核心的な主題とするかどうか、である。この意味でのリベラリズムには、ロールズや、あるいはノージックリバタリアニズムのカント的人格主義のみならず、人格の尊厳の絶対性を拒絶し、人格概念そのものの相対化をも射程に入れる、ベンタム的功利主義までも含まれることに注意されたい。
 リベラリズムは規律訓練、「人格の陶冶」を私的な領域と、市民的公共圏に封じ込めようとする。生身の人間の身体的な陶冶は主として私的領域に、コミュニカティブな陶冶は主として市民的公共圏にそれぞれ割り当てようとするが、その中間に位置するのが、アンシュタルトの典型たるところの、近代的な意味での「学校」である。
 それに対してコミュニタリアニズムは、公的領域としての経済や、純粋なコミュニケーション領域として保護隔離された市民的公共圏に限定されない、フォーマルな政治プロセスもまた、正面から「人格の陶冶」の場として認める。(それを「規律訓練」とは呼ばない方がよいだろう。)
 たとえば不完全競争市場において、プライステイカーとはならず、互いに個性的な存在として競争し交渉する主体たちは、互いの徳を評価し合い、自分の徳への評価――経済学方面での言葉づかいでいえば「評判reputation」――を気にする。あるいは政治的な討議の場においても、議論は単に政策や体制構想の評価を超え、それを提議する主体の人格的力量までが評価の対象となる。