「社会科学基礎論に関する2,3の話題提供」@東大社会学 メモ

 社会科学の自然科学と比べた時の特徴として、「対象の複雑性」が挙げられることがしばしばあるが、物理化学的対象、生物的対象の挙動もしばしばきわめて複雑であり、それが決定的に彼我を分かつとは言い難い。そこにおいても回顧的な視点でしか全体性が獲得できない場合は多く、それゆえ進化生物学や宇宙論はしばしば比喩でなしに歴史学に近づく。
 いまひとつの社会科学、そして人文学の特徴としては、対象とのコミュニケーション、相互干渉の可能性が排除できないこと、がしばしば挙げられる。だが、これも実は大部分の社会科学においては、巧妙に回避――とは言えないながら、さほど深刻な問題とはなっていないのではないか。コミュニケーション、相互干渉の可能性、リスクは意識されることによってコントロールされてはいないか。
「純粋に対象を観察するのみの狭義の「科学」に徹するならばまだしも、社会科学とはそもそもしばしば「政策科学」でもあるでのはないのか? 対象への介入を行うことが、予測不能性を招きよせるのではないのか?」という反論をすぐに思いつくであろう。しかしながらこの介入が一方的なもの、より強く言えば、こちらの存在を意識、認識させない「ギュゲスの指輪」の立場によるものだったら、どうであろうか? その場合にはマッケイ=ポパー的な意味での、相互作用による「予言破り」的予測不可能性は成り立たないのではないだろうか。
「政策は「ギュゲスの指輪」の立場から行われるものではない」ように一見したところ思える。たしかに、市民社会における公共政策は、建前的にはそのように一方的なものであってはならないはずだ。しかしながらフーコーアガンベンらを意識しつつ東浩紀が「環境管理型権力」と呼ぶタイプの政策的介入は、まさにそのようなものである。そして注意すべきは、そうしたタイプの「権力」は、別に新しくもなんともない、ということだ。「政策科学」の原点たるアダム・スミスの経済学とは、まさにそうした視線である。
 スミス自身がストレートフォワードな意味で「環境管理型権力」の徒であるとは確かに言い難い。一見したところでは、スミス自身の具体的な政策論で対象となっているのは、立法を伴う法規制と、インフラや公教育などの限定的な公共事業であり、見えず、意識されずの陰秘な政策ではなく、まさに公然的な「公共政策」である。しかしながらスミスの政策体系を導く原理は、統治者の意志やヴィジョンではなく、市民社会の自律的な作動原理としての、市場の「見えざる手」である。この「見えざる手」は意識されない。