3月17日森建資先生退官記念講義「独立と従属の政治経済学」へのコメント(続)

(承前)

 ここで今一度概念的な切り分けをしておこう。すなわち、もっとも単純な意味での財産権秩序と、市場経済と、資本主義をそれぞれ概念的に区別した上で関連付けてみよう。
 単純な意味での財産権秩序、あるいは私有財産権制度とでもいおうか、この言葉でここで意味しているのは、世界が財産権の主体たる人と、その客体たる物とに分かたれ、両者の関連付けが整然と、普通は排他的な形で――つまり、ひとつの物が同時に二人以上の人に属することはない、という形でなされている、そういう社会的な枠組みである。
 今日においては、この財産権の中核、基準をなすのはいわゆる所有権である。所有権の対象は普通は人ならぬ物である。ただ、この「物」が具体的に何であるのかは非常に厄介であるが。農耕、のちには工業を基軸とした定住型社会においては、「物」の典型は土地である。「物」以外のいまひとつの典型は、穀物その他の農作物であり、ある程度は家畜であり、場合によっては「人」ならぬ人、財産権の主体ではなく客体として扱われる人、奴隷である。これらを今日風に「不動産」に対する「動産」と呼ぶのは少々不正確だろう。むしろ個別のアイデンティティを持たない「種類物」――物質名詞で指示されるような対象――としておくべきだろう。
 「物」に対する権利としては、所有権とは別にそれを借りるなどして一時的に利用する権利が考えられる。こうした、「物」の貸し借りが一般的になれば、ただ単にものを借りる権利だけではなく、借りたものを、一定の範囲内で――予め定められた期間、貸主が許すような仕方で――手元において利用する権利についても明確にしなければならない。そうなってくると、単純に「所有」という言葉だけでは足りなくなる。つまりは「所有」と「占有」の区別が必要になる。ものを貸すことができる以上、所有権者は必ずしも常に自分のものを手元に置いておく必要はない。また自分のものではないあるものについて、借りるなどの形でその占有権を認められている者は、本来の所有権者から返却を求められたとしても、直ちに応じる必要はない。(木庭顕によれば、ローマ法においてはむしろ「占有」が本来的な概念であり「所有」の方があとからやってくる。)


 「人」に対する「物」の帰属の秩序、そして「人」と「人」との間での「物」の配分の秩序が狭義の、最単純の財産権制度であるとして、そこから「人」と「人」との間での「物」のやり取り、取引の制度へと移行するならば、そこに我々は市場経済を見出すことができる。非常におおざっぱに「契約の自由」が確立している――ある「人」から他の「人」へと、ある「物」の帰属を移転するにあたって必要なことは、基本的には関係する当事者間の合意だけである、とされているならば、そこには市場経済が成立している、と言ってもかまわないだろう。
 ただしその市場経済が「成熟」したものといえるかどうかは、また別の問題である。「成熟」した市場経済においては、価格メカニズムが成り立っていなければならない。すなわち、その社会においては取引される「物」の間の交換比率=価格について統一的な「相場」が形成されており、取引参加者はいちいち個別的な交渉に精力を(あまり)費やすことがなく、すでに形成されている「相場」に従って動けばよい、という風になっていなければ、その市場経済は十分に成熟したものになっているとは言えない。
 またそもそも自由な取引の対象となりうる「物」の範囲がどこからどこまでなのか、という問題がある。このような取引の対象たる「物」=商品の典型は、土地よりは種類物の方である。第一に、種類物に比べて土地の移転は手間がかかり困難である。物理的に場所を移転することもできず、その移転はあくまでも観念的になされねばならないから、高度な言語と概念の操作が、それを可能ならしめる社会的環境が必要となる。第二に、そもそもそうした土地の帰属の移転は、土地の産物である種類物――土地は「元物」であり種類物はその「果実」である――の移転とは異なり、その所有者の生存の基盤それ自体に直接かかわりかねないため、慎重になされねばならない。


 また実は以上の叙述では市場経済を「商品経済」として描き、自由な取引の典型をものとものとの交換、そして売買として理解していたわけであるが、本当にそれでよいのか、という問題がある。
 ロックが典型である近代の自然状態論においては、取引の典型はまさに交換、売買として理解されていた。人々は自分の所有する土地の産物によって生存を維持するが、余剰生産が生じればそれを取引に回し、そこから市場経済が発展していく、という描像が圧倒的に支配していた。しかしながらそうしたストーリーを基準的な理論モデルとして用いることによって、致命的な偏向が生じてはいないか、という疑問がある。
 そもそも私有財産において市場的な取引がいかにして発生し発展するのか、についての展望は、特に経済思想史、経済学説史においては、どちらかというと商品売買モデル、更に言えば剰余モデルに則ってなされることが多かった。すなわち、私有財産としての私的領域において自給自足していた人々が、余剰生産物を贈与し、更に交換するところから始まって、やがて交換なしには生存できないようになっていく――というストーリーが暗黙の裡に念頭に置かれていた。
 しかしながら理論的には以下のようなストーリーも考えられるし、むしろリアリティの上では優越するのではないか。すなわち、ある人が何らかの不運、不調によって十分な生産を上げられず、生存の危機に陥る。その際隣人からの贈与によってしのぐ。しかる後にその贈与に返礼をする、あるいはこうした不調の際の助け合い慣行から取引が発展していく――。
 この後者のストーリーに則るならば、取引の発展の考察において理論的出発点として想定すべきは、余剰の贈与に始まる交換というよりは、欠損を埋めるべく行われる贈与と、それに引き続いて――とはいえしばしばタイムラグを置いて――行われる返礼をモデルとすべきである、ということになる。
 前者、余剰モデルにおいては、実は時間的な前後関係はそれほど深刻な問題ではない。ともに手元に余剰を抱えた人同士が出会えば、どちらの側から贈与が行われてもよい。そこから展開する相互贈与=交換は、同時的ないし無時間的な交換、あるいは売買へと自然に展開していくものとして理解される。それに対して後者、欠損モデルにおいては、時間的な前後関係は決定的である。まず欠損があり、それを埋めるために贈与がなされ、返礼はそのあとにしかあり得ない。ここからの自然な発展として展望されるのは同時交換から売買、ではない。そうではなく貸借であり、それも土地建物や耐久物――奴隷、家畜、資本財――の賃貸借ではなく、消費すればなくなってしまうもの――消費財の貸借、つまり消費貸借である。
 自由な取引の典型、ないし基準を同時的な商品交換、売買に置くか、あるいは異時点間交換ともいうべき貸借、更には信用取引におくか、は重大な問題であるが、それはさておき、信用取引についても先と同様のことが言える。すなわち、自由な信用取引が行われるようになれば、そこに市場経済が展開しているといってよかろうが、それが「成熟」した市場経済と言えるためには、価格メカニズムがはたらいて、利子の「相場」が成立していなければならない。


 そのうえで、「成熟」した市場経済が、更に「資本主義」と呼びうるものになるためには、どのような条件が必要か、を考えてみよう。スタンダードなマルクス主義の発想を継ぐならば、生産手段の商品化、ということになる。ただし「生産手段の商品化」については、少なくとも二通り(そして厳密に言えばさらに多く)のパターンについて考えねばならない。すなわち、丸ごとの売買と賃貸借とである。そのそれぞれについて、「相場」が成り立つかどうか、競争的価格メカニズムがはたらくかどうか、について考えなければならない。
(続く)