3月17日森建資先生退官記念講義「独立と従属の政治経済学」へのコメント(続)

(承前)
 それにしても、共和主義と重商主義の親和性とは、どういうことか? それは必ずしも重商主義国家主義(エタティズム)的側面に止目しなくとも言えるし、言わねばならないことである。共和主義的な「独立」「自由」の基盤となる財産は市場的取引から一定程度隔離されたものであり、具体的な実物的性格が強い。その意味でも、使用価値視点に立つ重商主義的思考と親和的にならざるを得ないのである。すなわち、共和主義的な財産は、特定の経済セクター、つまりは特定の産業・職業的利害に強くコミットしたものになりがちなのである。それは近代においては「コーポラティズム」と呼ばれる思考である。
 古典的共和主義のモデルにおいては、市民の基盤としての財産はあくまで土地をパラダイムとしてとらえられていたため、このような共和主義と重商主義との親和性は十分に捉ええない。しかし近代の、市場経済と国家官僚機構が発展した分業社会においては、共和主義的な財産概念と産業=職業的セクショナリズムとの間には、ある種の密通関係が成り立つ、と言わねばらない。
 そしてこうしたセクショナリズムを超えることが容易なのは、どちらかといえばここでも財産と教養のあるエリート、になってしまい、庶民の方は、厄介なことに能動的な市民であろうと努力するほどに、セクショナリズムに傾く嫌いがある。なぜか? 
 それはイギリスにおける労働組合の原語がtrade union、つまりは直訳すると「労働組合」というよりは「職業組合」であることからうかがわれるように、生身の身体に体現された知識・技能を、市民権の基盤となりうる財産として擬制しようとしたときには、どうしてもそれは一般的な知性とか運動能力などではなく、具体的な職業に結び付いた職能へと引っ張られてしまうからである。容易に換金可能な有体物や金融資産を財産として保有していれば、特定の産業・職業に肩入れするセクショナリズムから距離をとれるが、プロレタリアないしそれに近い庶民の場合には、その「人的資本」は、とりわけそれで相応の稼ぎを上げ、取引相手(典型的には雇主)に対する交渉力の担保としようとするならば、それを無色透明な一般的技能にとどめず、具体的な職能に引き付けたものとした方が望ましいであろう。おそらくは、有体物としての財産を持たなければなお一層、雇用労働者たちはその職能にこだわらずにはいられない。場合によっては、それは必ずしも具体的な、リアルな職業的熟練、高度で特殊な知識と技能である必要はないかもしれない。むしろ想像上のものであっても、非実用的な儀礼的慣行の共有でもよいのかもしれない。たとえば東條由紀彦は、近代日本を対象に、一見したところ熟練不要の単純労働に従事する土工たちの間にそうした結合を見出している。
 もちろん、農業者たちの場合にもおおむねこれと同様のことが言えるだろう。


 近代人にとってはロック的、あるいは自然状態論的な財産イメージが強烈な印象を残しすぎているが、この描像に問題があることは以前にも指摘したとおりである。そこでは自然の曠野が公共圏の代替となっており、都市と公道が明確にイメージされていない。しかしながら、厳密な自給自足、というより自閉を目指すのではない限り、公道によって外の世界とつながれていない領地は役に立たない。(農業用水のことも考慮に入れるとなお一層よくわかる。)とはいえ、すでに都市国家の時代を脱して久しく、領域国家と萌芽的世界経済を見ているロック、あるいはホッブズやルソーが都市を軽視したとしても仕方がない。(ルソーは別の観点から都市国家に執着しているが、その構造物、空間秩序という側面についてはそれほど深く考えていないようである。)
 そこで逆に、土地を排除し、都市と公道だけを視野に入れた社会イメージを考えてみれば、商工業の遍歴職人の世界はどうにかそこにはまりそうである。むしろ、土地に固定されたひとつひとつの仕事場よりも、都市と街道こそが遍歴職人の世界をイメージするにはふさわしい。


 ここで我々は団体、あるいは組合というものの、二重性について考えておく必要がある。株式会社にせよ、労働組合にせよ、あるいは近代国家にせよ、それらは、市民社会の中で個人と同格の一個のまとまった主体として振舞う「法人」ないしそれに準ずるものである。しかしそれらは同時に、それ自体でもまた「市民社会」、ないしは公共体なのである。
 家が、またある種の団体もまたそうであるのとは違い、株式会社にせよ、組合にせよ、また近代国家にせよ、構成員の私有財産を収用するわけではない。その構成員は市民として自らの財産を確保したうえで、それとは区別されたものとしての、その団体の財産――あえて「公共財」と言っておこう――への権利を保有している。このように、人々は私有財産、そして財産権をはじめとする権利を自然権として留保し、国家を形成してもそれを団体に対して全面的に譲渡はせず、せいぜいその一部を信託するのみであるという点において、それは共同体一般とは、とりわけそのメンバーが一切の権利、一切の個性を捨てて団体と一体化するタイプの共同体――出家修行者の修道団や理想的な共産主義コミューン――とは対極に位置する。このような特異なタイプの共同性を「公共性」と呼んでも別に構わないだろう。
 ここで「市民社会」と呼んだものは英語では"civil society"であるが、現代英語の"society"はつねに日本語の「社会」へと翻訳できるわけではない。現代日本語で「社会」というと、境目も内も外も持たない、ちょうど水や砂、穀物のように物質名詞で呼ぶことがふさわしい無定形な人の集まり("population"、「人口」もまたそういう言葉である)か、あるいはそうした人々の間の関係やその織りなす空間を指す言葉に現在はなってしまっている。しかしながら現代英語の"society"は、そうした開かれた集合としての社会を指示することもできれば、"association"、"company"の同義語として、限定された団体としての「結社」「会社」「協会」を意味することもできる。
 そしてこうした"society"の語で支持しうるような団体は、「体」である以上その内と外とを分かつ境界を有し、完全に開放的ではないが、その内側においても、メンバーの私的領域と、メンバーを結びつける公共圏とを備えており、市民社会のメンバーであると同時に、それ自体もまた一種の市民社会なのである。あるいはそれは、具体的な土地、場所、トポスから引き離された、バーチャルな都市なのである。


 スミスが「重商主義」と呼んだものは、一面ではこのような組合たち――同業団体、特権的貿易会社、等々――のセクショナリズムであり、その公共体としての側面が後退して、それぞれのセクショナルな、私的な利害に偏してしまった状態である。それに対してスミスが提示したビジョン、のちにそれは経済的自由主義と呼ばれるものだが、そうした組合のセクショナリズムの排除である。では、それに代えてスミスが提示するものは何か? それは市民社会、公共性の担い手としては組合を否定し、スミスは何をそのオルタナティブとして示すのか? 
 「それが市場経済である」と答えるのも、あながち誤りではないだろう。しかしながら本当は、組合は市場の否定では必ずしもない。組合は、その外側に対しては確かに私的な利害の主体として現れることが多いが、その内側では、メンバーの私的利害がぶつかり合う、公共圏もである。つまり、組合は市場にとっての障害であると同時に、それ自体で市場の組織者でもあることが普通なのだ。
 だからスミスが提示するのは、単なる市場経済ではなく、組合によって組織されない、自然状態としての市場経済なのである、というべきであろう。また、その他にも、人為的な公共性の担い手として唯一特権的に残されるのが、今日的に言えば主権国家だ、ということになる。
(続く)