3月17日森建資先生退官記念講義「独立と従属の政治経済学」へのコメント

 疲れた。とりあえず途中までアップする。内容的に実は建築学会シンポへのコメント、更に去年の講義ノートだの立岩『私的所有論』批判などとも関連している。

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説

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 東京大学の退官記念講義「独立と従属の政治経済学」において森建資は自らの研究史を「独立」と「従属」の対概念をもって中間総括している。


 最初の論文「イギリス産業革命期における農業労働力の存在形態」以来、森にとって雇用労働――かつてマルクス経済学や経済史学の伝統においては「賃労働」と呼びならわされてきた対象であるが、今日われわれがこの語よりもむしろ「雇用」という言葉づかいを身近に感じるとすれば、それは実は森のおかげなのである――は一貫して中心的なテーマであるが、この論文においてはまだ「雇用」という現象そのものは正面から主題化されず、雇用され、その労働の報酬を賃金として受け取ることによって生計を維持する人々は、社会政策――この論文ではイギリス旧救貧法体制、なかんずくスピーナムランド制(賃金補助による院外救済)――の潜在的対象としてクローズアップされる。
 農作業の繁閑や国際情勢によってどうしても不安定就業とならざるを得ない当時の農業労働者たちは、雇用労働への報酬としての賃金のみによっては、必ずしもよくその生計を維持することができなかった。そんな彼らの生存基盤は、賃労働のみならず、小土地保有からの自給と、旧救貧法、とりわけ賃金補助であった。後者はこの時代の政治にとって一種のスキャンダルとなり、院外救済を廃し、労働者に雇用労働による「独立」を強いる救貧法改正へとつながっていくが、一方で農業労働者たち自身の目指す独立は、国家や支配階級の望むそれとは少し異なり(実は支配階級の中にも相応の共鳴板を持ち)、小土地保有に基づく自営への志向は厳然としてあった。そして少なからぬ農業労働者は、北アメリカ大陸へと移民し、そこで自作農となっていくし、それを支援する運動も支配階級のレベルで存在した。(「国際労働力移動把握の一視座」「第一次大戦前のイギリス移民とカナダ農業」)
 すなわちそこでは、「財産所有による独立/所有せざるがゆえの従属」という軸と、「公的救済からの独立/救済を受けるがゆえの従属」という軸と、この「独立/従属」をめぐる二つの互いにずれた軸の共存と交錯が見出されている。そのはざまに「財産所有/非所有」軸では「従属」の側に、「公的救済の有無」軸では「独立」の側に位置づけられる存在として、雇用労働者が浮かび上がってくる。


 『雇用関係の生成』はこの雇用労働者たちという存在を、まずは「従属」の相において描き出す。生活単位であると同時に事業単位であるところの「家」の従属的構成員としてのサーバント(奉公人)こそは雇用労働者の原型である。奉公人は「家」の外からやってきて、一時的にかあるいは長期的にか、家の従属的メンバーとして、家長=マスターの支配に服する。典型的な奴隷とは異なり、サーバントの人身は家ないし家長の財産ではなく、自発的な契約によってサーバントとなるが、サーバントとしての身分が継続する限りでは、奴隷と同様に家・家長の包括的な支配の下におかれ、その命令に服さねばならず、規律違反に対しては制裁を科される。しかし他方でマスターは、家のメンバーとしてのサーバントを保護し扶養しなければならない。賃金は一面では労働の報酬であり、他面では生存を維持するための「扶持」でもある。このような意味でサーバントは、マスターに「従属」した存在である。賃金は労働の報酬として捉えるならば「独立」の証であるが、「扶持」として捉えるならばむしろ「従属」の証になりかねない。


 黒死病直後の労働者規制法から旧救貧法体制まで、乱暴に言えば絶対王政期から産業革命前期までのイギリスの(プロト)社会政策は、労働者たちに「独立」を強いるというよりは、労働できない弱者に公的救済への「従属」を認めて保護する一方で、労働し得る者に対しては誰かに「従属」して労働することを強いるものであった。その「従属」の対象には国家(具体的には国家の下位機構として行政を行う地方自治体や教会)も含まれ、収容施設としてのワークハウスでは労働が強制されるわけであるが、基本的には「従属」の相手は民間の財産所有者が念頭に置かれており、誰か財産所有者をマスターとして、雇われて労働するサーバントとなることがモデルとされていた、と考えられる。


 『雇用関係の生成』では分析の力点は、どちらかというと雇用労働者の「従属」的側面に置かれた。雇用関係はおおむね時代が下るにつれ、自由で対等で双務的な契約関係へと変容していくのではあるが、それでも雇主による雇人に対する包括的な指揮命令権は、制限されこそすれ消滅はせず、体罰はもちろんなくなるにせよ、最終的には解雇という形で、雇人に対する懲戒、制裁の権利もまた残る。ただし産業革命期には、古典派経済学が代表とする時代精神、あえて「自由主義」と呼ぶが、その理念によって雇用労働者の「従属」は先に見たように一種の「独立」へと読み替えられる。「雇用労働者、サーバントは公的救済にではなく雇主、マスターに「従属」している」という捉え方から「雇用労働者は公的救済に頼らないのであれば「独立」している」という発想が出てくるのである。
 しかしそこでは「独立」ということの意味が変わってこざるを得ない。何となれば、雇用関係はいまだなお支配関係であることをやめてはいないからである。雇主への「従属」は解消するのではない。雇主への「従属」と両立するような、そして財産所有なしでも成立する、新たな「独立」の観念がここに生じている。この新たな「独立」の観念の到来によってこそ、ようやく奴隷と雇用労働者を明確に区別し、後者を自由人であると明快に断じることが可能となったのである。『雇用関係の成立』最終章「奴隷と賃労働者」を見る限り、森の考察は少なくともここまでは到達している。では、この新たな「独立」概念とは何であるのか。


 『雇用関係の成立』に続くモノグラフ「雇用と団結」においては個別的な雇用関係よりも、集団的な労使関係が主題化される。19世紀初めのイギリスにおける団結禁止立法の改廃に焦点を当てて、労働組合運動による雇用労働者の「集団的独立」が描かれる。非常に乱暴に言えば、雇用労働者たちは個別の、個人的雇用関係においては「従属」的色彩が強い存在として捉えられ、その「独立」は集団的労使関係、労働組合を主役とする団体交渉体制の下で捉えられている。しかしそこでの雇用労働者たち――主として工業労働者たちは、「財産所有による独立」を諦めて別の「独立」概念に到達したとは必ずしも言えない。小土地保有に立脚した、あるいは喪失したそれを取り戻そうとした農業労働者たちと同様に、彼らにも理念としての財産はあった。それはたとえば熟練職人としての技能であったり、愛用の道具であったりした。あるいはまたjobそれ自体がしばしば、雇用労働者にとっては一種の財産(ものというよりは地位、権利であろうか)として観念された。いわゆる「クラフト・ユニオニズム」はそのような「財産所有による独立」思想だったのである。すなわち、救貧法改正へと導く新興ブルジョワジー時代精神がいう「独立」に比べると、むしろ古典的なそれだったのだ。ただしそこでの財産は、もはや一人一人の労働者の自助努力によってはよく守りえないものとも理解されていたが。


 このあたりの事情をかつてのマルクス経済学の用語を用いて、「雇用労働者の財産は基本的にはその心身、つまりは労働力のみである」と言ってしまうことには大きな問題がある。そもそもマルクス自身「労働資産」といった言葉づかいに反対して、労働力が消費されてしまう「商品」であることをむしろ重視していた節がある。つまり労働者は「プロレタリアート」、財産なき民である、と。
 そこでいま少し敷衍してみよう。
 上に述べたようにサーバントとして雇用労働者を理解するならば、その典型は家内奉公人ということになり、それは商品として取引される奴隷や、無給の徒弟などと並列して理解されるべきカテゴリーということになる。その上位には家令、執事等が、下位には作男、メイドなどが位置することになる。しかしながら契約によって雇主=マスターの支配に服するサーバントには、家内奉公人のようにその取引関係が長期的かつ包括的なものばかりではなく、一時的で個別的なものも含まれる。森はピーター・ラスレットのin-servant、out-servantという言葉づかいを参照している。雇主masterの家のメンバーとはならないout-servantには、その一方の極においてliberal profession、医師、法律家等の専門職があり、artisan、workman、つまりは熟練職人があり(芸術家、芸能者も考慮に入れればならない)、他方の極において農村の日雇労務者を典型とするlabourerがいる。となればout-servantには、雇主の指揮命令下にある雇用関係というより、自律的に業務を遂行する「請負」関係の下にあるといった方がよいケースも含むし、それどころかむしろ業務そのもののリーダーシップを相手に明け渡す「委任」に相応しい(特に専門職の)ケースも含まれる。しかしその他方の極には、雇用という形式をとろうが請負という形式をとろうが大差ない、つまり雇主による細目にわたる指揮命令も、雇人による自律的判断も不要なほどの、単純作業の従事者たちが位置するわけである。
 「雇用と団結」において森はハンナ・アレント『人間の条件』を引きつつ、団結する労働者たち、特に熟練工たちは、どちらかといえばアレントの意味での「労働labour」ではなく「仕事work」の主体として自分たちを捉えていたのではないか、と示唆する。アレントは「仕事」を有形の製品を作り出し、公共圏(市場を含む)に送り出す営みとして捉えていたが、つまりそれはそもそも家内in-houseでは完結しない、家の外out-house≒公共圏へと繋がる営みとしても捉えられる。
 独立自営の、自らマスター(そのもとにサーバントがいるかどうかはさしあたりどちらでもよい)であるような職人であれば、もちろん問題なく「仕事work」の主体である。そのようなマスターはまた普通は有形の財産――典型的には、単に道具を持っているだけではなく、自分の「仕事場shop」を持っているであろう。問題は自らの仕事場を持たず、しばしばマスター職人のサーバントとなる遍歴職人journeymanである。彼らにとってはやがて到達すべき目標としての仕事場、あるいは自分の使い慣れた道具、自らの腕、熟練技能が、農業労働者の小土地保有に対応したのであろう。
 workman、workerが公共圏、公的領域に立つためには、形があり、公的に可視的な製品があった方がよい。そうした製品は原理的には、仕事場なしにも製作しえて、市場で売りに出すことができるであろう。しかしながらもちろん、安定した仕事場はあるに越したことはない。そして他人の仕事場で、他人に雇われて作った製品は、ともすれば自分のというよりは雇主の製品として公にされてしまう。すなわち、やはり製品だけでは不十分で、自分の私有財産、私的領域たる仕事場なしには、彼らは財産所有者としてのしかるべきリスペクタビリティを社会からは得難い。すなわち、workmanはたとえ雇われるにしても、自分の製品を直接購入する、あるいは自分の腕によるサービスを直接必要とする顧客に雇われるのであれば、out-servantとして市場という公共圏に自ら立ち得るだろう。しかしながら他のworkmanに雇われ、自ら製品を商品として売ることがなくなってしまえば、そのworkmanの家のin-servantとして私的領域に取り込まれてしまう。たくさんの職場を渡り歩く遍歴journeyとは、自ら製品を売ることのできない職人が、雇主の家にそうやって取り込まれることを避けるための仕組み、と考えることもできるだろう。いわゆる「クラフト・ユニオニズム」はこの遍歴を支えるインフラストラクチャーを基礎としてできあがっていることは言うまでもない。自らの仕事場を持たず、製品を通じて市場に乗り出すことが困難な職人たちの労働市場は、一種の公共圏だったのであり、それなしには仕事場を持たない雇用労働者たちは、自分の腕を「財産」たらしめることはできなかったのである。
(続く)