社会学を志望しようかなと思っている大学受験生のために(2011年度版)

 今年も模擬講義の季節がやってまいりました。
 とりあえず埼玉県立越谷北高校の皆さん、お約束のバージョンアップ版です。
 再来週は都立三田高校に参ります。
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 社会学は経済学や政治学と並んで「社会科学」の仲間とされていますが、日本の大学では大体社会学科は(もちろん、社会学部のないところでは、ですが国公立大学にはほとんど社会学部はありません)文学部に配置されています。なぜこうなっているのかといえば、社会学部は他の社会科学と比べて「主観」、人間の主観的な意識、心をその焦点とするからです。
 経済学をはじめとして他の社会科学は「客観」的現実に照準を合わせますが、社会学はこれを無視するわけではないにせよ、人間がそうした「客観」的現実をどう「主観」的に経験し、その経験から「客観」的現実にはたらきかけていくか、を主題とします。その意味で人間の「主観」に照準する文学や人文学と共通するところが大きいのです。


 具体的に説明しましょう。「中小企業」という言葉について考えてみましょう。そもそもどこからどこまでを「大企業」とし、どこからを「中小企業」と呼べばいいんでしょうか? たとえば従業員の数が1000人以上なら大企業、それ未満なら中小企業、としてみましょう。でも、直観的に考えると、1100人と900人なら大差ない感じがしますよね。それくらいならむしろ、900人と10人以下の企業の方の差が大きい。
 そもそもただ単に「その規模が小さい」というだけではなく、大企業、あるいは企業一般とは質的、構造的にに異なる独特のグループとして「中小企業」を括りだせるかどうかは、実は必ずしも自明ではありません。経済学者の中にはこの意味で、企業一般から区別された特別なカテゴリーとしての「中小企業」の実在を認めず、それを基本的に思い込みに基く錯覚とみなす人々もいます。
 日本では法律上、「中小企業」の定義がちゃんとあります。「中小企業基本法」という法律では、製造業・建設業・運輸業なら「資本金3億円以下で常用従業員300人以下」、サービス業なら「資本金5千万円以下で常用従業員100人以下」といった定義がなされています。そうした定義を満たす企業は「中小企業」として、税制上優遇されたり、中小企業庁という官庁が所管する様々な中小企業向けの政策サービスを受けることができます。しかし上に述べたような、経済学的な観点から「特別の存在としての中小企業」というものがあることを認めない人にとっては、こうした政策は不合理であり、誤っていることになります。
 しかしながら社会学者であれば、躊躇なく「中小企業」を分析対象としますし、「中小企業政策」の意義も頭から否定しはしません。なぜなら「中小企業」とは、仮にそれがもともとは錯覚、幻想だとしても、(錯覚に陥った?)研究者や政策担当者の間のみならず、広く社会全体に共有されているからです。その中にはもちろん、いわゆる中小企業の経営者たちやその従業員たちも含まれます。「中小企業」とは世間の人たちが勝手に張り付けたレッテルなどではなく、他ならぬその当事者たちが自分たちのアイデンティティとして引き受けている名前でもあるからです。たとえそれが「幻想」だとしても、その幻想を頼りに現に生きている人々がいる以上、それを単純に否定することはできない。社会学者ならそう考えます。
 簡単に言うと社会学を他の社会諸科学から分かつ最大のポイントは、こうした「幻想」を真面目に対象とするところにこそあります。「幻想」の内容それ自体は現実ではないとしても、人々がそうした「幻想」を抱いているということ自体は現実であり、更にはたとえば、「中小企業」という「幻想」に導かれて人々が「中小企業政策」を現実に行ってしまうように、そうした「幻想」は「幻想」のレベルで完結せず、往々にして現実に介入し、新たな現実を形作っていくからです。


 社会学を他の社会科学から分かつ特徴としての「心」「主観」の重視についてわかっていただけたかと思いますので、今度は文学部的学問、人文科学の一員としての社会学、について考えていきましょう。
 文学部では文学、歴史学、哲学、心理学等々いろいろな分野がで研究教育されていますが、ここでは「文学」に照準を合わせましょう。大学的な意味での「文学」には、世間普通の意味での「文学」、文芸作品の創作と批評、と「文学研究」、文芸作品の科学的研究の両方が含まれてしまいますが、その辺の細かいことはまあおいておきましょう。
 「文学」の課題ってなんでしょうか? まあ今の高校生のみなさんが国語の時間で「日本近代文学のテーマとは「近代的自我」である」と習ってるかどうかは知りませんが、「近代的自我」っていうのも孤立した存在ではなく、あくまでも歴史的、社会的コンテクストの中での「自我」ですから、存外社会学と関心が重なり合うことはお判りでしょう。更に言えば、日本からより広く視野を転じて、欧米まで含めて一般的に「近代文学」の主題とは何か、と考えてみれば、実は「社会問題」がその重要な部分であることに気付かれるはずです。近代文学の多くは、近代社会の抱える問題を、普通の社会科学とは異なり、人間的な「主観」の視点から切り取ってみることをその課題としています。
 では、社会学と文学、更にはジャーナリスティックな著作とを分かつものはなんでしょうか? 社会学は主観という水準を大事にしますが、同時に科学として客観性をも大事にする。この後者の側面はどういう形で現れるでしょうか? 非常に乱暴に言えば、社会学の特徴は、個別のケース(ジャーナリスティックなノンフィクションの場合は事実の記録であり、小説を典型とする文学作品の場合はしばしば、事実をデフォルメしたフィクションですが)に照準してそれを立体的に描こうとする文学やジャーナリズムに対して、そのような主観的個別ケースを大量に集めて、比較研究、統計的分析にかける、というところにあります。
 統計という道具は、社会学、社会科学に限らず、あらゆる分野で用いられる基本的な道具立てです。社会科学に引き付けて言うと、社会科学では限定され、管理された状況の下で、どの要因が重要かを識別する「実験」という作業が不可能ではなくともとてつもなく困難であるため、その代わりに大量の事例を集めてその中から要因を識別しようとする統計解析が不可欠となります。
 もうちょっと具体的に説明しましょう。科学研究で行われる実験の一つの典型的なパターンは、たったひとつの要因における相違を除いては、全く同じ条件が揃えられた二つのケースの成り行きを比較して、問題の要因の違いが何を引き起こすかを知ろうとする、というものです。とすると、社会科学における実験って、どういうものになるでしょうか? それはたとえば自然環境や人口や生活水準や法制度や宗教等々といった様々な条件においてとても似通った二つの都市なり国なりをもってきて、そのうち一つではある政策を実施し、もう一つでは実施しない、といった比較対照を行うことになるでしょう。しかし、そのような実験がどれだけ大変か考えてみてください。時間もお金もかかるでしょう。秘密でやって、あとで困った結果が出たら大ごとなので、事前に市民・国民の合意も得ておかなければならないでしょうが、これもまた大変です。つまりフィールド科学(研究対象を実験室に隔離することができず、現場でやるしかない科学)である社会科学においては、本格的な実験は不可能、とは言わないまでも、ものすごく難しいのです。
 そこで社会科学においては、統計的分析がとても重要になる。個別ケースを調べるだけではなく、たくさんの似たようなケースを集めて、それらの細かい違いを見ていくことによって、実験による比較対照の代わりとするわけです。
 こうした統計的研究以外にも、社会学においては、歴史的な資料を用いて現代と過去の対照を行うなど、広い意味での「比較」の方法が根本的な重要性を持ちます。ジャーナリズムも含めた広い意味での文学が個別ケース、ひとりひとりの人生のかけがえのなさ、歴史上たった一回おこっただけの事件の唯一性の方に焦点を合わせるとしたら、社会学はそうした個別ケースの比較による相対化の方に力点を置きます。
 この、比較という方法を身に着けるためには、歴史的なセンスがとても重要になります。つまり社会学にとって歴史学は、文学部のお隣さんであるというだけではなく、とても有用な助っ人である、ということがお分かりになると思います。ですから、既に歴史が好き、という皆さんは、どうぞどんどん勉強してください。また反対に、「過去の歴史にはあんまり興味ない。むしろ今を知りたいから、社会学を」と思ってらっしゃるあなた、食わず嫌いはやめてもっと歴史を勉強しましょう。受験のために必要、というだけではなく、社会学のためにも有意義なんです。
 しかしやっぱりそれ以上にここで強調しておきたいのは、統計の、つまりは数学の大切さです。大変残念なことに、私立文系コースを選んで早々に数学の勉強を切り上げた受験生諸君だけではなく、理系で高校数学を一通り学んだ諸君にとってさえ、大学で出会う統計学はほとんど未知の領域に見えてしまうようです。高校数学にももちろん、確率・統計という単元があるのですが、どうもそのありがたみがきちんと伝わらないまま、皆さんは大学に来てしまうようで。普通の社会人にとって最も必要で有意義な数学的知識こそ、確率・統計の基礎知識だとぼくなどは思うのですが。
 ですから皆さん、「数学を得意になれ」とは申しません。苦手でも結構。ただ、アレルギーは起こさないでください。今どき、面倒くさい計算はコンピューターがやってくれます。それを正しく解釈するための数学、で十分なんです。


 さて、社会学とはどのような学問か、についてはこれくらいにして、ここからは、大学で社会学を学んでみようかなと考えていらっしゃる高校生諸君は、受験勉強を含めて、どのような勉強をするべきか、についてご説明いたしましょう。
 もちろん全科目を(数学、理科も含めて)まんべんなく勉強していただきたいのはやまやまですが、現実というものがございます。国公立を目指す諸君は、それでも文系数学までは勉強なさるでしょうが、数学なしでも受験できる社会学部・社会学科の方が多いですしね。そうなるとまさに私大文系コース、「英語・国語・社会科」ということになります。皆さんがこれを中心に受験勉強をなさるだろうことは仕方のないこととあきらめて、ではその範囲で何をやっていただきたいか、を説明します。


 一番大切なのはもちろん、国語です。文章を正確に読み、自分でも人にわかるような文章を書くこと、これはすべての基本です。しかしもちろん、ここからもう少し踏み込みましょう。
 古典、つまり古文・漢文の勉強は、少なくとも高校で勉強する範囲でいえば、あまり社会学の勉強のための準備としての意味は持ちません。高校の古文は大体において、古代から中世、ことに平安から鎌倉の文学作品に集中しすぎています。社会学、社会科学の勉強の上ではむしろ江戸から明治あたりまでの政治社会思想がらみの文献を読んでいただきたいのですが、そういう教材を習う機会は高校の国語ではまずないでしょう。またその手の文章って大体が「日本人が書いた漢文」っていう特殊なものですから、ちょうど高校の古典教育の死角に落ちてしまうんです。ですから、この辺の勉強はまあ、言葉は悪いですが「ほどほど」にしておいていただいても、「社会学」の立場からすればあまり困らない。
 やっぱり力を入れていただきたいのは現代国語、現代文ということになります。しかしそこで何に力を入れて勉強するか? 先ほど「文学と社会学は案外とその関心を共有している」と述べましたけれど、それでもやっぱり文学の優先順位は少し下げていただきたい。
 そもそも現実問題として、大学入試問題の現代文というのは、基本的に「文学的文章」と「評論文」の二本柱でできていますよね。そしてこの「評論文」ってなんでしょうか? 大学入試問題を調べていただければすぐにわかることですが、そこにはかなりの数の、現代日本社会学者が書いた文章が混じっているはずです。もちろん社会学者だけではなく、歴史学者や哲学者、政治学者、経済学者、ジャーナリスト、小説家、といろいろな人の文章があります。しかし社会学者は、入試問題における一大勢力になっている。そして社会学者以外の人々の文章も、大体において入試において出題されるのは、非常に広い意味における社会批評、文明批評の文章です。ですから、入試現代文に取り組むことは、十分に社会学の勉強の準備として意味があるのです。もちろん、入試問題の課題文は、元の文章から切り取られ、加工されてなんだかわけのわからないものになっていて、そこに「設問」というこれまたわからないものがくっついてますから、向学心あふれる皆さんは、過去問や問題集を解くことで満足していてはいけない。原典、元の文章にあたってください。入試問題に使われているということは、「それらの文章は高校生には少し難しい」と同時に、「それらの文章は高校生でもがんばればなんとか読んで理解できる」ということであるはずです。入試問題に使われている文章は、大体の場合、学者が書いたものであっても専門的な論文ではなく、一般読書人向けの教養書(「新書」がよくつかわれています)から採られています。読書好きの意欲的な高校生なら頑張って読めるはずです。問題を解いてみて「面白いな」と感じた文章があれば、原典にぜひ当たってみて、その全部を読んでみてください。そういう勉強が、入試現代文の学力を涵養すると同時に、社会学を学ぶための準備にもなるのです。
 そしてこのロジックは当然、小論文入試対策にも当てはまります。ほとんどの小論文入試は、課題文を読ませて、それを参考に議論を展開する、という形になっていますから、入試現代文とその基本形を共有しているんです。ほとんどの場合そこでの課題文は社会批評、文明批評、つまりは現代国語でいうところの「評論文」です。それを読み解いたうえで、それを参考に自分なりの文明批評をしなさい、というのが入試小論文の基本形です。小論文入試対策は、入試現代文対策以上に、社会学を学ぶ準備になるのです。
 ――実は上に書いたことは、英語の勉強についてもあてはまるんですが、まあ入試英文についても「原典を読め!」と要求するのは酷でしょうから、これ以上突っ込まないことにします。


 ついで社会科(地歴公民)についてお話ししましょう。国公立の難関大、例えば東大、京大、一橋などの二次試験の場合には記述式になってしまいますから話は違いますが、センター試験や私大の場合には、社会科って要するに暗記科目です。そして入試問題に必要な程度の暗記なんて、若い皆さんだったら、一夜漬けでどうにかなるんです。皆さんは1,2年生ですが、今のうちに普段の勉強をきちんとして――つまり、毎日の授業をちゃんと受けて、少なくとも半分くらいは起きて話を聞いて、半分くらいは理解して、うちに帰ったらちゃんと復習して――おけば、入試1週間前のつめこみでどうにかなる程度のものなんです。そのうえで申し上げます。その直前のつめこみの苦痛を減らして効率化するために、今の段階では、人名とか年号とか、細かいことは二の次にして、大局的な視点を獲得することを心がけてください。
 で、その「大局」って具体的にはなんでしょうか? それは「近代」を中軸に歴史をとらえる、ということです。
 ぶっちゃけて言えばこういうことです。日本史、世界史を勉強するときには、あくまでも近現代を中心にしてください。日本史でいえば明治維新以降、世界史でいえば大航海時代以降、ヨーロッパが世界を征服して以降です。あえて近代中心主義、ヨーロッパ中心主義をとってみてください。そして日本史でいえば江戸時代やそれ以前を、近代との対比で、近代を準備した時代として捉えてみてください。あるいは世界史について言えば、ヨーロッパ以外の世界、アジア、アフリカ、日本の歴史を、あくまでもヨーロッパとの対比において、そして近代以降には特に、ヨーロッパとの関係において位置づけるようにしてください。
 そして近代という時代を、いくつかの節目に注目し、その節目の前後で何が変わり何が変わらなかったか、という観点から理解するようにしてください。アメリカ大陸到達の前と後で、宗教改革の前後で、そして市民革命前後で、産業革命前後で何が変わったか。帝国主義以降、世界はどう変化したか。二つの世界大戦は、世界をどのように変えたか。このような時代の節目についての感覚を養ってください。
 これは社会科学が取り分けて近代を対象とするからでもありますが、社会学にとってはなおさら重要な意味を持ちます。というのは、ある意味で社会学とは「近代とは何か?」という問いにとりつかれた学問だからです。しかし今日はこのお話をする余裕はありません。詳しくは後で紹介するぼくの書いた入門書をご覧ください。
 地理についても、実はこのやり方がある程度通用します。高校の地理という科目は厄介な代物で、大学風に言うと自然地理学と人文社会地理学とがごっちゃになっていて、前者は大学では地球科学とか環境科学とか言った「理系」の自然科学に統合されるし、後者は結局社会科学です。こうした高校地理を大学での社会学、社会科学のための準備として学ぶにはどうしたらよいでしょうか? 
 一番効率的に割り切る勉強の仕方は、ぼくの考えでは、自然地理の部分は地球環境問題の勉強として、そして人文社会地理の方は大学の学問風に言えば「国際関係論」の勉強として行う、というやり方です。さて「国際関係論」とはどのような学問かというと、国際政治学を中心に、補助的に国際経済学国際法、その他もろもろを勉強する複合領域ですが、その基礎、入門とは何かといえば、実は「三十年戦争後のウェストファリア条約によって樹立された国家間体制の歴史を勉強すること」に他ならないのです。この観点からすれば、雑多な知識の寄せ集めになりがちな世界地理の勉強にも、ある程度の筋道をつけられますし、更に歴史、世界史の勉強とも連動させることができます。国際関係史というのは近現代世界史のある意味中核ですからね。ですから、大学の国際関係論の入門的教科書の易しいやつを読んでみることは、入試世界史、地理の勉強の観点からも悪くないと思います。
 「現代社会」「倫理」「政治経済」については省略します。これらの科目はセンター試験ではともかく、国公立二次や私大の試験では出番がないことも多くて人気がないですよね。しかしそれ以上に重要なのは、いま言ったように近代中心の日本史・世界史の勉強をして、そのうえで地理Bをしっかりやれば、実質的に「政治経済」「倫理」「現代社会」の勉強をしたのと同じ価値がある、ということです。
 甚だ残念なことに、高校の「現代社会」「政治経済」「倫理」は、現状では体系性を欠いた雑学の寄せ集めです。高校の「政治経済」では、科学としての政治学法律学・経済学の基本原理は教えられません。高校物理で大学の物理学の基礎が教えられるのとはえらい違いです。「現代社会」も学問としての社会学とはあまり関係ありません。「倫理」で過去の思想家についての知識を詰め込むより、入試現代文の良問に取り組む方がよほど思想・哲学の勉強になります。


 最後に、今日のお話の観点からみなさんにとって勉強になりそうな本を少し紹介しておきます。


 まず、社会学への準備としての、現代国語・小論文の学習のために。
石原千秋『教養としての大学受験国語』 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

は入試現代文の現状分析です。問題集としても使えます。如何に入試現代文において哲学や社会学が重要か、が一目瞭然です。同じ著者の
『国語教科書の思想』 (ちくま新書)
国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)

も大変面白い本です。要は「中学高校の国語学習は文学作品の「鑑賞」に偏っている。もっと「批評」が必要だ」ということです。では「批評」ってなんでしょう? 「感想」とどこが違うんでしょう。これはとても大切なテーマです。
 あと面白いのが
入不二基義『哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! 』(ちくま新書)
哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! (ちくま新書)

哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! (ちくま新書)

です。著者は現在活躍中の哲学者ですが、実は長年駿台予備校で英語講師として活躍してきました。その著者が古巣駿台のスタッフと行った研究会がもとになってできた本です。高校の教壇ではともかく、予備校他受験産業の一線では、たくさんの哲学者が英語や現代文を教えています。それは非常に理にかなったことでもあるのです。
 小論文の参考書としてこの10年の定番なのが
長尾達也『小論文を学ぶ 知の構築のために』(山川出版社
小論文を学ぶ―知の構築のために

小論文を学ぶ―知の構築のために

です。社会学の中心的な問いは「近代とは何か?」だと先ほど申し上げましたが、この本のテーマは、ズバリ「近代を疑う」ポストモダン思想の解説です。非常に乱暴に言えば「近代化は人間を幸せにしたのか、近代社会とは本当に我々にとって唯一無二最上の選択なのか」といったことを考えるのが、ポストモダン思想の課題です。本書は徹頭徹尾この観点から現代日本の大学小論文入試問題を読み解いていくという思い切ったつくりになっています。この思い切りのよさゆえに本書は難しいけれども読みやすい(視点が一貫していて、最初から最後まで一つの読み物として読み通せる)、よい参考書なのですが、あえて難点を申し上げれば以下の通り。
1.言うまでもないことですが、以下にこの本が優れた参考書だからと言って、これを読んだからと言って答案が書けるようにはならない。書けるようになるには実際に書く練習をするしかありません。ここにあるのは問題を読み解き、答案を書くためのネタだけです。
2.本書の内容自体は今となっては少しばかり古いし、厳しく言えば浮ついて軽薄とさえ言えます。今の我々大学人にとって重要なテーマはむしろ「近代を疑う」を疑うということだと、個人的には思っています。
 第一に、「近代文明には光と影がある」「近代は人間性を押しつぶしてきた」というのは簡単ですが、われわれは他ならぬ近代の所産ですから、下手に近代を批判するとその矢はまっすぐ自分に返ってきます。
 そして第二に、「近代を疑う」やり方にもいろいろあるんですが、「近代」という時代なり社会の原理なりがあるということについては疑わずに、その意義について疑う、というのが普通のポストモダン思想です。しかしながらその前に、我々は「そもそもその肝心要の「近代」って何? そんなものが本当に存在するの?」と疑ってみることもできます。どうせ「近代を疑う」ならここまでやらなければ面白くありません。

 統計の大切さ、については
谷岡一郎『データはウソをつく 科学的な社会調査の方法』(ちくまプリマー新書

を紹介しておきます。中高生を念頭において、世論調査を中心に、世に溢れる「調査」の類がいかにいい加減で人をだましかねないものか、そうした「ウソ」を回避したまっとうな調査のためには何が必要か、をわかりやすく解説してくれています。また最近出た
戸田山和久『「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス』(NHK新書)は、東日本大震災原発事故という大事件をも踏まえて、自然科学―社会科学を問わずそもそも「科学的思考とはどういう思考か」という問題について、具体例を交えて詳しく解説してくれる良書です。統計や比較の大切さについても論じてくれています。

 社会科については、世界史と地理に重点を置いてお話ししましたので、ここでは「世界史よりも日本史が好き」人へのサービスを念頭において、しかしもちろん世界史好きの人にも有用な、とても面白い本を紹介しましょう。
那覇潤『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

 本書は受験日本史の知識を整理する役には立たず、かえって混乱を来すかもしれませんが、大学に入ってからの本格的な歴史と社会科学の勉強の準備にはうってつけの本です。日本史と世界史の最新の学問的知見を動員して、中世から現代にかけての日本の歴史を、従来よく用いられていた「西洋化」「近代化」という枠組みではなく、「(帝国化・市場化としての)中国化」と「(封建化・閉鎖社会化としての)江戸時代化」のせめぎ合いとして描いていきます。
 最後に、社会学の入門書として、せっかくですからぼくの書いた本を挙げておきます。
稲葉振一郎社会学入門―“多元化する時代”をどう捉えるか 』(NHKブックス)
社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

 今日お話ししたことの半分くらいは、この本に書いたことを基にしています。