市民社会から資本主義へ(続「「占有」について」)

 かつての日本の市民社会マルクス主義は、市民社会から資本主義社会への転化を「領有法則の転回」――「労働に基づく所有」から、「蓄積された労働=資本に基づく所有」への転化として捉えた。それは言ってみれば「小ブルジョワ没落史観」である。『資本論』でいうところの「資本の本源的蓄積」のプロセスにおいて、小ブルジョワ層=中小商工業者と小農が、少数の資本家と多数の無産労働者へと両極分解して資本主義社会が成立した、という理解であり、プロレタリアートとは没落し零落した小ブルジョワ=市民である、という歴史観である。
 そのような形で労働者階級形成がなされたという事実はあるか? おそらくはあるだろう。しかし他方で、本格的資本主義の到来以前にも無産労働者は家内奉公人などの形で存在していた、との見解がある。この見解によれば、本来こうした層は、ピーター・ラスレットの言う「ライフサイクル・サーバント」として、生涯の一時期を他家の徒弟・奉公人として過ごしたのち、土地・借地権や店舗などの相続の機会を得れば自活し、財産と家族を得るか、あるいは生涯独身で過ごすか、のどちらかであって、独立した階級を形成しなかった。しかし農業革命から産業革命にかけて、大規模農場や都市の工場などで雇用が増加し、賃金も上昇して、相続などによって財産を得ることなく、雇用労働者のままでも家族を形成することが可能となり、労働者階級が形成されたのである、というわけである。
 どちらのストーリーが現実の歴史上支配的であったにせよ、それ以上に重要なことは、奉公人、雇人という身分の法的な地位が産業革命期頃まではそもそも低く、雇主と雇人との間の取引関係は、対等で自由な契約関係とは全く言い難かったということである。少なくとも法のレベルにおいては、賃金労働者は没落小市民とは全く言い難い。19世紀までの英米やドイツなどの動向を見る限り、その法的な地位が雇主と形式的にでも対等になるのは19世紀後半であり、かつそうした対等性は労働運動の地位の向上と連動している。また言うまでもなく、選挙権の拡大、参政権の獲得もこれと連動している。
 つまり、「形式的には契約自由の建前の下労使対等だが、実質的には財力のせいで不平等だったのが、労働者団結の力と社会政策によって実質的に労使対等に」という一昔前の歴史解釈(リベラルもマルクス派もともに足をとられていた)は誤りだったというべきである。労働者が資本家や貴族と並んで形式的にでも対等な市民権を確保するのは、ずいぶん時代が下ってからなのである。
 以上のように考えるならば「市民社会から資本主義社会への転換」も「小ブルジョワジーの階層分解」として理解するわけにはいかない。またそこにおいて無産労働者が(受動的にであれ)重要な役割を演じたとも考えない方がよい。ではどうすればよいのか? 


 ひとつの攻め口としてはやはり「占有から所有への転回」であるわけだが、もう少し細かく語らねばならない。そこで木庭やアレントを念頭に置きながら、まずは極度に抽象化された古典古代都市国家の理念的モデルを提示し、近代的市民社会概念もまずはそれとの関係において理解する、というアプローチをとろう。
 理念化された古典古代都市国家モデルでは、公共圏と私的領域とが截然と分かたれる。そして人々も公共圏で活動できる市民と、それ以外の女子供や従属民、外国人とに身分的に分かたれる。では「もの」はどうか? 不動産、土地建物に着目するとそう見えかねないが、実は厳密にはそうではないし、動産ならばなおのことである。
 人間の支配の外にある「自然」のものは別として、広い意味での人間の財産となっているものに注目すると、まずは公共圏に配置された、あるいは公共圏そのものをなす、みんなのものであるが誰のものでもない、公共財がある。具体てには公共施設、都市のインフラ、公道などだ。その一方に私的な領域に配置された私有財産がある。しかし実のところこの私有財産には二種類のものがある。つまり、私的領域に秘め隠され――ないまでも外には持ち出されないものと、場合によっては持ち出され、あるいは現に公共の市場に持ち出されているものとが。当然ながらこれにおおざっぱに対応して、人間の活動にも公共圏における公的活動、アレント的な意味での政治もあれば、普通の意味での私生活、プライバシーもあり、その中間に市場における取引や、非政治的な社交といった活動も存在する。アレントの言う「労働」は厳密に私的な領域におけるものであるし、「仕事」は市場的な、非政治的な公的活動と言える。
 こう考えると、あくまでも理念的に言えば「労働」は公的な側面を持ちえない。それが行われる空間は私的領域であり、その担い手は主として家の従属的メンバーである。市民たる家長が労働に従事したとしてもそれは私人としてであるし、女子供や使用人、奴隷は市民ではない。奴隷は人であると同時にもの、財産であるし、契約を通じて雇われる使用人、奉公人も、契約が及ぶ範囲(時間的には年季、空間的には家中)においては家のメンバーであり家の私的な規律、支配に服する。自由な契約に基づく取引と観念されうるのはアレント的に言えば「仕事」の方であり、その従事者は労働者というよりは職人である。もちろんこの中間には日雇い労務者という存在が転がっているのだが、それは理念モデルから言うと例外的な存在ということになろう。
 ここでのポイントは、私的な領域ならびにそこに封じられたものたちには市場の手が及ばない、ということだ。売買の対象にはならないどころか、そのための評価――値付けの対象にもならない。取引の対象となるのは労働・仕事を通じて生産されたもの、消費される種類物や、その他些細な動産である。それ以外に対価を支払わる「仕事」も考えられる。いずれにせよ生存を支える基本的な基盤それ自体は市場から、公共圏から隔離されて守られている。売買からだけではなく、貸借からもである。その意味で、ここでは所有と占有の区別は必要はない。あるいはそこには占有のみがあり、いまだ所有は出現していない。
 この世界から資本主義への移行は、せんじ詰めればかつては公共圏から隔離されていたはずの私的な領域それ自体が商品化される――売買の対象となり、売買はされないまでも貸借の対象となり、それゆえ市場における評価にさらされる、ということである。そこでは賃貸借という仕組みも日常化し、それもあって「占有」から明確に区別された「所有」の観念と制度も必要となるだろう。
 更に「所有」のよきカウンターパートとして、理想的な所有の主体としての「法人」という仕組みが、古代末期から立ち上がってくる。家もまた法人にその姿を似せるようになる。「所有」が「占有」から、具体的なゴーイング・コンサーン・バリューの保持から一歩離れたところで間接的にそれを支配し、最終的な残余利益をすべて吸収する仕組みであるとすれば、それにふさわしい主体は自然人やその具体的な集まり――家であれ共同体であれ――よりも、抽象的な権利義務の束であるところの「法人」の方であろう。
 こうなるともう公共圏と私的領域の区別は消滅したも同然である。


 問題はこのような移行が、どのようにして生じるのか、である。現実の歴史においても多様な道筋でこの移行が展開したであろうし、理論的にもいく通りかのありうべきパターンが見つかるであろうが、ここではおおざっぱな見通しだけを提示しておく。


 そもそも私有財産において市場的な取引がいかにして発生し発展するのか、についての展望は、特に経済思想史、経済学説史においては、どちらかというと商品売買モデル、更に言えば剰余モデルに則って理解されることが多かったと思われる。すなわち、私有財産としての私的領域において自給自足していた人々が、余剰生産物を贈与し、更に交換するところから始まって、やがて交換なしには生存できないようになっていく――というストーリーが暗黙の裡に念頭に置かれていたように推測される。
 しかしながら理論的には以下のようなストーリーも考えられるし、むしろリアリティの上では優越するのではないか。すなわち、ある人が何らかの不運、不調によって十分な生産を上げられず、生存の危機に陥る。その際隣人からの贈与によってしのぐ。しかる後にその贈与に返礼をする、あるいはこうした不調の際の助け合い慣行から取引が発展していく――。
 この後者のストーリーに則るならば、取引の発展の考察において理論的出発点として想定すべきは余剰の贈与に始まる交換というよりは、欠損を埋めるべく行われる贈与と、それに引き続いて行われる返礼をモデルとすべきである、ということになる。
 前者、余剰モデルにおいては、実は時間的な前後関係はそれほど深刻な問題ではない。ともに手元に余剰を抱えた人同士が出合えば、どちらの側から贈与が行われてもよい。そこから展開する相互贈与=交換は、同時的ないし無時間的な交換、あるいは売買へと自然に展開していくものとして理解される。それに対して後者、欠損モデルにおいては、時間的な前後関係は決定的である。まず欠損があり、それを埋めるために贈与がなされ、返礼はそのあとにしかあり得ない。ここからの自然な発展として展望されるのは同時交換から売買、ではない。そうではなく貸借、それも土地や耐久物の賃貸借ではなく、種類物や金銭に典型的な、消費すればなくなってしまうものの消費貸借である。
 余剰から始まる交換、を出発点として取引、市場を理解するモデルとは異なり、欠損から出発する消費貸借、を起点とするモデルにおいては、もともとは公共圏から、市場から、取引から隔離され保護されていたはずの私的領域が、まさに最初から市場による浸食の可能性にさらされたものとして現れてくる。このようなモデルにおいて取引、市場を理解するならば、それが私的領域を侵食し、占有にとどまらず所有という枠組みを要請し、人間活動のありとあらゆる局面を、潜在的に市場化・商品化し、貨幣という尺度に基づけて評価する資本主義へと発展していく可能性がより展望しやすくなるはずである。