「公共政策論」講義メモ


 ロックを現代的な意味での「市民社会」のパラダイムとみなすことには以上みたように十分な理由もあるが限界もある。更にここではもう一つ、ロックにおける「都市」観念の希薄ないしは不在について注意を喚起しておきたい。
 ロックの『統治二論』テキストを走査してみればcityなる語の使用は極めて少ないし、また固有の対象、問題系としての都市について主題化されることもない。ロックにとって統治権力によって統合された共同体としての国家――ロック自身はcommonwealthなる語を充てる――と都市とを区別して理解していることが示されるのみで、ロック自身が都市――当時の英語でcityと呼びならわされていたもの――の意義についていかなる理解を抱いていたのか、は示されない。イギリス的なコモンウェルス、そして近世の初期主権国家がもはや「都市」とは区別される領域国家であること、ロックがそれを主題としていることはそこから推測できるが、ロックの都市理解はそこからはわからない。そうした都市論の不在から推測されることは、ロックにとっては「市民社会」と「国家」を論じるうえで「都市」という契機は不可欠のものではなく、省略可能だ――現に省略されている――ということだ。
 しかしこの都市という契機の不在――そしてそれはロックのみならず、近代社会科学全般に通じる問題でさえあるのだろうが――は、ロックの市民社会論・国家論の重大な欠点である、と言わざるを得ない。
 そこには都市が不在であるがゆえに、ロック的な市民社会、そして国家は――語弊のある言い方をあえてすれば――非常に田舎臭い。そしてそれはおそらくは半ば意図されたことでもあったろう。ロック的市民社会における市民とは、言ってみれば土地貴族の理念化であり、市民社会とは、地方countryに所領を踏まえているがゆえに自由で自律的な市民たちの集合体である。それに対して暗黙の裡に対立させられているのは、首都に宮廷courtを構える君主である(がその姿は具体的には描かれない)。すなわちロックが描く市民社会は都市ではないし、都市的なものでさえない。一部の法律学や社会科学が描くような、きわめて抽象的な法空間であるか、あるいは地方の所領の集まりである。
 まったく逆説的なことに、近代以降、電信以降の、即時的コミュニケーションが当たり前になってしまったわれわれには、こうした社会ビジョンがむしろあっさりとなじんでしまうのだが、あえてここで我々は思い起こさねばならない。電信以前(手旗通信は電信以降の産物であり、腕木通信も18世紀で、電信に先立つことせいぜい1世紀)には、狼煙などの例外的手段を除けば通信速度と物理的移動速度は基本的には同じオーダーなのである。そのような世界では、自分たちの領地に引っ込んだままでは、人々は交流できない。実際に体を動かして移動し、旅をする、最低でも手紙をやりとりすることなしには、コミュニケートできないのである。市民社会はただ単に土地所有者の集まり、市民たちが所有する土地の集まりにとどまるわけにはいかない。少なくともそこには、人々を、そして土地と土地を結びつける交通ネットワークが、公道が必要である。更にはそうしたネットワークの結節点として、まとまったスペースでありながら誰のものでもない土地があって、人々が交流できる場所となっているところがあれば、なおよい――すなわち、都市である。
 いうまでもなく古典古代人、すなわちポリス時代のギリシア人と共和政ローマ人は、近代の国家にあたるものを都市を基軸として理解していたのだ。地域に根を張った氏族たちの連合体が出会い交流する場としての都市こそが国家の中心であった。いや彼らは近代の主権国家におけるように、国家を抽象的な空間、領域として理解してはいなかったのだろう。具体的に、都市に結集する人々の集まり、あるいは構造体としての都市として理解していたのだ。
 このような感覚は古典古代の著作や、そうした古典古代都市に注目する一部の思想家、例えばハンナ・アレントなどを通じて感得することはできるが、ロックを含めて、近代政治思想史の正統を形成する偉大な思想家たちから読み取ることはむしろ難しい。もちろん、現代の国家論者や憲法学者たちからも。
 しかし「市民的公共圏」とは単に理念的な抽象空間のことではない。都市の公共空間、公共施設、街路、広場なしには、そして都市と周辺地域、都市と都市とを結ぶ行動ネットワークなしには、「市民的公共圏」の、そして「市民社会」の何たるかを本当に理解することはできない。私的な空間同士を互いに隔てつつつなぐ公共領域とは、単に形式的、理念的な何かではない。