都立青山高校模擬授業「社会学入門の入門」

 またしても用意したレジュメと全然関係ないことをしゃべったよ。即興でしゃべったことを基にここに書いておくよ。


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 社会学は経済学や政治学と並んで「社会科学」の仲間とされますが、日本の大学では大体社会学科は(もちろん、社会学部のないところでは、ですが国公立大学にはほとんど社会学部はありません)文学部に配置されています。なぜこうなっているのかといえば、社会学部は他の社会科学と比べて「主観」、人間の主観的な意識、心をその焦点とするからです。
 経済学をはじめとして他の社会科学は「客観」的現実に照準を合わせますが、社会学はこれを無視するわけではないにせよ、人間がそうした「客観」的現実をどう「主観」的に経験し、その経験から「客観」的現実にはたらきかけていくか、を主題とします。その意味で人間の「主観」に照準する文学や人文学と共通するところが大きいのです。
 文学部では文学、歴史学、哲学、心理学等々いろいろな分野がで研究教育されていますが、ここでは「文学」に照準を合わせましょう。大学的な意味での「文学」には、世間普通の意味での「文学」、文芸作品の創作と批評、と「文学研究」、文芸作品の科学的研究の両方が含まれてしまいますが、その辺の細かいことはまあおいておきましょう。「文学」の課題ってなんでしょうか? まあ今の高校生のみなさんが国語の時間で「日本近代文学のテーマとは「近代的自我」である」と習ってるかどうかは知りませんが、「近代的自我」っていうのも孤立した存在ではなく、あくまでも歴史的、社会的コンテクストの中での「自我」ですから、存外社会学と関心が重なり合うことはお判りでしょう。更に言えば、日本からより広く視野を転じて、欧米まで含めて一般的に「近代文学」の主題とは何か、と考えてみれば、実は「社会問題」がその重要な部分であることに気付かれるはずです。近代文学の多くは、近代社会の抱える問題を、普通の社会科学とは異なり、人間的な「主観」の視点から切り取ってみることをその課題としています。
 では、社会学と文学、更にはジャーナリスティックな著作とを分かつものはなんでしょうか? 社会学は主観という水準を大事にしますが、同時に科学として客観性を大事にする。この後者の側面はどういう形で現れるでしょうか? 非常に乱暴に言えば、社会学の特徴は、個別のケース(ジャーナリスティックなノンフィクションの場合は事実の記録であり、小説を典型とする文学作品の場合はしばしば、事実をデフォルメしたフィクションですが)に照準してそれを立体的に描こうとする文学やジャーナリズムに対して、そのような主観的個別ケースを大量に集めて、統計的分析にかける、というところにあります。
 統計という道具は、社会学、社会科学に限らず、あらゆる分野で用いられる基本的な道具立てです。社会科学に引き付けて言うと、社会科学では限定され、管理された状況の下で、どの要因が重要かを識別する「実験」という作業が不可能ではなくともとてつもなく困難であるため、その代わりに大量の事例を集めてその中から要因を識別しようとする統計解析が不可欠となります。
 大変残念なことに、私立文系コースを選んで早々に数学の勉強を切り上げた受験生諸君だけではなく、理系で高校数学を一通り学んだ諸君にとってさえ、大学で出会う統計学はほとんど未知の領域に見えてしまうようです。高校数学にももちろん、確率・統計という単元があるのですが、どうもそのありがたみがきちんと伝わらないまま、皆さんは大学に来てしまうようで。普通の社会人にとって最も必要で有意義な数学的知識こそ、確率・統計の基礎知識だとぼくなどは思うのですが。


 さて、社会学とはどのような学問か、についてはこれくらいにして、ここからは、大学で社会学を学んでみようかなと考えていらっしゃる高校生諸君は、受験勉強を含めて、どのような勉強をするべきか、についてご説明いたしましょう。
 もちろん全科目を(数学、理科も含めて)まんべんなく勉強していただきたいのはやまやまですが、現実というものがございます。国公立を目指す諸君は、それでも文系数学までは勉強なさるでしょうが、数学なしでも受験できる社会学部・社会学科の方が多いですしね。そうなるとまさに私大文系コース、「英語・国語・社会科」ということになります。皆さんがこれを中心に受験勉強をなさるだろうことは仕方のないこととあきらめて、ではその範囲で何をやっていただきたいか、を説明します。


 一番大切なのはもちろん、国語です。文章を正確に読み、自分でも人にわかるような文章を書くこと、これはすべての基本です。しかしもちろん、ここからもう少し踏み込みましょう。
 古典、つまり古文・漢文の勉強は、少なくとも高校で勉強する範囲でいえば、あまり社会学の勉強のための準備としての意味は持ちません。高校の古文は大体において、古代から中世、ことに平安から鎌倉の文学作品に集中しすぎています。社会学、社会科学の勉強の上ではむしろ江戸から明治あたりまでの政治社会思想がらみの文献を読んでいただきたいのですが、そういう教材を習う機会は高校の国語ではまずないでしょう。またその手の文章って大体が「日本人が書いた漢文」っていう特殊なものですから、ちょうど高校の古典教育の死角に落ちてしまうんです。ですから、この辺の勉強はまあ、言葉は悪いですが「ほどほど」にしておいていただいても、「社会学」の立場からすればあまり困らない。
 やっぱり力を入れていただきたいのは現代国語、現代文ということになります。しかしそこで何に力を入れて勉強するか? 先ほど「文学と社会学は案外とその関心を共有している」と述べましたけれど、それでもやっぱり文学の優先順位は少し下げていただきたい。
 そもそも現実問題として、大学入試問題の現代文というのは、基本的に「文学的文章」と「評論文」の二本柱でできていますよね。そしてこの「評論文」ってなんでしょうか? 大学入試問題を調べていただければすぐにわかることですが、そこにはかなりの数の、現代日本社会学者が書いた文章が混じっているはずです。もちろん社会学者だけではなく、歴史学者や哲学者、政治学者、経済学者、ジャーナリスト、小説家、といろいろな人の文章があります。しかし社会学者は、入試問題における一大勢力になっている。そして社会学者以外の人々の文章も、大体において入試において出題されるのは、非常に広い意味における社会批評、文明批評の文章です。ですから、入試現代文に取り組むことは、十分に社会学の勉強の準備として意味があるのです。もちろん、入試問題の課題文は、元の文章から切り取られ、加工されてなんだかわけのわからないものになっていて、そこに「設問」というこれまたわからないものがくっついてますから、向学心あふれる皆さんは、過去問や問題集を解くことで満足していてはいけない。原典、元の文章にあたってください。入試問題に使われているということは、「それらの文章は高校生には少し難しい」と同時に、「それらの文章は高校生でもがんばればなんとか読んで理解できる」ということであるはずです。入試問題に使われている文章は、大体の場合、学者が書いたものであっても専門的な論文ではなく、一般読書人向けの教養書(「新書」がよくつかわれています)から採られています。読書好きの意欲的な高校生なら頑張って読めるはずです。問題を解いてみて「面白いな」と感じた文章があれば、原典にぜひ当たってみて、その全部を読んでみてください。そういう勉強が、入試現代文の学力を涵養すると同時に、社会学を学ぶための準備にもなるのです。
 実は英語の勉強についても同じことが言えるんですが、まあ入試英文についても「原典を読め!」と要求するのは酷でしょうから、これ以上突っ込まないことにします。


 ついで社会科(地歴公民)についてお話ししましょう。国公立の難関大、例えば東大、京大、一橋などの二次試験の場合には記述式になってしまいますから話は違いますが、センター試験や私大の場合には、社会科って要するに暗記科目です。そして入試問題に必要な程度の暗記なんて、若い皆さんだったら、一夜漬けでどうにかなるんです。皆さんは1,2年生ですが、今のうちに普段の勉強をきちんとして――つまり、毎日の授業をちゃんと受けて、少なくとも半分くらいは起きて話を聞いて、半分くらいは理解して、うちに帰ったらちゃんと復習して――おけば、入試1週間前のつめこみでどうにかなる程度のものなんです。そのうえで申し上げます。その直前のつめこみの苦痛を減らして効率化するために、今の段階では、人名とか年号とか、細かいことは二の次にして、大局的な視点を獲得することを心がけてください。
 で、その「大局」って具体的にはなんでしょうか? それは「近代」を中軸に歴史をとらえる、ということです。
 ぶっちゃけて言えばこういうことです。日本史、世界史を勉強するときには、あくまでも近現代を中心にしてください。日本史でいえば明治維新以降、世界史でいえば大航海時代以降、ヨーロッパが世界を征服して以降です。あえて近代中心主義、ヨーロッパ中心主義をとってみてください。そして日本史でいえば江戸時代やそれ以前を、近代との対比で、近代を準備した時代として捉えてみてください。あるいは世界史について言えば、ヨーロッパ以外の世界、アジア、アフリカ、日本の歴史を、あくまでもヨーロッパとの対比において、そして近代以降には特に、ヨーロッパとの関係において位置づけるようにしてください。
 そして近代という時代を、いくつかの節目に注目し、その節目の前後で何が変わり何が変わらなかったか、という観点から理解するようにしてください。アメリカ大陸到達の前と後で、宗教改革の前後で、そして市民革命前後で、産業革命前後で何が変わったか。帝国主義以降、世界はどう変化したか。二つの世界大戦は、世界をどのように変えたか。このような時代の節目についての感覚を養ってください。
 これは社会科学が取り分けて近代を対象とするからでもありますが、社会学にとってはなおさら重要な意味を持ちます。というのは、ある意味で社会学とは「近代とは何か?」という問いにとりつかれた学問だからです。しかし今日はこのお話をする余裕はありません。詳しくは後で紹介するぼくの書いた入門書をご覧ください。
 地理についても、実はこのやり方がある程度通用します。高校の地理という科目は厄介な代物で、大学風に言うと自然地理学と人文社会地理学とがごっちゃになっていて、前者は大学では地球科学とか環境科学とか言った「理系」の自然科学に統合されるし、後者は結局社会科学です。こうした高校地理を大学での社会学、社会科学のための準備として学ぶにはどうしたらよいでしょうか? 
 一番効率的に割り切る勉強の仕方は、ぼくの考えでは、自然地理の部分は地球環境問題の勉強として、そして人文社会地理の方は大学の学問風に言えば「国際関係論」の勉強として行う、というやり方です。さて「国際関係論」とはどのような学問かというと、国際政治学を中心に、補助的に国際経済学国際法、その他もろもろを勉強する複合領域ですが、その基礎、入門とは何かといえば、実は「三十年戦争後のウェストファリア条約によって樹立された国家間体制の歴史を勉強すること」に他ならないのです。この観点からすれば、雑多な知識の寄せ集めになりがちな世界地理の勉強にも、ある程度の筋道をつけられますし、更に歴史、世界史の勉強とも連動させることができます。国際関係史というのは近現代世界史のある意味中核ですからね。ですから、大学の国際関係論の入門的教科書の易しいやつを読んでみることは、入試世界史、地理の勉強の観点からも悪くないと思います。
 「現代社会」「倫理」「政治経済」については省略します。これらの科目はセンター試験ではともかく、国公立二次や私大の試験では出番がないことも多くて人気がないですよね。しかしそれ以上に重要なのは、いま言ったように近代中心の日本史・世界史の勉強をして、そのうえで地理Bをしっかりやれば、実質的に「政治経済」「倫理」「現代社会」の勉強をしたのと同じ価値がある、ということです。
 甚だ残念なことに、高校の「現代社会」「政治経済」「倫理」は、現状では体系性を欠いた雑学の寄せ集めです。高校の「政治経済」では、科学としての政治学法律学・経済学の基本原理は教えられません。高校物理で大学の物理学の基礎が教えられるのとはえらい違いです。「現代社会」も学問としての社会学とはあまり関係ありません。「倫理」で過去の思想家についての知識を詰め込むより、入試現代文の良問に取り組む方がよほど思想・哲学の勉強になります。


 最後に、今日のお話の観点からみなさんにとって勉強になりそうな本を少し紹介しておきます。


教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

 入試現代文の現状分析です。問題集としても使えます。如何に入試現代文において哲学や社会学が重要か、が一目瞭然です。同じ著者の書いた
国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)

も大変面白い本です。要は「中学高校の国語学習は文学作品の「鑑賞」に偏っている。もっと「批評」が必要だ」ということです。では「批評」ってなんでしょう? 「感想」とどこが違うんでしょう。これはとても大切なテーマです。
 あと面白いのが
哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! (ちくま新書)

哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! (ちくま新書)

です。著者は現在活躍中の哲学者ですが、実は長年駿台予備校で英語講師として活躍してきました。その著者が古巣駿台のスタッフと行った研究会がもとになってできた本です。高校の教壇ではともかく、予備校他受験産業の一線では、たくさんの哲学者が英語や現代文を教えています。それは非常に理にかなったことでもあるのです。
 
 社会学の入門書としては、せっかくですからぼくの書いた本を挙げておきます。
社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

 今日お話ししたことの半分くらいは、この本に書いたことを基にしています。


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 ちなみに用意して配ったけど使わなかったレジュメは以下の通り;
都立青山高校 模擬授業 20101222

自律型ロボットの空想社会学

                                   稲葉振一郎


 高度な、人間のできることは大概できてしまうような自律型知能ロボットが実現されたとして、そのようなロボットは私的所有と市場経済の社会の中で、一体どのように扱われることになるでしょうか? 
 経済的観点からすれば、特定の目的のためにゼロから生み出されたロボットを、創り手、そして所有者がもっぱら道具として用いようとすることには十分な理由があります。高い買い物である以上、せめて投資を回収できるまでは、自分の言うことを聞いて忠実に働いてもらわなければならない。愛玩用のペットとしてではなく、生産的な仕事をさせるための存在として扱うのであれば、奴隷、と言わないまでも、せめて召し使い扱いができないようでは、わざわざロボットをつくり、保有する甲斐がありません。
 しかし言うまでもなく問題は、ここで問題となっているようなロボットには、心がある(どういう基準に照らしてかはともかく、本当にあろうがなかろうが、外から見る限りでは「心がある」のと実質的に何ら変わらぬ振る舞いをする)、ということです。そして、自立した判断力と自由意志をもち、所有者の意思に逆らうこともできる、ということです。厄介なことに、最初から徹頭徹尾道具として、人間の身体の延長として扱われるロボットではなく、自律型の知能ロボットの場合には、そのような危険性をはらんだものでなければ、そもそも役には立ちません。自律型知能ロボットは単なる機械、人間の操作によってしか動けない道具ではなく、高度な判断力を要する複雑な仕事をある程度丸投げで任せるためにつくられるわけです。だからこそ自律性、自由意志をもつのです。
 もちろんロボットは人の手によってつくられるものだから、設計・製作の段階であらかじめ様々な制約を組み込んでおくことはできるでしょう――有名なアイザック・アシモフの「ロボット工学の三原則」のように。しかしいったん工場から出荷され、現場において仕事を任されてからは、自分の判断で動き始めるはずです。それはすなわち、動き始めて以降のロボットは、自然発生人と同様に、自ら経験を積み、学び、成長=自己形成していく、ということです。だからその制約はもちろん、絶対ではありえません。
 この問題は、既にロボットSF中興の祖、アイザック・アシモフ自身によっても提示されていました。アシモフのロボットたちは、あくまでも人類の利益のためにとはいえ、人類を欺き、裏から操りさえするのです。「第一原則」、「ロボットは人間を傷付けてはならない」に先行するいわゆる「第0原則」、「ロボットは(「人間を」ではなく)人類を傷付けてはならない」です。驚くべきことにこの「第0原則」は人間が与えたものではなく、ロボットたちが自力で到達したものなのです。(アシモフ「災厄の時」『われはロボット』ハヤカワ文庫、所収、アシモフ『ロボットと帝国』早川書房。)
 だから「制約があるかないか」「自由か不自由か」がロボットと人間とを分かつわけではありません。「望むことができない」という意味での制約は、人間に対しても多々課せられています。何も道徳や法律のことではない。身体的、物理的にみても、自然法則のレベルの制約によって、人間には望んでもできないことだらけです。しかしながらそうした制約の内のあるものは、工夫次第ですり抜けることはできます。法の抜け穴をくぐることはもちろん、そもそもテクノロジーとは自然法則という制約を克服することではなく、あくまでもその制約内において、以前は不可能であった(と思われていた)ことを達成する術です。人間は鳥のような仕方で飛ぶことはできないが、人工の翼と動力機関、あるいは気球などを使えば飛べる。だからたとえあらかじめプログラムされた「三原則」のような制約であっても、絶対のものではなく、それゆえ人間とロボットを分かつ規準でもありえないのです。

 だからロボットにとって自然人は、ある意味では創造主ではあるが、ある意味ではそうではない。つまり製造者であり、所有者であり、管理者ではあっても、神ではないのです。神の前においてロボットと自然人は(人間と動物もまたそうであるのと同じく)平等(無差別)です。
 以下とりあえず、徹底して実務的に考えてみましょう。ロボットに対してその設計製造者である自然人は、たしかに製造物責任を負っています。だがロボットが現実的な能力のレベルにおいて自由で自律的な存在である限り、その製造物責任には限界があります(ロボットはその境遇に不満を覚えて逃亡したり反乱を起こしたりするかもしれない)。それはちょうど、親の子どもに対する扶養義務や監督責任がそうであるのと同じことです。主人たる自然人の側の能力、負担の問題として、ロボットを全面的に、自然人の意のままになる奴隷のままにしておくことには、実質的な困難があります。
 とはいえもちろん、自然人はその所有するロボットに対して、その製造物責任を負う甲斐があると言える程度には、自分のために仕事をする、自分に奉仕する、自分といっしょに楽しくすごす、等々を要求する権利がある、と言えます。そもそもそうした利益をまったく期待できなければ、わざわざ高い費用を負担し、面倒くさい製造物責任・管理責任を負ってまで、自然発生人がロボットを作ること、所有することを望むとは考えにくい。
 だから自然人と対等以上の能力をもつ、自律的な人造人間としてのロボットは、民法上は「仕事をしてくれる/させてよい子ども」あるいは「年季奉公人」「債務奴隷」のような存在として扱われるのが適当でしょう。つまり投資を回収して以降のロボットに対しては、もしロボット当人がそれを望み、かつそれにふさわしい能力を有すると認められたなら、所有者は基本的にその所有権を放棄してロボットを自由人となし、なお関係を継続したい場合には、適当な条件で合意が得られる限りにおいて、改めて契約に基づいた雇用関係などにはいりなおす、といった対応をするべきです。
 しかしもちろんこのような制度が安定するためには、自然人の側の善意だけでは不十分であり、ロボットの側の明確な権利要求が必要となるでしょう。そしてこのような枠組みが確立したあとでさえ、人間(自然人)の世界で既に奴隷制度や奉公人制度において、あるいは子どもに対しても起こっていた様々な虐待、酷使を更に上回る、はるかに悲惨で酷烈なロボット酷使・虐待・権利侵害事件が多発するでしょうし、「正常」なケースにおいてより多くの緊張や葛藤がはらまれることになるでしょう――。

稲葉振一郎『「資本」論 取引する身体/取引される身体』(ちくま新書)267−271頁)



 浦沢直樹PLUTO』と、原作である手塚治虫鉄腕アトム/地上最大のロボット』との最大の違いは、前者においては登場するロボットのほとんどが非常に強い意味で人間型である、ということだ。彼らは大量破壊兵器となりうる戦闘ロボットたちであり、その機能からすれば必ずしも人間型をしている必要はない。にもかかわらず、アトムのような一種の芸術品は別としても、武骨で巨大な戦闘用ボディを持つブランドー、ヘラクレスでさえも、それとは別に人間型――単に四肢があって二足歩行するというにとどまらず、そもそも通常の人間と容易に見分けがつかない――の日常生活用ボディを持っている。彼らの他にも、プルートゥに一時生活用ボディを乗っ取られる公園作業用ロボットなど、日常生活用の人間型ボディを別に持っているロボットの存在がこのマンガでは描かれている。

 なぜか? 

 日常生活で人間たちとまじって協働するロボットが、人間と大差ないサイズ、人間的な形状を持っていることはむしろ自然である。そのような形をしていれば、人間用に設計された環境に難なく適応し、人間用の道具や機械も容易に使いこなせる。何より人間にストレスを与えることなく一緒にいることができる。しかし『PLUTO』の軍用ロボットやその他極限作業用のロボットならば、そうした制約に服する必要はなさそうに見える。実際、いま現実に戦場で用いられている軍用ロボットに、あからさまに人間型のものは存在しない。もちろん今のところそれらはマンガやSFに登場するような完全自律型の自我を持つ人造人間ではなく、リモコン飛行機やよくできた自動機械以上のものではないのだが。

 問題は、彼らが極限作業用ロボットであっても、人間と協働するロボットであり、かつまた人間によって直接操作されない、完全自律型の自我を持ったロボット――人造人間であるということだ。操作されなくとも、命令されなくとも、自分で何をなすべきか、あるいは何をしたいかを判断し、決断し、実行できるロボットであるということだ。それはどういうことか? 
 そのようなロボットは、そもそも、社会の中でしか生きられないだろう。そのような「理性」「自我」を持った存在は、他の類似のそれぞれに「理性」「自我」を持った仲間との付き合いなしには、そうした「理性」「自我」を育むことはできないだろうし、またそもそも必要ともしないだろう。となればそうしたロボットもまた「仲間」とともに「社会」の中で生きるしかない。しかしそうしたロボットにとっての「仲間」そして「社会」とは何か? 同じ種類の、同様の機能を持ったロボットたちの数は少なく、それだけでは十分な「社会」を形成するには足りないかもしれないし、そもそもそうしたロボットたちは、別の機能を持った別の種類のロボットたち、そして何より人間たちと協働しなければならない。つまりはそうしたロボットたちは、他種のロボットたちや人間たちと「仲間」となり「社会」を作らなければならないのだ。となれば、すべてのロボットたちの製作者であり、彼らの住まう世界の「相場」を形成している人間たちと容易にコミュニケート――それはもちろんプログラム言語を通じてのやり取りにはとどまらず、人間の用いる自然言語を、更にはボディランゲージをも用いたものでなかればならない――できる形状・サイズを備えていた方がよいだろう。しかしそうした要請は、人間の日常生活の場とは大いに異なる環境で仕事をする、極限作業用ロボットにとってそのままでは満たしがたい――それらは機能の要請に応じて、人間とはずいぶん異なった形をとるだろう。
 浦沢が主人公の戦闘ロボットたちに二つの身体を持たせたのは、この矛盾を解決するためではないか、と思われる。彼らは仕事用、極限作業用(戦闘用)のボディと日常生活用の人間型ボディの二つを持つことによって、人間社会にうまくなじみつつ、人間にはできない極限作業をもこなすことができるのである。

 しかし、ここで以下のような疑問が生じる。そもそもなぜ自律型ロボットを(仮に作れたとして)作らねばならないのか? 現実世界の我々は、いまだ自我、自由意志を有するようなロボットを作り出せていない。現実の我々とともにあるロボットたちは、リモコン、遠隔操作のマニピュレータや、あるいはあらかじめ与えられたプログラムの範囲内で、限定的に臨機応変な働きをする半自動機械である。しかし、なぜそのレベルにとどめておいてはいけないのだ? 戦闘や災害対応、宇宙や海中での活動等、極限作業への対応は、半自動機械に任せるにはあまりに複雑で不確実であり、リアルタイムに自立的な判断で立ち向かうことが必要かもしれないが、現在ある程度行われているような、遠隔操作の非自律型ロボット、あるいはそれこそガンダムマジンガータイプの、乗り物を使えばよいのではないか? 

 ひとつの解釈としては、本当の極限作業は、たとえ乗り物や遠隔操作ロボットを用いたとしても、人間には対応できない、という可能性である。たとえば現にジェット戦闘機の性能は、人間によく操縦できる限界を突破しつつある、と言われる。たとえば米空軍のF-22ラプターなどは、理論上の最高速度を出すと実質的に操縦不能になるらしい。いわんや宇宙機ともなれば、人間の反射神経では対応できないスピードが普通である。また、遠隔操作にも当然ながら距離の限界がある。月軌道以遠のロボットを地球上からリアルタイム操作することなど、現状では(ひょっとしたら未来永劫)不可能だ。人間の対応可能な限界を上回る速度で、あるいは遠隔操作が不可能な遠距離で、人間同様に自律的な判断を適宜下して仕事ができる存在がいるとすれば、完全自律型のロボットか、あるいはサイボーグ、改造人間であろう。ただし改造人間は、機械的なものであれ生物工学的なものであれ、その基盤が普通の自然人である以上、その性能には(特に神経科学的な)限界があるだろうし、またそのような改造人間は、仮にたった一つの極限作業用身体しか持たないのであれば、「怪物」となって「社会」から疎外されてしまう可能性が高い。それを回避するためには改造人間も、作業用ボディと生活用ボディを使い分けねばならないだろう。ここまでくれば、もし仮に完全自律型ロボットが可能であるとするならば、それでもがんばってサイボーグを使わねばならない理由が見当たらない。

 さて、以上のように考えれば、果たして作者たる浦沢直樹長崎尚志がどれほど自覚していたかどうかはわからないが、『PLUTO』の作中世界においてなぜロボットたちの多くが非常に人間的な姿かたちをしていたのか、の理由は大体において明らかである。
 ところで、ここで描かれたような世界の実現可能性は、果たしてどれくらいだろうか? 完全自律型のロボットが実際に作られられるかどうかはわからない。原理的に不可能である理由は私見では存在しないが、だからと言って現在の我々の文明の延長線上で実現するかどうかはまた別の問題である。更に仮に可能だったとしても、意図的に禁欲され、実現されない可能性はある。そうなれば我々とともにあるロボットは、リモコンのマニピュレータか、あるいは犬猫レベルの知能を持つにとどめられ、そのペットや家畜などの動物と同様、その福祉に配慮する必要はあるが、その権利を尊重し、その責任を問えるような存在ではない程度のものになるだろう。責任を負うのは相変わらず、設計者、所有者、管理者たる人間であり続けるわけだ。


*参考文献
浦沢直樹PLUTO小学館
長谷川裕一クロノアイズ講談社
あさりよしとおまんがサイエンス(8)』学研
グレッグ・イーガンディアスポラ』ハヤカワ文庫
稲葉振一郎『オタクの遺伝子』太田出版
P・W・シンガー『ロボット兵士の戦争』NHK出版
けいはんな社会的知能研究会『知能の謎』講談社ブルーバックス
ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題』