「救命艇問題」

 その昔書いたメモ。何かがまだ欠けている。たとえば「単なる遭難者にとっての、遭難者同輩を助ける義務と、救助隊員にとっての遭難者救出義務、そして為政者の義務」の比較検討とか。
 本来登山とか危険なアウトドアスポーツに詳しくない人間の論じるべきことではない。

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救助隊員のあなたが、沈没事故の連絡を受けて現場に急行したとしよう。ところが、救助隊員のあなたが乗っている船には一人分の余裕しかないのに、現場では二人の人間が溺れていたとしよう。(中略)
 いつも不思議なのは、人間の生死は最も重大な問題であるはずなのに、最も算術的に処理しやすい問題になってしまうということである。二人を救助する方が一人を救助するよりも正しいということには、2が1より大きいということ以外に根拠はない。二人を救助できない場合には一人を選択して救助するのが正しいということには、マイナス2よりマイナス1が大きいということ、マイナス1よりプラス1が大きいということ以外に根拠はない。救命船問題とは、道徳の問題ではなく、算術の問題にすぎないのだ。そして、二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わないとすれば、また、こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わないとすれば、二人の中から一人を選択する状況とは、道徳が果てる自然状態、すなわち道徳的には<何でもあり>の状況であると言うべきである。(バーナード・)ウィリアムズのようにそこから何らかの道徳的帰結を引き出すこと自体がどうかしているのだ。
 私はむしろこう言いたい。救助隊員は躊躇なく二人を乗せるべきである。<三人とも助かるか、それとも三人とも助からない>のが最善であると思うからだ。現実の世俗的世界は、一度もそのような運命共同体を実現したことはない。核戦争ですら、政府指導者を含めた全員を一度に死なせることはできないのである。<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが、算術的道徳によって一部の人間だけを優先するような状況を根こそぎにしてくれる。そして、生死に関してさえ、遠くより近くを優先して構わないとする共同体論者はどこか過っているとしか言いようがない。共同体論者とは、遠くで何人死のうが痛痒を感じずに、先進資本主義国の良い生活を正当化する連中なのである。

小泉義之デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書)23-24頁


「二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わないとすれば、また、こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わないとすれば、二人の中から一人を選択する状況とは、道徳が果てる自然状態、すなわち道徳的には<何でもあり>の状況であると言うべきである。(バーナード・)ウィリアムズのようにそこから何らかの道徳的帰結を引き出すこと自体がどうかしているのだ。」
 これをとってみればはごもっともな話であり、実際この「救命船問題」の原型たる、救命船が不在で遭難者たちしかいない「カルネアデスの船板」の暫定的な結論は、それが道徳的なレベルの話かそれとも法的なレベルの話かについてはさておき、「相手を見殺しにしても責められない」であった。そしてまさにこのような「道徳的には<何でもあり>の状況」として自然状態を描き出したホッブズスピノザもまた、同様に結論した。
 しかしここで重要なことは、もちろん、但し書きの方である。つまり「二人を救命できない状況を引き起こした人間の責任を問わない」、あるいはまた「こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任を問わない」の方である。
 「道徳」という言葉を仮に非常に近代的な意味にとって、普通の人にとっての社会的生の指針と理解するならば、普通の人々の普通の生活は「カルネアデスの船板」(そしてまた「救命船問題」)のような極限状況にはまず出会わない、ということを想定して送られるものであり、それゆえにまたこのような意味での道徳もまた、このような極限状況に際してのガイダンスが含まれている必要はない。「公益」とか「正義」の観点から重要なことは、普通の人をこのような極限状況に(少なくとも本人が望んでもおらずまた適切な用意もしていないのに)追い込まない、ということである。そしてそのための指針というものがあるとしても、それが「道徳」のなかに含まれている必要はない。
 つまりある「二人を救命できない状況」が人為的なものであり、その責任を問うことのできる人間が具体的にいたとしても、それは基本的には「道徳」の問題ではなく、あえて言えば「法と秩序」「政治」の問題である。
 もちろん現代世界においてほぼ唯一正統性を認められた政治的意思決定方式は「民主政」であり、民主政において主権者、意思決定の究極の主体は一人ひとりの普通の人々である。しかし同時にその際に人々は、自分自身の個人的利害や偏見を括弧に括って「公益」「正義」の観点からの判断を要求されるわけであり、あまりにも高度なその理想にできるだけ近づくための制度的工夫として、広い意味での「代表制」――個人的・私的利害からある程度切り離され、できるだけ大局的かつ不偏の観点から物事を判断できるような職位に、一部の人々が選出され、意思決定の実務を担う――が存在している。つまり間接民主政は、理想の民主政たる直接民主政が不可能であるがゆえに選ばれる次善の策ではなく、固有の意義を有している。すなわちそれは「道徳」と「政治」の区別・断絶を根拠としている。
 となると「こうした作為的ストーリーをことさらにこしらえる道徳学者の責任」も明らかであろう。このようなストーリーにプラスの意義があるとすれば、普通の人々の負担を減らすための制度設計、法的指針を設定する立法官僚ならびにその候補者(「道徳学者」もまたここに含まれるわけだが)にとっての教育マテリアルとしてであって、不幸にしてそのような局面に落ち込んでしまった普通の人々のための指針としてではありえない。にもかかわらずここで「道徳学者」が、普通の人々に対してなにやら道徳的威嚇をなすのであれば、ここで責められるべきはもちろん「道徳学者」の方だ。
 もちろん民主政の世界においては、ここで立法教育・政治教育のサービスを受けるのは狭い意味での官僚・政治家候補たちだけではなく、それこそ有権者(ならびにその予備軍)たる普通の人々もまたその受益者であるわけだが、そこで人々はあくまでも「有権者」=公民としてその教育を受けるのであって、私人としてではない。


 さてここで更に小泉が看過した「カルネアデスの船板」と「救命船問題」の区別について論じられねばならない。ここにおいて「救助隊員」が登場するかしないか、は微妙な違いをもたらす。
 さてこの「救助隊員」とはいったい何の比喩であるのか、が問題である。為政者・立法者の比喩ではない。もちろん「救助隊員」も為政者・立法者と同様に、このような極限状況をメシの種にしている職種には違いないが、しかし両者の間にはやはり決定的な違いがある。すなわち、時として為政者・立法者にはこのような極限状況の発生に対する責任が帰せられうるのに対して、「救助隊員」はそうではないからだ。「救助隊員」とはすなわち官吏、それも立法官僚というより現場で人々に直接サービスする、消防士、警察官、教師、その他現業公務員の代表である。やや侮蔑的な言い回しをすれば「小役人」となろうか。類似の存在として、必ずしも狭い意味での「公務員」ではないにせよ、やはり公益への奉仕を職業倫理の核としている医師看護師、法律家等の「専門職」がある。
 こうした「小役人」たちはその職位ゆえに普通の私人にはない技術や権力を行使することができ、その反面で公益に奉仕する責任を負う。かれらはその現場においてそれなりの裁量権を有し、臨機応変の対応を求められる。たとえば「救命船問題」においては、遭難者たちは「カルネアデスの船板」の場合と同様、責任を問われることはないが、「救助隊員」は、何人救うか、誰を救うか、どうやって救うか(あるいは救わないか)についての裁量権を有し、そしてその決定に対して責任を問われるであろう。
 しかしそれでもなお「救助隊員」には、この極限状況そのものについての責任はない。それはもしあるとすれば、為政者・立法者たちの方にある。
 問題をいま一度整理してみよう。「カルネアデスの船板」あるいは「救命船問題」のような極限状況において人はどう振舞うべきか、またそのような極限状況に時折誰かが落ち込んでしまうような社会において、人々はなにをなすべきか。まず普通の人々がそのような極限状況に陥った際にどうすべきか、を考えよう。もちろんそのような極限状況における、誰にでもわかって使えるガイドラインが仮に設計可能であり、それを人々に周知させることができるのであればそれに越したことはない。しかし我々が「極限状況」と呼ぶのはまさにそのようなガイドライン、マニュアルがほとんど想定できないような状況である。だからそのような「極限状況」における普通の人々は、まさしく「道徳的には<何でもあり>の状況」としての自然状態であり、ホッブズスピノザの言うとおり、そこにおける彼らの行いには道徳的な責任を問うことは不適切である。
 これに対して為政者・立法者、つまりは政治家や高級官僚、そして私人ではなく公民として振舞う限りでの普通の人々の場合はどうかといえば、彼らはもしも問題の極限状況が人為的に引き起こされたものであり、適切な公共政策によってそれを防止しえた、あるいはその発生確率を下げられたにもかかわらず、そうした努力を怠っていたのだとすれば、当然に責任を問われる。しかしその責任は状況の発生そのものへの責任である。そしてたとえその結果人命が失われたとしても、そこでの人命はまずもって抽象的なもの、それこそ「数」で表せるし表す他はないもの、である。何となれば「カルネアデスの船板」や「救命船問題」において、具体的に誰の命が失われるか、は言ってしまえば偶然の問題であり、出来事の悲惨さの核心にはない。問題は「特定の誰の命が失われるかは不確実だが、誰かの命が失われることは確実である」というところにこそある。そこでは人命は数でしか測れない。そこにこそことの悲惨さの核心がある。(なお東浩紀ソルジェニーツィン試論」『郵便的不安たち♯』朝日文庫、所収、をも参照。)
 「カルネアデスの船板」状況において同輩を見捨てて生き延びた遭難者にとっては、ことの悲惨さの核心は自分が見捨てた、場合によっては殺したその同輩個人のかけがえのなさにこそある。しかし第三者たる為政者には、そのような悲しみ方はそもそも許されていない。
 さて最後に、「救助隊員」=「小役人」の場合を考えよう。「救助隊員」は極限状況をメシの種とするプロであり、プロにとって極限状況は、普通の人々にとってのような異常事態ではなく、日常である。だからプロは場数を踏むことによって、極限状況での適切な振舞い方についての一定の方針を獲得し、判断力を得ていることを期待されるし、事実ある程度はそれを実現している。それが専門職に期待される「職業倫理」というものだ。
 だがそれは、具体的にはどのようなものであるべきか? 結論的に言えば、少なくとも以下のことは言える。先に引用した小泉の議論は誤っている。
 再度引用しよう。
「救助隊員は躊躇なく二人を乗せるべきである。<三人とも助かるか、それとも三人とも助からない>のが最善であると思うからだ。現実の世俗的世界は、一度もそのような運命共同体を実現したことはない。核戦争ですら、政府指導者を含めた全員を一度に死なせることはできないのである。<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが、算術的道徳によって一部の人間だけを優先するような状況を根こそぎにしてくれる。」
 ここには少なくともひとつ、大きな飛躍がある。所詮はローカルなものに過ぎないし、それ以上のものであってはならない極限状況が、一気に普遍化されているからだ。「救命船に誰を何人乗せるか」という問題が、いきなり世界大のスケールにずらされてしまっているからだ。
 ここではとりあえず、救助隊員が「救命船に誰を何人乗せるか」という問題について問う必要はない。それはそれぞれの現場で、それぞれの救助隊員が、己の責任において判断するしかないことである。(現実問題として、「<三人とも助かるか、それとも三人とも助からない>のが最善である」などという教育を受けた救助隊員が今現在存在しているはずはないし、存在していたとしたら、その属する組織は大きな指弾を受けるであろうことはとりあえずおいておく。)それに問題があったなら、あとで好きなだけ査問でもなんでもすればよい。そうではなく、ここで考えるべき問題は、もし仮にそこで世界――つまりは公共社会全体が問題となっているのであれば、以下のとおりである。すなわち、少なくとも普段はそのような極限状況からは遠く離れて生きており、しかしそうした極限状況に直面する可能性が絶無というわけでもない立場の人間が、このような極限状況に対してどのような態度をとるか、である。
 もちろん問題はいくつかのレベルに分けて考えられなければならないが、基本的にはこれは公共政策の問題である。まず第一に、現場に近いレベルから考えるならば、このようなハードケースに頻々と出会わざるを得ない救助隊員をどう支援するか、彼/彼女が現場で適切な判断を行い、最善の成果を挙げ続けられるようにするにはどうしたらよいか、そのための仕組みを考える、という課題がある。救助隊組織をいかに運営するか、その下で救助隊員をいかに育成し、管理していくか、である。そして第二にはもちろん、こうした不幸なハードケースそれ自体の発生確率を下げること、である。つまり極限状況があくまでも不幸な例外、個人レベルではほとんど無視してよいほどの例外になるようにすることである。ということはここから以下のようにも言いうる――世界全体がこうした極限状況に放り込まれるような事態だけは、絶対に避けなければならない。
 となれば小泉の「<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界だけが、算術的道徳によって一部の人間だけを優先するような状況を根こそぎにしてくれる。」を素直に聞くことはもはやできない。それは事実判断としてはそれほど誤っていないかもしれない。しかしそのような世界の到来を欲することは、基本的には倒錯しており、ある意味で邪悪であると言わざるを得ない。人間は不完全であり、ミスを犯す。仮に極限的な努力でミスをなくしたとしても、不運な偶然というものはある。よって人為であれ純然たる不運であれ、極限状況は時に到来する。しかし幸運にも、そのような極限状況があくまでも極限、例外ではないような世界に我々は生きている。(進化論的、人間原理的に言えば、もしそうでなければそもそも我々は存在さえしていないだろう。)それを我々は肯定すべきであり、その上で極限状況をできるだけ予防し回避し、起きてしまった時は最善の対応に努力すべきである。決して、極限状況が例外にとどまらない世界=「<全員が生き残るか、それとも全員が死ぬ>世界」を欲するべきではない。

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

郵便的不安たち# (朝日文庫)

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