『社会学入門』付録以来の宿題(続)

 前回の続きです。相変わらずいい加減。
 リチャード・ジェフリーのベイジアン意思決定論というのは

The Logic of Decision

The Logic of Decision

 更に原点たるラムジー論文は言うまでもなく
ラムジー哲学論文集 (双書プロブレーマタII10)

ラムジー哲学論文集 (双書プロブレーマタII10)

所収。



 ところでこの「寛容の原理」に導かれた意味と信念の全体論という構想を提示する際にデイヴィドソンは、そのインスピレーションの源泉としてベイズ的意思決定論を引き合いに出す。不確実な世界を前にしての、合理的主体の意思決定理論である。デイヴィドソンはそのキャリアの初期において、パトリック・スッピスらのパイオニアに誘われ、意思決定理論にかかわるいくつかの論文の共著者となっている。期待効用理論によれば、不確実な世界に直面する主体は、もしも合理的であるならば、起こりうる将来の可能性に対して、整合的な予想を形成することができる。ここで「合理的」というのは、例えばただ単に「論理的に一貫した思考を行うことができる」という謂いではない。「論理的に思考したうえで、それを基に自分の効用最大化しようとする」という、経済学的な合理性がここでは問題となっている。期待効用理論の説くところでは、このよう意味での合理性を備えた主体だけが、不確実な世界において、その世界の中で起こりうる将来の可能性に対して、整合的な予想を組み立てる(数学的に言えば、起こりうる事象に対して、一貫した確率分布を割り当てられる)ことができる。
 これを哲学の言い回しに置き換えるならば、不確実な世界についての予想、それぞれの可能性に対する主観確率の割り当ては「信念」である。合理的主体はまた、起こりうる可能性に対して、こうなってほしい、こうであってほしくはない、という希望、願望、つまりは欲求もまたもっている。期待効用理論の説くところでは、信念と欲求とは相互依存的であり同時決定される、というのである。世界の中の可能性に対してシステマティックな欲求を持っている者でなければ、その可能性についての予想を立てることはそもそもできない、と。


 見たとおりデイヴィドソンの意味と信念の全体論は、フランク・ラムジー、リチャード・ジェフリーらによるベイズ的意思決定論にインスパイアされているわけだが、更にこの意思決定論が欲求と信念の全体論として解釈される。そしてこれらが単に並列されるのではなく、結合されて欲求、信念、意味の全体論――統一理論が展望されるわけだ。デイヴィドソン自身の言葉に従えば「態度内全体論」のみならず「態度間全体論」もまた必要である、というわけである。(分析哲学風においては信念、欲求、意図、知識などは有意味な命題をその内容として持つ心的態度として「命題的態度propositional attitude」と呼ばれる。)
 統一理論においても、その思考実験において想定されているシチュエーションは「根元的解釈」のそれと同様である。発話者の発話を解釈者が懸命に解釈しようとしている。その際解釈者にとって利用可能なデータは、発話者の発話行為であり、そこに現れる発話者の、発話の真理性へのコミットメントである。そこから解釈者は、発話の具体的な意味内容はとりあえずわからなくとも、発話者と自分が共有している状況を基に、発話の真理条件を理解し、更には発話者の信念をも推測していく。ここまでは「統一理論」手前の「根元的解釈」のお話である。「統一理論」の構想においては、発話者の発話へのコミットメントから、信念(発話内容をどの程度発話者が信じているか)のみならず、欲求(発話内容に表現された状況を発話者がどの程度欲しているか)までを解釈者が解釈していく、と考えるのである。
 欲求抜きの、信念と意味の全体論においても、複数の発話の解釈を通じ、発話者の発話、それを支える言語と信念の体系性が、「寛容の原則」に従って解釈者によって再構成されていく。ただしそこでの信念はまだ「発話の真理性へのコミットメント」という以上のものではなく、発話者がどの発話にどの程度コミットしているか、というコミットメントの強さ――信念の強さの量的な差違が十分に見えてこない。これに対してベイジアン意思決定論においては、選択肢の間の選好関係の背後に、一次元的な尺度としての効用が見出される。そこでジェフリーは、選考の対象である選択肢を、発話される文の命題によって表現される状況と解釈し、それに対する主体の選好関係を想定する。そして合理的な選好関係の背後には効用関数(フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数とは若干異なるタイプのものであることをジェフリーは示しており、デイヴィドソンはそれを受容している)を想定できるため、発話者は自らの発話で表現される状況に対して、それぞれにそこから得られる効用=それぞれの状況の望ましさdesirabiltiyを割り当てることができる。そしてジェフリーは、発話者主体がそれぞれの状況に割り当てた望ましさから、発話者主体がそれぞれの状況に想定した主観確率までをも導き出す手順を提示した。このジェフリーの示した手順を継承することによって、デイヴィドソンは意味・信念・欲求のそれぞれが相互依存しあって還元不可能となる、全体論の構想に到達したのである。


 さてこの「統一理論」によって合理的主体性の原理論の基本的な方向は定まってしまったといってよいほどなのだが、そこから社会理論へはどのように展開していけるだろうか? まずはそもそも「根元的解釈」論以来のデイヴィドソンの議論枠組み自体が、最初から社会的なものであったといえる。すなわち、行為者の理解は単なる観察と、そこからの法則性の帰納ではなく、相手に合理的主体性を先取り的に想定する(つまりそれは「寛容の原則」である)「解釈」であるのだから。ただし典型的にそこで想定されている状況は、発話者による発話行為の解釈というまさに「コミュニケーション」ではあるとはいえ、原理的には、自らは発話しているつもりのない行為者のふるまいを第三者として観察しつつ解釈する、という状況もありうることは気を付けておかねばならない。問題は我々が典型的な状況として準拠すべきは、どちらか、ということだろう。
 状況がコミュニケーションである場合、つまり観察対象の行為主体が発話者として観察者に意図的にコミュニケートを試みている場合には、デイヴィドソンもそこから学んでいる、ポール・グライスの会話における「協調の原理」の作動が想定できる。ごく乱暴に言えばグライスの言う「協調の原理」とは、解釈者サイドにおける「寛容の原理」の、発話者サイドでのカウンターパートであり、発話者は受け手にとって分かりやすいように発話を心がけるという行動準則であり、またそういう準則を発話者は取っているだろう、という受け手の側での(この側面ではまさに「寛容の原理」に他ならない)想定である。そこに社会的関係を想定するならば、相互の合理的主体性としての理解可能性は、大まかに言えば保証されている。
 しかし、そうではない場合には? ここで観察者が、観察対象と社会的関係に入らない場合には? それでも、デイヴィドソン流を忠実に踏襲するならば、たとえ対象に対してコミュニカティヴにはたらきかけず、一方的に物陰から、純粋に客観的に対象を観察していたとしても、対象を合理的行為者として「理解」し、その行動を有意味なものとして「解釈」しようとするならば、それは対象と現に社会的関係を取り結ばずとも、潜在的にはそのような関係に入りうるものとみなさざるを得ない、ということになるはずである。これは「寛容の原則」のコロラリーというべきだろう。


 以上に加えて、最後に、デイヴィドソンにおける「真理の社会性」とでもいうべきアイディアに触れておかねばならない。
 既に触れたようにデイヴィドソン言語哲学、意味論は「真理条件意味論」と呼ばれている。それはかいつまんで言えば「文の意味を理解するということは、その文の表す命題が真となるためには、世界がどのようになっていなければならないのか、世界の中にどのような状況が成立していなければならないのか、を理解するということである」という発想である。
 これは著しく客観主義的で実在論的な発想である。すなわち、ある命題の真理条件とは、「その命題が真であるために成り立っていなければならない条件」であるが、その命題を文(ないしそれに類する表現)として発話する話者は、それを発話するために、その命題の真偽それ自体を知っている必要はなく、またその真偽を確かめることができる必要さえもない。裏返して言えば、基本的に命題は真か偽かそのどちらかに決定しており、そのことは命題を発話する、発話せずとも信念として心に抱く人間の認識能力――その真偽を確かめる能力に関係がない。人間が決してその真偽を具体的には知りえない命題であっても、その真偽は決定している。そしてそのような命題についても、人間はその命題と対応する真理条件の関係についてなら、認識し語ることができる。もう一度平たく言うと「(人間が発話できる)文、そこに表現された命題の真偽は、人間の認識能力のいかんにかかわらず、それとは無関係に客観的に決まっている」という思想が、真理条件意味論の根本にある。
 このような真理と意味に関する強力な客観主義的実在論――認識論的に言えば非基礎づけ主義・外在主義――は一見、人間に対して神のごとく真実を認識する能力を要求する無茶な議論であるかのように見える。同様のことは全体論的言語観についても言えよう。
 一見、こうした実在論・外在主義は全体論――それはただ単なる「意味の全体論(態度内全体論)」ではなく、「意味・信念・欲求の全体論(態度間全体論)である――と組み合わされたとき、無限の知力を人間に要請しているかのごとく見えてしまうが、デイヴィドソンの本意はもちろんそこにはない。デイヴィドソン自身が

「われわれが全体論を採用しなければならないのは、他の命題的態度についてのまだテストされていない仮定が立てられる場合にのみ、ある証拠を任意の一つの命題的態度にたいする証拠と正当にみなすことができるという事実があるからである。」(「価値評価を表現すること」『合理性の諸問題』66頁)

と述べていることからも明らかな如く、全体はある部分の意味を確定するために、既にあらかじめ確定されているのではない。そうではなく、あたかも確定――とは言わないまでも大体安定しているかのごとく仮定されるのである。全体は既知なるがゆえに前提とされるのではない。反対に、未知であるからこそ前提されざるを得ないのだ。ここで「仮にその仮定がとてつもなく間違っていたら?」と問うても無駄である。もし仮にそうだったとしても、できることは何もない。
 更にそれに加えて、デイヴィドソンは「人間が世界認識なり他者理解なりにおいて「全面的に間違っているかもしれない」という懐疑にはそもそも意味がない、なぜなら何事かについて「間違っている」と言えるためには、それを「間違っている」と判定するための正しい基準を前提としなければならないから」(「真理と知識の整合説」『主観的、間主観的、客観的』所収、他)と論じる。われわれは、「人間の認識や理解はおおむね正しい」と仮定してよい、というより、そう仮定する以外にできることは何もないのである。
 このように強力な客観主義的実在論を手にした以上、発話の意味とはその真理条件のことなのだから、客観的に実在する状況を共有している主体同士、同じ物理的世界の中に存在している主体同士は、当然に意味をも共有する。この、複数の主体とそれらが共有する客観的実在との三角関係に対して、デイヴィドソンは「三角測量triangulation」なるアナロジーを適用する。
 ここで、状況を共有しつつコミュニケートする、あるいは直接コミュニケートしないまでも、お互いをコミュニケーション可能な存在として理解しようとする主体同士は、ただ単に客観的実在世界を共有するだけではない。相手をコミュニケーション可能な主体として理解しようとするならば、相手も自分と同質の合理的な主体と仮定しなければならない――つまりはその主体のうちに信念・欲求・意図等々の命題的態度の整合的な体系を想定しなければならない、というだけでもない。驚くまいことか、ある意味で話者、ないし行為者とその発話ないし行為の解釈者とは、合理性のみならず意味の体系、すなわち〈言語〉でさえも共有している、と想定せざるをえないのだ。
 とはいえこの場合共有されていると仮定されるべき〈言語〉は、たとえば日本語や英語、記号論理の体系や数学、あるいはBASICやC言語といったプログラミング言語という風に、われわれが具体的に「言語」と呼んでいる具体的なシステムのことではない。そのような、普通の意味での「言語」の共有を前提しないのが、「根元的解釈」という思考実験が想定する状況である。しかしそのような状況においてさえ、解釈は可能であり、解釈者は行為者の、あからさまに発話と分るもののみならず、有意味と見えるふるまい全般を観察し、その発話・振る舞いのうちに行為者の状況へのコミットメントを見出し、そこから行為者が発話・振る舞いに込めた意味と、状況についての行為者の信念とを推測していくことができる、とデイヴィドソンは考える。さてそうした状況において、解釈者はその都度その都度行為者のふるまいを解釈するための暫定的な枠組み(デイヴィドソンは「経過理論passing theory」と呼ぶ)を作っては修正し、の繰り返しを行っていくだろう。理解がそれなりに進行している限りにおいて、この「経過理論」はその都度その都度場当たり的に、主体間で共有されていることになる。たとえろくに「先行理論prior theory」を共有していない者同士であっても、「経過理論」は共有できる、というよりもできていると想定せざるを得ない。普通の意味でわれわれが、人々があらかじめ共有している/していないを論じるあれこれの具体的な「言語」とは「先行理論」であり、そうではない、つねにすでに場当たり的に共有されていると仮定するしかない〈言語〉とは「経過理論」のことである。このような状況は「つねにすでにそこに〈言語〉が成立している」というより、むしろデイヴィドソンに従って「いわゆる「言語」なるものは実は存在しない」というべきなのであろう。
 かくして客観的世界は確かに実在し、それを踏まえるがゆえに客観的真理なる概念には意味があり、それは客観的であるがゆえに人々の間に、思考する合理的な動物の間に共有されており、その意味で真理は社会的である、といえる。しかしデイヴィドソンはもちろん、もう少し無難なわかりやすい方向からも真理の社会性について論じてくれている。「態度間の全体論」に従えば、厳密には(主観的)信念と(客観的)意味とは相互前提関係にあって還元不能なのだが、あえてここで説明の便宜のために「客観的意味なしの主観的信念」を想定してみる。孤独な動物であれば、こうした信念の主体でありうるだろう。しかし他者とともにある社会的な動物は、主観的な信念の世界に自足するわけにはいかない。同じ世界を共有する他者が、同じ世界内の同じ事物に対して、自分と同様に、その他者なりの信念を有するはずだ。となれば、両者の信念の摺合せ、比較といった問題が、コミュニケーションにおいて発生するだろう。その中で合理的主体は、ただ単に信念を持つだけではなく、信念の「概念」、自分が信念を持つという信念を獲得する。そのことは同時に、単なる(主観的)信念ではない(客観的)真理の概念を含意せざるを得ない――大体こんな風にデイヴィドソンの理路は展開する。