「公共政策論」メモ(続)

 近代的な「政策」という観念が意味を持つためには、古典的な意味での公私二分法が崩れなければならない。しかしそれは単なる区別の後退、縮退、先祖がえりという風に考えられるべきでもないだろう。一つ注意しておくべきは、「自然状態」という概念の実質的な無効化である。自然状態と呼ぶべき領域がなくなってしまえば、私的領域は公的領域によって包囲されざるを得ない。仮に公私の区分それ自体が無効化していなくとも、私的領域にとっての環境が公的領域のコントロール下に入ってしまいかねないからだ。
 しかしこの議論はやや先走りすぎである。慎重に進まねばならない。


 以下、「自然状態」とは何を意味するのか? を考え直してみたい。


 「近代社会科学の原点」をどこに求めるのか、という問いかけに対して、よく見られる回答はもちろん『リヴァイアサン』のトマス・ホッブズであるが、なぜホッブズリヴァイアサン』が原点とされるのか、は必ずしも自明ではない。
 たとえば「自然法」という言葉、概念自体はきわめて古く由緒正しい言葉づかいであり、そうした伝統は今日でもカトリックその他のキリスト教倫理学の中に明確に継承されている。もちろんホッブズ以降の世俗的な思想家が「自然法」というときにはそうした伝統からのある断絶が見られるのであり、その断絶を経た「近代自然法」の原点をホッブズに求め、それを以て近代社会科学の出発とみなすことはもちろんできるが、その場合もちろん古典的な自然法とは明確に区別される「近代自然法」とは何か、をはっきりさせなければならない。
 あるいはいわゆる「社会契約論」と呼ばれる理論構図にしても、政治権力や正統的な支配の根拠を、その権威・権力に服従する人民による合意に求め、更には合意に反した支配から正統性を剥奪するような議論自体もまた、古代そして中世に既にみられる由緒正しいものである。
 「自然法」や「社会契約」それ自体にホッブズの新しさや創見を見出せないのであれば、何がホッブズの政治理論の核心であるのか? 私見ではそれは「自然状態」という発想であり、「自然法」にしても「社会契約」にしてもこの「自然状態」という場に置かれることによって新たな意味を発揮し始める。そしてこのホッブズの「自然状態」というアイディアによって切り開かれた地平の上で、ベネディクト・スピノザジョン・ロックといった(ほぼ)同時代人の、そして後世のジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」もまた可能となったのである。
 ホッブズ、そしてロックの場合、「自然状態」とは公権力、われわれが今日国家のそれを典型としてイメージするような、複数の人々を有無をも言わせず拘束し、法に従わしめるような権力が不在である状況を意味するのであって、決して文明社会以前の原始状態などはイメージされていない。「自然状態」の語でそうした状況を想定するのはたとえば後世のルソーであり、それゆえにルソーはホッブズらの言う「自然状態」は実は「社会状態」であって「自然」ではない、というのだ。しかしホッブズやロックにおいて「自然状態」という語はあくまでも国家権力の不在という意味での無政府状態だけを意味するのであり、そこにも社会的な関係やなにがしかの秩序は想定されている。
 ホッブズの場合には「自然状態」の概念は純然たる理論的フィクション、「もしも国家権力が不在だったならどうなるか」という思考実験であるから、それは現実の社会から国家権力とその機能を消去した反実仮想である。そのようなフィクションであるから、ホッブズがそこにそもそも実現可能性を見ていたかどうか自体も定かではない。『統治二論』のロックの場合にはそれは単なるフィクションではなく、文明社会に属しながらどの国家の権威にも服していないような人々は(たとえば北米植民地に)現実に存在しているし、そもそも国家間関係それ自体が、上に絶対的に優越する権威を持たない自然状態に他ならない、とされる。そのような重大な違いはあるにせよ、「自然状態は無政府(統治不在)状態ではあるが社会状態ではある」点において共通している。更にロックの場合は自然状態は無法状態でもなく、公権力が不在でも人々の分散的自治によって、十分に法と秩序が保たれたものとして想定されている。
 つまりここで「自然状態」とは、国家による公的な統治の必要性・正統性、あるいはまたその出現の必然性を導き出すための議論の出発点、大前提である。それゆえに「自然状態」は我々の――より厳密には論者の生活する現実世界、現実の社会からは最小限の仕方でのみずれて、かけ離れているのである。そして、そこから起きることは、神の意志によってではなく、あくまでも人間の理性と自由意志に導かれた行動によって引き起こされる、と考えられている。ホッブズもロックも神を信じてはいる、しかし神の直接の導きによって、神自身の意思と行いによって統治が形成され、法と秩序が実現される、とは考えていない。自然状態とは、それ自体は神が造った場であろうが、神が意図的になしたのはあくまでもその場を造るところまでであり、そこにおいて何を人がなすかは、神が人間に与えた理性と自由意志に任されており、直接の具体的な指示はない、と考えられている。このような「自然状態」という出発点の設定、それによって、統治権力の樹立が神の直接の導きには帰せらなくなったこと、こうした議論の構造が、ホッブズ、そしてロックの自然状態(の想定に基づく社会契約)理論をして、近代社会科学の出発点と呼ぶにふさわしいものとしているのである。


 以上をパラフレーズするなら、ホッブズ、ロックらの議論において「自然状態」という概念は政府、統治、法と秩序という主題を展開するための背景、地平である。つまりそれ自体は主題ではなく、主題はあくまでも国家権力の方にある。そしてもう少し踏み込んでいえば、国家権力、統治の設計と樹立のメカニズム自体は、合意――つまりは、個人のではなく集団のそれではあれ、意思的、意図的な行為として提示されている。乱暴に言えば、彼らの議論においても、国家権力は意図的な構築物として理解されているのである。もちろん社会関係、社会秩序の全体がそのような意図的な構築物として理解されているわけではなく、あくまでも国家権力、実定法という局所的なもののみがそうとらえられているのであるが、ではそうした局所的なものを超えたより広い社会的諸関係――そこには「自然法」も含まれるのだが――が、その存立メカニズムがどうとらえられているかといえば、そこがいまひとつはっきりしない――というのがホッブズ、ロックらの議論の欠点――とは言えないにしても、死角である。
 にもかかわらず、死角であり、十分に主題化されてはいないにせよ、そこは自然法という「法」の空間であり、社会的な世界であることは痛切に意識されていることが、ホッブズ、そしてロックの議論を、それこそ古典古代にもみられるような社会契約論的言説と大きく別っている、といわねばならない。アリストテレス的な構図においても、公的=政治的ではない、その意味で私的ではあるが、社会的なる領域の存在は射程に入れられていた。しかしながらアリストテレス的な世界においては、そうした社会的なるもの、またそれは自然な者でもあったが、それは主として家に、オイコスに封じ込められたものとして理解されていた。つまりそこでは社会的なるものは、公的=政治的なものに比べて狭い領域に封じ込められたものとして理解されていたのである。ホッブズ、ロックの考える自然状態とは、そのような狭いものではない。特にロックの場合には、公的―政治的な空間よりも広いものでさえある。そしてロックは、集権的な権力が不在の場合にも、そこで人々は所有権の秩序という、お互いを分かちつつ結びつける形式を自然法として獲得し、それなりに維持し続ける。ホッブズの場合には、国家権力がなければ、つまり実定法化されることなしには自然法は単なる実効力なき理想にとどまるが、それでもそのような理想を自然状態にいる人々は抱くことができる、と考えられている。
 それが家の領域に大体において封じ込められるならば、公的=政治的に秩序付けられない社会的なるものは、それこそ日常的な意味での自然として、つまりは公的=政治的な課題とする必要のない領域として処理することができる。しかしながらホッブズ、ロックによって見出された地平としての自然状態、そこにおける社会的なるものは、必ずしもそのような処理を許さないのではないか? という懸念に我々は襲われる。何となれば家とは異なり、自然状態は国家よりも外延的に広大だと思われるからだ。
 古代後期から中世にかけては、(ローマ)帝国が、あるいは帝国の解体後は(ローマ)教会が、究極的な公的秩序として存在していた、少なくともそう想定されていた。現実的にはともかく、理念的には帝国、そして教会は際限なくその版図を拡大しうるもの、全世界、全人類を包括しうるものと想定されていた。そのような帝国、または教会の存在を勘定に入れるならば、家よりも広大で、かつローカルな国家権力の支配から零れ落ちる人々や地域さえも、少なくとも潜在的、可能的には公的に位置づけられ、組織されたはずだった。しかしながらホッブズ、ロック以降の世界はそうした帝国、教会が不在である世界である。
 もちろんポリス時代のギリシアもそうした帝国・教会が不在の世界であったといえなくはない。だからこそ西洋近代におけるいわゆる「ルネサンス」は、この時代に模範を求めようという運動となってのであろう。しかしながらそこでは、既に見たように、公的領域の外にある社会的なるものは、おおむね家という私的領域に封じ込めてそこで支配し、保護することが可能であるかのように想定されてきた。ホッブズ、ロックの自然状態論においても、そのような議論の構図はおおむね継承されている。すべての人は家の主人か、さもなければ家に属し主人の支配を受ける者であるかのように描かれている。しかしながら明らかに揺らぎはある。奴隷や奉公人という存在の位置づけかたにおいて、ロックにはアリストテレスのような割り切りは見られない。アリストテレスなら人間の中には、その本性からして支配者、自由人たるべき者と、そうではない者との区別がある、と明言してしまうが、むしろロックにとってはあらゆる人間は神の前に平等であり、奴隷状態は不正な状態であって、合意に基づいて雇用される奉公人と奴隷は峻別される。この奉公人という存在は、ロックの考える家の秩序の中の決定的な裂け目である。更にロックの世界では、個々の家は必ずしも自立し自足した単位ではなく、お互いに商業的取引を行う存在でもある。(そもそも雇用関係もまたその一環ではなかろうか?)