自律型ロボット倫理の応用問題

 以前「自律型ロボットの倫理学の基本格率」なるものを思いつき、その議論は『「資本」論』と『オタクの遺伝子』で少し敷衍したのだが、その後グレッグ・イーガンだの飛浩隆だのを読んだうえで更に考えたことを少しメモしておく。


 浦沢直樹PLUTO』は、最初のうちこそいかにもメカメカしたロボットたちが登場してくるが、中盤以降はほとんどのロボットが、主人公のゲジヒトやアトム同様、非常に洗練された人間型ボディを持つものばかりとなる。終わってみればあからさまに人間離れした金属の巨人はモンブランだけで、原作たる手塚治虫の「地上最大のロボット」においてはモンブラン同様の巨人ロボットだったブランドーやヘラクレスも、日常生活用には大きさも形状も普通の人間と変わらないボディを用いる、という設定となっている。
 これは一見「ロボットに萌えない」浦沢が編み出した苦し紛れの小技であるが、深読みするならばなかなか趣深い技法でもある。作品世界において自律型ロボットたちは、固有の自我を持った存在として社会の一員である。その社会とは当然、人間(自然人)主導で、一部にロボットたちも混じった世界である。つまりロボットたちは、人間中心の社会の一員であるためには、人間社会の一員たるにふさわしい身体を備えていなければならない、ということである。しかしもちろん同時に、人間と全く同じであれば、ロボットのロボットとしての存在価値はない。ゆえに、ロボットたちは人間にはない能力を備えているわけだが、一部のロボットたちの能力は、人間サイズ・人間型のボディには収めきれない。そのためそうした、いわば極限作業を任務とするロボットたちは、日常生活用のボディと仕事用のボディの二つを持っているわけである。
 ここで「なぜサイボーグ、あるいは人間が操作する、非自律型のテレプレゼンス・ロボットではいけないのか?」という疑問が生じる。『PLUTO』作中でそれは描かれていないが、おそらくは神経科学的な理由で、人間は巨大ロボットや極限作業用ロボットを自分の身体の延長とはなしえないのだ。人間の神経の能力で直接操作できる程度のロボットは、おそらくは神経の直接接続などの高度なインターフェースなどなしに、伝統的なマニュアル操作で対応できる程度の性能しか発揮しえないのだろう。現に人間は、時速数百キロ程度の乗り物を、どうにかマニュアルでリアルタイム操作できる。そのオーダーを超える速度で、自律的な判断を行いつつ動き回れるロボットは、人間には、たとえ直接神経接続をしても操作できないのだろう。

PLUTO (1) (ビッグコミックス)

PLUTO (1) (ビッグコミックス)


 さてここで今度は、グレッグ・イーガンが描くIntrodus(人間たちの物理的世界からコンピューター内シミュレーション世界への「脱出」)以降の世界について考えよう。長編『ディアスポラ』の世界には、大まかに言って三種類の「人間」が登場する。ひとつは、生物学的な身体を有する人間たち、肉体人。その中には遺伝子操作によってさまざまな変種が存在しており、決して同質ではないが、彼らはすべて普通の意味での「生物」である。そしてもう一つのカテゴリーが「グレイズナー」とよばれる自律型ロボットたち。機械の身体の上で、ソフトウェアとしての自我を走らせている。そして最後のグループが、「ポリス」の「市民」たちであって、彼らは生物でもなく機械でもない、そもそも物理的な身体を持たない存在である。「ポリス」とはそれ自体が高性能コンピューターであり、市民たちはその上を走る自律型ソフトウェアなのだ。
 「市民」や「グレイズナー」の第一世代のほとんどは、生前は肉体人であったが、死亡時に自らの身体を、脳神経の記憶・意識内容まで含めてスキャンしてデータ化し、それを「ポリス」上のバーチャルリアリティ、シミュレーション環境の中で走らせるという形でソフトウェア化した。このような存在を祖先に持つため、その子孫たる、最初から身体を持たないソフトウェアたちも、第一世代(その多くは千年余りを経てもなお生存している)と共存するために、第一世代のための擬似環境に適応して「生きて」おり、それをモデルとすることによって外界、物理的現実世界についての理解を持つこともできている。
 これら三つのカテゴリーの間では、ある程度の移動の可能性があるが、それは対称的ではない。「市民」は「グレイズナー」のボディに宿って身体を持つことができるし、「グレイズナー」もまた身体を捨てて「ポリス」の「市民」となってしまうことが技術的には容易にできる。(グレイズナーが物理的身体をあえて持つのは、主として宗教的・イデオロギー的理由である。)しかし生物である肉体人の場合にはそうはいかない。『ディアスポラ』の場合には、肉体人がその意識・記憶から肉体的な個性までを含めて全面的にデータ化されるためには、その生物学的身体そのものは復元不可能なまでに破壊される必要がある。『ディアスポラ』に先立って、Introdus初期の時代を描いた『順列都市』においては、スキャンのプロセスはそこまで重くはなく、身体を破壊せずに可能とされているが、それはどちらかというと二次的な問題である。問題は、身体が破壊される(生物学的に死ぬ)にせよ死なないにせよ、肉体人から「市民」ないし「グレイズナー」への移行は一方通行であって、逆は基本的にはない、ということだ。「市民」や「グレイズナー」が生物学的身体に自分をインストールすることはできない、とされている。(このようなインストールの可能性を描いたSFももちろんある。例としてはロバート・ハインライン『愛に時間を』。ただし、70年代に描かれたこの作品に、「バーチャルリアリティ」という発想はない。)
 この世界、とりわけ「ポリス」のような純粋ソフトウェア社会がどのようにして物理的・経済的に成り立ち、存続しえているのか、については、すでに十分に確立し爛熟のきわみにある「ポリス」世界を描く『ディアスポラ』ではほとんどまったく描かれていない。この点で興味深いのはむしろ、先述のとおり、Introdus初期の時代、ソフトウェア社会の黎明期を描いた『順列都市』の方である。
 ここで死後をソフトウェアとして過ごす「コピー」たちは、自分たちを動かす計算資源を確保するのに汲々としている。まさに「地獄の沙汰も金次第」であり、彼らは自分を動かす財源として、基本的には生前の資産をもとにしたファンドの運用収益を充てている。そしてこの世界の計算資源は、まだまだ肉体人たちに支配され、彼らのニーズのために動かされていて、「コピー」たちはそのおこぼれをいただくにすぎない。国家予算レベルの資産を持った例外的に特権的な「コピー」たちなら、金の力で十分な計算資源を確保できるが、普通の「コピー」たちは計算資源市場が逼迫すると、自分の計算速度を落としたり、場合によっては一時停止したりして対処しなければならない。つまり、肉体を復元させることをあきらめたり、一部の感覚をカットしたり、あるいは恐ろしいスローモーションで生きたり、「冬眠」したりといった不便、苦痛を耐え忍ばねばならないのだ。更に、そもそも『順列都市』の時代のコンピューター技術はまだそれほど充実してはおらず、最善の条件に恵まれ、常に自分たちを最高速度で走らせることができる大金持ちの「コピー」たちですら、現実世界の人間たちの十分の一以下の速度でしか生きられないのである。
 これに対して『ディアスポラ』の世界では、逆に肉体人たちの方が少数派であるし、それぞれの「ポリス」は完全に自立して自分たちの計算資源を「市民」たちだけのために使えるのみならず、その速度も速く、主観時間では肉体人たちの数十倍、数百倍のスピードで生きている。


 さてここで考えてみたいのは、いわば両極端な『順列都市』と『ディアスポラ』の中間の世界である。『順列都市』の「コピー」たちはなぜ生前のファンドの運用によってしか、自らの生をつなぐための計算資源を支弁できないのか? なぜ、たとえば『PLUTO』のロボットたちのように、「グレイズナー」ボディに憑依して現実世界に出稼ぎに行くとか、あるいはそこまでいかなくとも、現実世界の仕事を一部請け負って金を稼ぐということができないのか? それは一にかかって「速度が遅すぎるから」である。現実世界と同等かそれ以上の速度で走ることが可能になれば、「コピー」たちは現実世界の肉体人たちに対して、いくつかの分野で比較優位を発揮できるようになるはずである。そうやって、現実世界との対等な「交易」が可能となれば、「コピー」たちは現実世界からの経済的な独立を達成することができるようになるだろう。
 しかしそれはいったい、どのような世界だろうか? 
 『ディアスポラ』の世界は、ある意味でロバート・ノージックのメタユートピアが極端な形で実現した世界である。肉体人、グレイズナー、「市民」たちは相互に分かれて生きており、お互いに干渉しない。そもそのそれぞれのカテゴリーの中でも、複数のコミュニティに分岐しており、各コミュニティの独立は完全に保証され、尊重されている。移動の自由もあり交渉もないではないが、各単位が完全に経済的に自給自足しており、交易の必要はない。やろうと思えばいくらでもひきこもれるし、事実圧倒的多数の人々は自らのコミュニティに引きこもっている。
 我々がここで空想しようとする世界は、それとはまたかなり異なったものになる。肉体人とロボットの住まう物理的世界と、ソフトウェア人の住まうシミュレーション世界とは、交易関係を持つ。何となれば、シミュレーションを走らせるハードウェアは、肉体人と物理的ロボットが作って維持するしかないから、ソフトウェア人は彼らに依存せざるを得ない。しかし彼らが十分な速度を確保できているならば、彼らの方から肉体人たちにサービスを提供することもできる。そうやって相互依存関係を確立することができれば、シミュレーション社会は安定して存続することができるだろう。
 しかしながら、ソフトウェア人たちが物理的世界の肉体人たちに提供できるサービスとは、具体的にはどのようなものになるだろうか? 
 肉体人たちが必要とする情報処理作業を請け負う、というサービスは当然に考えられる。もちろんこうした情報処理作業は、シミュレーション世界内で、ソフトウェア人たち同士の間でも行われ、ソフトウェア社会の経済の根幹を形作るのではないかと思われる。
 先述した通り、極限作業用のロボットの操作という仕事もありうるだろう。ただここで問題は、一時的に物理的ボディを持つが普段はソフトウェアとして生きる「市民」的存在と、恒常的に物理的身体を持ち続ける「グレイズナー」的存在と、そのどちらのありようが合理的なのか、である。物理的身体を持つ「グレイズナー」の社会生活は、主として同じ仲間たちと、やはり物理的な存在である肉体人たちとのなかで営まれるであろう。それに対して、純粋ソフトウェア人たちは、相対的に自分たちだけの世界のなかに普段は生きることになるだろう。どちらが無理のないライフスタイルなのか? これは具体的な技術的ディテールをより特定化させないと答えようのない問題である。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

順列都市〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)


 しかしこれに加えて、今一つの可能性を考えることができるのではないか。ある意味でそれは、肉体人たちの情報処理ニーズにこたえるサービスであるには違いない。ただ、ソフトウェア開発を下請する、といったものとはその趣が大いに異なる。つまりは肉体人たちのための娯楽としてのテーマパークをシミュレーション世界の中に開催する、というビジネスである。ソフトウェア人たちはその開発・メンテナンス作業をするのみならず、そこでキャストとして、RPG用語でいえばNPCとして活躍することができるだろう。
 言うまでもなく飛浩隆の連作『廃園の天使』は、このような世界を想定したものである。そこで描かれるバーチャルリアリティ世界「数値海岸」は、その中に多数の自律型ソフトウェアをNPCとして抱え込み、肉体人たちのためのテーマパークとして機能している。
 個人的にこのシリーズにおいてもっとも興味深いアイディアは、われわれが現実にすでに持っている、MMORPGのようなネットワークゲームの抱える一つの難点を回避すると同時に、より大きな問題を引き起こしかねないテクノロジーである。
 現在われわれがネットゲームにおいて直面している問題の一つは「廃人」現象である。いわゆる「廃人」化のような依存、嗜癖の病理はもちろん、ネットゲームに限られたものではないが、ネットゲームはとりわけこうした嗜癖を引き起こしやすいタイプの娯楽ではある。ネットゲームはスタンドアロンのシングルプレイゲームと異なり、自分のペースで楽しむことが難しいのである。他のプレーヤーと同期して楽しむライブ感覚がその中心にある限り、「自分のペース」で楽しむことは極めて困難である。
 「数値海岸」の世界ではその問題をある意味で回避するための驚くべき仕掛けが設定されている。人々は「数値海岸」にリアルタイムでは訪れない。人々は自分のデータを基にしたアバター「情報的似姿」をそこに送り込むのである。このアバターは極めてよくできており、仮にリアルタイムで人がそこにいたならばまさにそうしたであろうようにふるまうことができる。それ自体がほとんど一個の自律ソフトウェア、イーガン流にいえば「市民」「コピー」なのである。現実世界で多忙な人々は、深夜に睡眠時間を削って「数値海岸」を訪れるのではなく、適当にアバターを「数値海岸」で遊ばせておいて、余裕ができたらアバターを呼び戻し、その経験を「再生」して楽しむのである。
 しかしながらこの「情報的似姿」という仕組みは、とてつもなく複雑で微妙な問題をたくさんはらんだ存在であることは言うまでもない。(続く?)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

ラギッド・ガール―廃園の天使〈2〉 (ハヤカワ文庫JA)

ラギッド・ガール―廃園の天使〈2〉 (ハヤカワ文庫JA)