「公共政策論」メモ

 なんかぎごちないが。
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 「政策」という言葉を「公共」からいったん切り離して理解することを試みよう。


 すでに指摘したとおり、今日でも例外的に民間主体の営みに「政策」なる呼称が与えられる領域の一つが、企業の人事労務管理であり、「労務政策」といった言葉遣いは今日でも割合普通に用いられる。(「財務政策」という言葉づかいもよく用いられるが、企業会計・財務用語としての用例と国家・地方財政の用語としての用例が混淆している。「人事労務政策」の場合は国家の労働政策用語ではなく、企業の人事労務用語としての用法がほとんどである。)


 企業その他の組織一般の営みを形容するのに今日一般的に用いられる言葉は「経営」であり「管理」であるが、確かにこれらの言葉と「政策」とは相当にニュアンスを異にしている。「労働政策」「医療政策」にせよ「労務管理」「財務管理」にせよ、「政策」ないし「管理」を修飾する前段はいずれもその対象領域を示す言葉になっているという点では共通しているものの、「管理」の場合にはその対象が主体と同一――というと語弊があるが、主体の内部、部分、その支配下の何か、というニュアンスがあるのに対して、「政策」の場合にはどちらかというと主体とは別個の、主体の外部の存在がその対象となっている、という感じがする。
 ただし「政策」の対象は純然たる「外部」の「他者」というわけではない。そのように解釈することには問題がある。再び経営学的な言葉遣いを想起するならば、ある時期以降この分野では、「戦略」という用語法が頻発するようになる。言うまでもなく軍事用語からの転用であるが、これは軍事戦略の局面においてのみならず、企業経営のフィールドにおいても、主体にとって意のままにならない、純然たる他者や外部環境への関与のありようについて論じる際に用いられる言葉である。「政策」は「管理」と比べたときには、より外なる対象を相手にしているというニュアンスを伴うが、「戦略」と比べたときにはより内側――とは言わずともより近い対象にかかわってなされる言葉づかいである、と言ってよかろう。


 そう考えてみるならば、企業にとっての人事労務管理(政策)というのは、なかなかに微妙な領域である。日本語の語源的には「人事」は「職員」≒学歴主として中高等教育卒のホワイトカラー、「労務」≒学歴おおむね中等以下のブルーカラーにかかわり、「労務」においては労働組合対策(弾圧も交渉もひっくるめて)もその職掌に含まれる、という感じであるが、戦後は一端は工職身分差別の撤廃によって「人事労務」は一括されることになり、その後も実態としては正規―非正規従業員間のそれを初めとする身分差別の構造自体は存在しつつも、「人事管理」と「労務管理」という別個の領域が併存するという雰囲気は消滅している。
 さて、人事労務管理の具体的な中身といえば、言うまでもなく従業員管理である。具体的な業務、工場や店頭といった製造・サービスの現場での業務の運営にかかわる「生産管理」においても当然に従業員、労働者は管理の対象となるが、狭い意味での人事労務管理のスコープはこれとは異なる。生産管理が、いったん特定の職務や工程に人を張り付けてからその仕事をスタートするのに対して、人事労務管理の仕事は、誰をどのようにして個々の職務に配置するか、に重点があり、更には、特に正規従業員に対して、一連の職務を経験させることを通じてどのようなキャリアを積ませるのか、個々の職務遂行能力を超えたより広義の能力をどのように育成するのか、が重要となる。そして同時に、そのような従業員たちは、たとえ長期的に組織の内部のメンバーとなる正規従業員でさえも、企業のメンバーとして以外の顔、企業外の市民社会や家族のメンバーとしての顔をも持っている存在であるということもまた考慮に入れずして、人事労務管理という仕事は成り立たない。さらにそのような存在としての従業員は、企業の中においてもまた外においても、孤立した個人ではなく社会的な存在である。企業内の公式の組織編制それ自体が一種の社会であるのみならず、そこには自然発生的に別種の「非公式」な社会が立ち上がる。人事労務管理とは、このような「社会的存在」である「人間」としての従業員を相手にする仕事なのである。このような、企業にとって内側とも外側とも言い難い微妙な相手には、従業員だけではなくある種の投資家や取引先が含まれ、コーポレート・ガバナンスにおいては「ステークホルダー」などと呼ばれているが、従業員は確かにその典型であるとはいえよう。


 今日的な意味での「政策」という言葉遣いは、それゆえ「国家と市民社会の分離」と呼ばれるような事態――現実の出来事というよりは、概念レベルでの意味転換と考えるべきであろうが――と切り離しては考えられない。「政策」とは「管理」とは異なり、その主体の内側に向けてであるよりはその外側に向けての作用を意味する。しかしながらその対象は、完全に外側に属しているというわけではない。