リベラルな教育(続)

 今日いわゆる「リベラリズム教育学」が言われるときに多く持ち出されるのは学校その他現場レベルでの教育方法の話ではなく、プロパーでいえば教育行政学というか、教育政策論の政治哲学的なお話であり、大概の場合はまさに「ロールズ産業」といいますか、社会的基本材としての教育サービスの公的供給、分配のお話が焦点で、それに絡めて、共同体主義・共和主義との対抗も意識しつつ、多文化主義がどうのこうのといったお話が付け加わる程度。つまりは大体のところ「人的投資の公共政策論」である。
 こういう議論をすることに意味がないわけではもちろんない。とりわけナショナルレベルでもグローバルレベルでも、経済格差の主因としては今日では「資本財、金融資産の分配よりもむしろ教育を中心とする人的資産の分配が重要ではないか」との議論が経済学方面からも聞かれるわけでもある。
 この視角を受け入れるならば、議論はまさに人的資本理論導入以降の労働経済学の枠組みの中で十分に展開可能である。学校教育を中心とする教育サービスの購入を、人的資本への投資とみなし、議論の大枠を標準的な投資理論、成長理論の枠組みに乗せる。そのうえで「人的資本」の標準的な「資本」≒金融資産との違いをその特殊性として考慮に入れて、モデルを組みなおす。焦点となるのは当然、金融取引の経済分析においても焦点となる情報の非対称性であり、そこから帰結する市場の不完全性・不完備性である。
 具体的に言えば、金融取引においても、貸し手と借り手の間の情報の非対称性に由来するいくつもの問題がありうるのだが、「人的資本」の調達においてはこうした問題がより悪化する、と考えられる。典型的には、金融資産を含む物的資本財の購入のための金融取引においては、資本財現物を担保に取るという選択肢が普通にあるのに対して、現代(果たしてこれが厳密にはいつごろか、というのは歴史学的には非常に興味深い課題であるが)、奴隷制も否定され債務者監獄もない経済社会においては、「人的資本」を担保として金融取引を行い、債務不履行の際にはそれを差し押さえる、ということができない、という問題がある。このようなリスクをカバーするためには、人的投資のための金融(私的奨学金、教育ローン)においては、貸し倒れリスクを多めに見込み、金利もむしろ高めにとる必要が出てくる。仮にそれを政策的に低く誘導すれば、貸し出しの供給は不足(し、いわゆる「信用割り当て」問題が激化)するだろう。そのように考えるなら、教育を社会的基本財とみなし、その衡平な供給を保証しようとするならば、政策的介入――単に金融市場を規制するにとどまらず、公的な財源からの資金供給や、あるいはサービスの直接の公的供給等の再分配政策が必要となる、というのは見やすい理屈である。
 むろん世の中には学校教育に対するペシミズム――人的資本理論的な「教育サービスが受け手の労働生産性、稼得能力を向上させる」という想定への懐疑も有力である。こうした懸念を具体化した経済理論的ツールとして「シグナリング」という概念もある。この場合、学校教育は学生の能力を直接高めるのではなく、ある学校に通った、その入学試験に通ったという実績、つまりは「学歴」が、その学生の労働生産性、稼得能力を示すシグナル、サインとなっている、という解釈がなされる。ただこの場合でも、学校は不完全情報の世界において有益な情報生産を行っており、効率の改善という点から見れば有意義な存在なのである。


 以上で話が尽きるのであれば、学校を主軸とする公教育はリベラリズム政策論(政治哲学とは言うまい。これについては後述)の枠組みにおおむね回収されてしまう。しかしながら、(実は労働経済学と同様に)そうは問屋が卸さない。
 すでに見たように、「人的資本」という概念には無理がある。それはつまるところ人の部分(心身の不可分の構成要素)をあたかも人そのものとは別個のものであるかのように犠牲するところに由来する。記述の、奴隷制その他人身に対する私的な拘束を容認しない限り、人身を担保にとることはできない、という問題もその一例である。
 もちろん人的投資に意味がないわけではない。しかしそこで起きているのは、人が新たなあらたなものを財産として獲得する、所有物を増やすというよりもむしろ、人が己を変容させる、教育訓練を受け、何事かを学ぶことによって変容するというプロセスなのである。
 もちろんこの変容プロセスを、あたかもただ単に新しい財産を獲得するプロセスと質的には変わらないかのように描くことはできるし、またそのアナロジーで大過ない場合も考えられる。新たな知識やスキルを獲得することによって、以前の知識やスキルが失われるわけではなく、また嗜好(経済学的に言えば効用関数)が変化するわけでもない場合には、それで問題ないだろう。しかしそうではない場合には、事情は一変する。
 そして通常「公教育」において問題となるのは、人格形成期にあるとされる子供・青少年に対する教育である。こうした「公教育」がリベラリズムの観点から問題なく容認されるのは、子供・青少年に対する年長者による監護権が自然権・人権として承認されたうえで、あくまでもその委託としてそれが遂行される場合であり、その場合にも公教育が疑問の余地なく私教育に優越しうるかどうかは不分明である。おそらくは福祉国家論的な枠組みで、一種の社会保障として、医療やその他福祉サービス同様の社会的基本財として教育の供給が、それを受ける子供の立場からではなく、それを受けさせる親・保護者の立場からのニーズによって確保される、というロジックをとるしかないだろう。


 つまりは結局ここに、フーコー的に言えば規律訓練、共同体主義的・共和主義的に言えば市民的徳の涵養という問題が入り込んでこざるを得ない。