リベラルな教育?

「「リベラリズム教育学」というものは存在しえないのではないか」と以前研究会で話したことがある。


 無償かつ強制的な公教育というものについて考える。リベラルな教育というものはこのような公教育を肯定し、なおかつその内容については統制を可能な限り廃しようという立場だが、それは「思想」として一貫したものであるかどうかは疑わしい。


 「共和主義」だの「共同体主義」だのにおいては、無償かつ強制的な公教育は当然に容認どころか要請される。人は有徳な者へと規律訓練されねばならない。そしてその世界ではある意味堂々と人は差別され、格付けされる。人はひとかどのものに――少なくとも「一人前」にならねばならず、そうなれなければ蔑視される。


 リバタリアンな、あるいはアナーキーな社会においては、公教育の意義は基本的に否定される。人はそのままで尊厳ある存在として承認される――「一人前」でない者などいない――のであり、強制による教育は容認されない一方で、無償でそれを得る権利も認められない。
 この立場には更に二つの可能性を見出すことができる。ひとつには、公教育は否定するが、私的なレベルで、親・保護者による子供に対する強制的な私教育の権利を容認する立場。たとえばジョン・ロックの立場である。いま一つは、そうした私的な教育についてさえ、強制の権利を否認する立場。実はこれはある意味でトマス・ホッブズの立場である。ただしそこでホッブズは無力となった親の代わりに絶対者コモンウェルスを持ち出すのであるが。


「リベラルな教育」の立場はこの両極の間での中庸を行くものとして以外に理解しようがあるだろうか? しかしそれは安定した立場であろうか? 


 とはいえ現実はこの両極の間の宙ぶらりんであることに間違いはない。それは公教育の制度・政策体系がそうだというだけではない。社会レベルでの慣行・常識においてもまたそうなのだ。無能で非力な者を「一人前ではない」と誹り差別しつつも、そうした落ちこぼれを無理やりに「一人前」へと鍛え上げるコスト負担をまともに引き受けず、宙ぶらりんにするのもまた、市井の庶民たちである。