政治poliltics・統治government・行政administration(承前)

 イマニュエル・ウォーラーステイン世界システム論は経済理論としてみたときにはもはや到底真面目に相手にするに足るものではないが、政治理論ないし法理論の土俵にパラフレーズしてみるならばまだ救いがいがないでもない。ウォーラーステイン世界システムの二類型として「世界帝国」と「世界経済」とを提示しているが、これを公法的な概念系に移し変えることは十分可能だろう。その結果は以下のようになる――


 我々は包括的な世界システムの概念として、いまのところ「帝国」と「主権国家システム」の二つのタイプのものを持っている。このどちらも原理的には普遍的かつ包括的である、つまり理論的には世界全体をその支配下に置くことができる。もちろん現実には、我々はいまだかつて単一の世界システムの下に包括されたことはない。ただ、現今の国際関係秩序の軸のひとつとなっている、主権国家システムは、それに近いところまで行ったように見えなくもないが。
 帝国システムはいうまでもなく、単一の政治的中心を備えて、ひたすらに外へ外へと広がる支配秩序である。もちろん歴史上知られている現実の帝国は、どれもこれも有限な存在であり、その勢力には到達限界があり、その境界線の向こうには別の帝国や、あるいは帝国ではない別種の社会が存在していた。しかし帝国の境界線とは、単なる事実、帝国の勢力がそこまでしか及ばないという端的な現実の表現でしかない。それは近代的な公法の意味における「国境」ではない。つまりそれは法的、規範的な境界ではないのだ。法的、規範的な意味では帝国はその外側を持たない。帝国にとってその外側、帝国の領土ではない土地、そこに住む人々は端的な現実としてそのような存在なのであり、規範的な位置づけは得ていないのだ。帝国はその外側の存在を「正しく」処遇するすべを持たない。
 それに対して、近代主権国家システムがいまのところその典型であるような、今ひとつのシステム、非帝国的な複中心的ないし脱中心的システムというべきものがある。ここでは帝国とは異なり、複数の法圏が、それぞれの政治権力とともに林立するのみならず、互いの間の境界線もまた、単なる現実的な区別であるにとどまらず、規範的な法秩序として定立されている。それぞれの法圏=国家は自らの管轄権範囲jurisdictionをわきまえているのみならず、互いの管轄権を尊重し合ってもいる。
 抽象的、形式的なルールのシステムとしてみたならば、後者の脱中心的システムの方が高い適用可能性を持ちそうに見える。こちらは前者のシステムに比べて、外なる他者の処遇に関して相応の柔軟性を発揮しそうである。前者においては外部の他者を征服・教化の対象として、つまり価値的に劣位にある相手として位置づけるしかないが、後者においては少なくとも形式的には対等の相手として処遇できる可能性があるからである。しかしもちろん、実体的な共同社会として見た場合には、抽象的なルールを実体的に実現する力の所在が後者においては宙に浮く可能性が高い。実際には近代的主権国家システムといえども、国際公共財を主に担う「覇権国」があって初めて成り立ちえた、という議論も決して無視できるものではない。あるいはカール・シュミットが近代主権国家システムを「ヨーロッパ公法」と呼び、それがあくまでも特定の歴史的脈絡、特定の地理的配置に根ざした具体的な秩序であって、抽象的な形式システムなどではないことを強調したことも想起しよう。


 ミシェル・フーコーの統治性研究もまた、近代における国家を焦点とする統治という問題系の浮上を、このような世界秩序、国際法・政治のコンテクストにおいてもきちんと位置づけていることは注意しておくべきである。近世における絶対王政、そこでのポリツァイ国家、重商主義国家、そこにおける「国家理性」その他の権力をめぐる知を、フーコーは、まさしく中世的な帝国的世界観から明確に脱却したものと評価する。そこで理解された諸国家は、もはや世界を包括する帝国たることを目指しておらず、目指す必要もなく、また目指すべきでもない存在となっており、そのようなものとしての自己の生存・存続をはかる存在としてなんら恥じるところはない。ただし重商主義的世界観では、そうした複数の国家間関係が、互いの存在を否定することはなくとも、互いに互いを削りあい足を引っ張り合うゼロサムゲームとして理解されている、とフーコーは論じる。それに対してアダム・スミス以降の時代には、必ずしもゼロサムゲームではない世界秩序が展望されている、と。(続く)


大地のノモス―ヨーロッパ公法という国際法における

大地のノモス―ヨーロッパ公法という国際法における