東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

 今日でおしまい。後でなんかまとめを書くかも。


(承前)
 このように個人−自然人ではなくむしろ法人まで含めた主体−身体一般に照準する統治として新自由主義が捉えられているとしたら、それは自然人や家族に照準する古典的自由主義に比べてもなお一層、人を主体(ホモ・エコノミクス)へと規律訓練する権力であるというよりは、すでにホモ・エコノミクスである主体を馴致し操作しようとする権力として捉えられるべきであろう。


フーコー権力論の「現在」
 ところで、十年ほど前、フーコーの講義についての情報がまだ断片的にしかなかった頃、つまりは主として公刊された著作を念頭において、ぼくはこう書いたことがある。

 フーコーの権力概念が人を惹きつける理由のひとつは、不可視の、意識されず、了解されないままに作動するものとしての権力、(中略)「語られざる禁止」の水準をとらえようとしているところにある。しかしそのような、隠れたものとしての権力、なる観念自体は別にオリジナルなものでも何でもなく、ことに20世紀後半においてはありふれたものである。全体主義の経験の中から得られた政治的プロパガンダや洗脳についての教訓、あるいは大衆消費社会における消費者の欲望の広告を通じた操作、等々、人に自ら選択したという錯覚を与えつつ、選びうる選択肢自体の予めの設定や、更には選択への欲望自体の喚起という形で人の行為を誘導する技法の大々的な登場が、20世紀的な意味での「権力」への関心をかきたてた当の経験である。このような問題についての研究はフーコーの登場以前から広く社会科学的な関心を集め、理論的・実証的に多くの研究成果を生み出している。更にその背後にさかのぼるならば、マルクスの土台−上部構造論、イデオロギー論、ジグムント・フロイトの無意識の概念などを見いだすことができる。
 しかしながら実はこれら多くの「不可視の権力」論とフーコーのそれとの間には無視できない相違がある。(中略)「不可視の権力」論の最大の意義は、「語られざる禁止」の水準、権力として意識されていない出来事を「権力」と名指すことによって明るみに出すところにある。それゆえ「不可視の権力」論は成功することによって自ら解体する運命にある。それがある出来事を「権力」として問題化し、人々の意識に上らせることに成功すれば、その当の対象はもはや「不可視の権力」ではない普通の権力、私のいう意味での権力、制度を支える力、に過ぎないのだから。
 この点に無自覚なままに「不可視の権力」論を展開することはしばしば滑稽なことになる。自らがその存在を暴いたはずの当の対象をいつまでも「不可視の権力」と呼ぶことは、逆にその対象を神秘化し、その不可視性を温存しようとする所作に他ならない。つまりそれは当の権力を批判し告発するつもりで、逆にそれに荷担することになりかねないのである。
 フーコーを大半の「不可視の権力」論者から分かつのは、この問題に対する自覚、デリカシーである。通常理解されるところでは、フーコーの新しさは、権力を単に主体の行為を外側から型にはめたり操作したりするものとしてではなく、主体そのものを成形し、生産しているものとしてとらえられているところである。フーコー以前の「不可視の権力」論は、大体においてマルクス主義の用語で言えば「イデオロギー」あるいは「虚偽意識」なる概念の引力圏内にあった。それらは欲望そのものが他者によって操作される可能性を認めつつも、介入され操作される以前の本来の真の欲望、主体性といったものを想定していた。そしてそのような想定を行う分析者自身は当然、このような真の主体性に覚醒している、とされる。フーコーはこのような本来の、真の主体性といったものを想定しない。
 このようなフーコーの権力概念は、権力への批判と抵抗の拠点としての個人的主体性を洗い流しかねないものと批判された。更に、実際にはフーコー自身も権力を論じつつそれへの抵抗について語り、更に晩年には自分で自分の生を私的に、個人的に、自律的に形作る技法について論じていたのだから、フーコーの議論は不整合である、とも時に指弾された。
 しかしながらこのような批判はツボをはずしている。フーコーの権力論が正しい、すなわち、権力が、単に主体を騙してその真の利益、真の自己に背いた行動をとらせているというのではなく、真の意味での主体性をまさに作り出している、としてみよう。それならば、それに批判的に対峙するフーコー(的権力論)の主体も例外ではない。つまりフーコー的権力論は権力の効果、権力の作動の一環に他ならないことになる。更に言うまでもなく、フーコー的権力論が正しいとしたら、このコメントはフーコーに対してのみならず権力論一般にも当てはまってしまう。抵抗の拠点としての本来の主体性を権力の外側に確保し、自身もそこに立ちたい論者にとって、フーコーの権力論が認めがたいのはこのような事情による。
 だがフーコーの権力論の主眼は権力の一般理論とか、社会全体を動かしている「権力」の原理論の構築にではなく、具体的な状況における特定の「不可視の権力」の解析とその可視化にある。そのような具体的な作業は当然、一定の成果を挙げられれば終了する。その研究成果が公表され、公衆の間に一定の関心を呼び覚ましたところで、すでに現実の状況はわずかにではあれ変化しているのだ。「語られざる禁止」はそれと名指されたとたん「語られざる禁止」ではなくなる。つまり分析とその成果の公表によって(不可視であれ可視であれ)権力の配置は変わり、主体のあり方も変わっている。その変化した状況に対して更にまたそこにおける「不可視の権力」の可視化は可能であろうし、それが延々と繰り返されるのであろう。その過程の中で、よりましな権力と主体のありようを構想し提言していくことには、何らの不整合もない。
 フーコーを批判する論者は往々にしてこれとは全く逆さまのイメージを抱いており、フーコーをその歪んだイメージでもって裁断している。そのイメージとは以下のようなものである。すなわち、
フーコーによれば、権力が主体を生み出し、生み出された主体の営為は権力を再生産し、その循環が続く。そしてフーコー的権力論もそのような状況を変えることはない。フーコー的主体は自らを生み出した権力を認識してその必然性を論証するのが関の山で、そこで議論は閉じる。」
 しかしこのようなフーコー批判はむしろ、このような論者自身が、自らがそこに陥ることをおそれているところの罠への強迫観念なのではないか。おそらくは同様のことが、ニクラス・ルーマンのシステム理論に対する「テクノクラシー理論」なる完全に的をはずした論難においても起きている。
 権力が主体を生産している、と言ったところで、前者は後者とは異なり、それ自体が主体であるとは限らない。つまり権力は、自己の保存のために、主体を、意図的に生産しているのでは(通常は)ない。権力はただ単に生産する。そして生産された主体の行為が、その権力を再生産するかどうか、は結果の問題である。結果的にそうはならなかったら、その権力は解体する。たまたまそうはならなかったら、権力は、そしてその生産する主体も再生産され、存続する。フーコーの権力論は、このように結果として生き延びている主体のありようから、それを生産する権力の配置がどのようなものか、を逆算する技法であって、主体を権力に還元する決定論、権力という原因でもって主体という結果を説明する理論では全くない。時に権力の作動は、たとえばフーコーのような、既存の権力のあり方を変えてしまうような主体性を産むこともある。
稲葉振一郎リベラリズムの存在証明』紀伊国屋書店、411-413頁。)

 フーコー的権力分析においては、その分析対象の背後に権力によって歪められた真の主体性を発見する必要がないのと同時に、当の分析主体、自己の内にそれを見いだす真の知を想定する必要もない。「批判の根拠」は敢えて言えば、批判の所作に先立っては存在せず、有意味な、有効な批判がなされたときに初めて事後的にのみ見いだされる。すなわち、批判がよくなされたという事実自体が「批判の根拠」なのである。ある主体のなしうる行為の可能性、選択肢の幅、知識、あるいは動機付けが、その主体自身に知られることなくあらかじめ制約されていたということ、しかしその制約をなくす、あるいは変更することは可能であること、が事実として発見され示されれば、その知識自体が「不可視の権力」に対する「批判の根拠」となる。少なくとも本書で提示してきたリベラルな正義の観点からはそう言える。およそいかなる制度的脈絡からも、いかなる役割付けからも、離脱しようと思えば離脱できる自由、がその条件のひとつだからだ。もちろん「不可視の権力」からは意図的には離脱できないし、それを改造することもできない。しかしそれが可視化され、明るみに出されれば、離脱や変更という選択肢は公然化される。
 別に私はここで「見いだされず知られないままの過去は存在しないも同じだ」といった認識論的相対主義を主張しているのではない。私の志向はどちらかというと実在論の方にあるがそれはここでの主題ではない。私の考えでは、「不可視の権力」として見いだされた物事は見いだされる前からもちろん存在していた。しかしそれ自体は「批判の根拠」ではない。それらの物事が見いだされ、「不可視の権力」と名指されると同時にいくぶんかは可視化され、そのことによってそれを知るにいたった主体との間にある関係ができあがる。そのような関係、そうした出来事の連鎖こそが「批判の根拠」であり、それは分析、批判の遂行を通じて、事後的にしか現れえない。そのように「批判の根拠」は批判の遂行の後から初めてやってくるものであり、あらかじめ批判の成功や正当性を保証してくれるものでもない。また当然に「不可視の権力」の分析、批判がなされる前の主体が「偽の」「歪められた」ものであり、批判の後に来るものが「真の」主体であるわけでもない。それぞれが真に実在する様々な主体性の例に過ぎない。
(同上書、421-422頁。)


 権力への抵抗を、権力一般対非権力一般の対決としてではなく、異なる権力同士の葛藤として捉えるならば、理論的な困難の多くは解消するだろう。


 それでもなお、フーコー権力分析を権力の一般理論へと読み替えようという欲望は絶えることはない。そして90年代には、フーコー的な権力論を一般理論的に真に受けつつ、それによって封じられたと見えた権力批判と抵抗の基礎付けを可能にする抜け道が発見されたようにみえた。すなわち、80年代半ばから急速に注目を浴びるようになったエマニュエル・レヴィナスの「他者」に照準する独自の倫理学である。あるいはまたこの時代、アントニオ・グラムシ由来の「サバルタン」なる概念に、ガヤトリ・スピヴァクらが独自の意味合いを込めて使い始めたのにも、同様の意味合いがあっただろう。
 そこに見いだされる「他者」とは、絶対的に無力で受動的な存在である。そうであるが故に、決して権力に汚染されることはない――レヴィナスがそのように素朴に考えていたとは思いがたいが、そのような気分に動かされてフーコーレヴィナスを併せ読むやりかたが流布した。ジョルジョ・アガンベンの作業はそうした気分の中でのある程度高い達成と考えることができそうである。
 ただしこのラインの志向において十分煮詰められなかった問題がいくつかある。まず第一に、まさにスピヴァクの論考の題名にあるとおり「サバルタンは語ることができるか」という問題がある。絶対的に言葉を奪われ公共圏から排除された存在としてのサバルタンが、自らの存在を主張し始めたとしたら、そのときに彼/彼女はもはやサバルタンではなくなってしまうだろう。すなわちサバルタンは決して「当事者」として自ら声を上げることはない。誰もサバルタンとして語ることはできず、サバルタンの代行者として語り行動するしかない。それはもちろん、自ら一種の権力の主体となることを引き受けること、権力に「汚染」されることだ。だ。
 そして第二に、フーコーリベラリズム分析が示唆する問題がある。レヴィナスの「他者」は、あるいはサバルタンは貧者、弱者、少数者としてイメージされてきたが、フーコーリベラリズム分析はこれとは少々異なった「他者」のイメージを切り出している。すなわち、公共圏から排除されるというより、公共圏に積極的な関心を持たない者。市場経済という第二の自然に住まうルソー的自然人のような者たち。追い詰められた難民としてではなく、金の力にものを言わせて国境を超えていく者たち。そこにはある種の多国籍企業もはいるだろう。弱いが故に声を聞いてもらえない、のではなく、あたかも自然の猛威のように、他人との交わりに――とりわけアーレント的な意味での「政治」に関心を持たずやり過ごす強者たち。こうした者たちも「他者」であると考えてみることはできないか? 
 レヴィナス的な意味での「他者」とは絶対的に無力であるが故に、容易に蹂躙してしまえるがゆえに、逆説的にすべての者がそれに相対したときに「強者」となってしまい、己の行動の正邪についてとりわけ厳しく問いただすことを要請する存在である。これを人々はしばしば「絶対的な弱さが絶対的な強さと権威に逆転する」かのように語るが、もちろんそれは不正確である。弱者たる他者がが裁くのでは、本当はない。弱者を前にして強者となってしまった者が、自己のうちなる法廷を呼び出すのだ。
 しかし反対に、こちらよりも強大ないわば「荒ぶる他者」という経験はありえないのだろうか? フーコーリベラリズム分析は、そこまでは行かないとしても、必ずしも弱者ではない「他者」の経験と、そうした「他者」の統治としてのリベラリズムについて語っているのではないだろうか。
 こう考えると新自由主義の統治性とは、今日の左派が考えるような「グローバル資本の権力ネットワーク」とは著しく異なった何かである、ということになるだろう。グローバル資本主義の猛威というものはたしかに存在するだろうが、それをどこまで「権力」概念で捉えることができるのかは、必ずしも明らかではない。

リベラリズムの存在証明

リベラリズムの存在証明