古典を読む意味

 北田暁大さんとのトークイベントやシノドスセミナー(いずれもそのうちシノドスメルマガに出ます)で「社会学ってやっぱり半分人文学だよね」としゃべって以来逆に「じゃあ理系にとって古典は意味がないのか?」と気になって。
 通俗的科学史科学哲学科学社会学風にいえば「通常科学では教育は教科書読ませて練習問題解かせて、で基本進みますよ」となるわけだが、実際普通の物理学徒が『プリンキピア』紐解いたりはしないんだろうが。
 でもそういうのって程度問題じゃね? 教科書だって常に最新のがベストってわけじゃなく、古典的に読み継がれる教科書があるし。いやそれだけじゃなく、繰り返し読み直されている原著論文ってのもあるんじゃね? 
 そういう「教科書で再三お目にかかってるけど改めて原著を読む価値がある論文」の条件って、なんだろう。


 矢野さんのブログでのこのコメントって、味読する価値があるよね。
 赤池弘次の本ってのは、これかな? 竹内啓先生が本学をおやめになった時に置いて行った御本の中にこの旧版があって、いつ読めるか分からないけれど拾っておきました。今は制御理論の勉強中で、もう少ししたら時系列解析をかじりたい(計量経済学は構造方程式の同定の初歩あたりまでしか齧ってなくて、いまだに時系列が分からない……)。