12月13日シノドスセミナー・メモ

 お客様の半分以上が編集者ってどういうことなの……。
 ついでになぜか仁平典宏さんが来ていました。

 配布はしなかったものの用意しておいたメモに基き、当日しゃべったことのアウトラインを公開します。


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社会学の居場所              稲葉振一郎



 なぜ拙著『社会学入門』は『社会学という教養』というタイトルにならなかったのか? → ベタベタで洒落にならないから避けた。 → なぜ「社会学」は「教養」と親和的なのか? 
 社会学は人文(科)学か(社会)科学か?
 人文(科)学とは何か?


 社会学の対象=社会的に共有された意味の体系
 社会学の野望=その(変容可能性の)一般理論
        →それは不可能である。
 ではこの野望はナンセンスだったのか? No and yes.



 「工学」――既知の法則一定との仮定の下、今後の状況を積極的に予測・構築
 「科学」――状況の定常性の仮定の下、その背後の未知の法則を推定
 「人文学」――状況の変化を回顧し、その背後の未知の法則と法則変化のメタ法則を推定


*「人文学」が回顧的たらざるを得ない理由は、認識論的なものか、存在論的なものか? 


3.
 「知識」と「常識(教養)」の区別
 「知識」の有意性は文脈に依存、文脈それ自体は特定することはできず、その定常性を仮定するしかない
 文脈の適切性についての判断が「常識(教養)」――それ自体は決して特定できない
 「人文学」が「教養」と縁が深い理由はここから明らか――ただし「人文学」イコール「教養」というわけでは決してない


社会学が「人文学」と「科学」の間に引き裂かれる理由もここから明らか


*こうした議論はクワインデイヴィドソンホーリズムに触発されている。とりわけデイヴィドソンの「統一理論」においては、意味、信念の文脈依存性と、真理の社会性(「三角測量」――同じ対象・状況に向き合う同種の主体が二つ以上存在することが「真理」概念にとって決定的)が鍵である


社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

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主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

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合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

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[関連資料]『社会学入門』第12講没原稿


1.
 「力学系」という考え方について、簡単に説明してみましょう。ここでは説明の便のために、連続時間における滑らかな変化を表現する微分方程式ではなく、1日ごと、1年ごとといったぶつ切りの不連続な時間を通じての変化を表現する差分方程式を使って説明します。初歩の微分はみなさん、高校で習うはずですが、微分方程式はおおむね大学に入らなければ勉強しないはずですし、「文系」だと大学でも学ばずじまいで終わる可能性が大です。しかし簡単な差分方程式であれば、高校レベルの数列・漸化式の知識で大体理解できるはずです。
 以下の漸化式を、簡単な力学系のモデルとしてみてください。

A[t+1]=αA[t]+β

 tは1,2,3……という自然数で、A[.]、α、βはいずれも実数だとします。更にαもβも0ではない、とします。tは時間を表し、A[t]は時点tにおける系の状態を表す、とします。αとβは定数です。ここで1期後の時点t+1における系の状態A[t+1]は、A[t]の関数(ここでは非常に単純に、1次関数)として表されるわけです。
 これは左辺をA[t+1]の代わりにΔA[t]=A[t+1]−A[t]として、

ΔA[t]=(α−1)A[t]+β

と書いても、同じことです。
 この方程式を「解く」という場合に、高校でも習う一番基本的なやり方は「一般項」を求める、というものです。この場合普通は、αとβに加えて、系の初期値A[0]を外から与えたうえで、A[t]をtの関数として表してみるわけです。具体的にこの場合だと、α≠1の場合には

A[t]=(α^t){A[0]−β/(1-α)}+β/(1−α)

で、α=1だったら、

A[t]=A[0]+βt

です。

 念のために言いますと、α^tとはαのt乗です。
 「一般項を求める」とは具体的にいえば、時間の流れの中で系がたどる軌道、経路を求めることです。横軸にt、縦軸にAをとってグラフを書く、としてみてもよいでしょう。
 しかしこの手の漸化式を解く際にもう一つ注目すべきものがあります。ここでぼくたちはこの漸化式を解くことによって数列A[0]、A[1]、A[2]……を手に入れたわけですが、この数列の極限、つまりtを無限に大きくしていったときにA[t]はどうなるのか、ということです。
 この式を見れば明らかなことですが、まずα=1の場合には、βが正の数の場合には、tが大きくなるにつれ、A[t]も際限なく大きくなります=発散しますし、βが負の数の場合には、マイナス無限大に向けて際限なく小さくなります。
 α>1の場合にも、A[t]はtが無限に大きくなるにつれ、やはり無限に大きくなりますね。面白いのはα≦−1の場合で、tが奇数か偶数かによってA[t]は正にも負にもなり、その値も無限大とマイナス無限大との間で揺れ動きます。ただしその絶対値自体はひたすら大きくなっていく。
 興味深いのはαの絶対値が1より小さい、つまり−1<α<1の場合です。この場合にはtが無限に大きくなるにつれ、A[t]はどんどんある値に際限なく近づいていきます=収束します(αが正の場合には滑らかに、αが負の場合には正負に振動しつつ、の違いはありますが)。すなわちこの場合、数列A[t]には極限が存在するというわけですね。この漸化式の場合だと、極限をA*とすると、

A*=β/(1−α)

です。これはαとβにのみ依存しており、初期状態A[0]がいかなる値を取ろうとも変わりません。
 ただしここで注意しておくべきは、このβ/(1−α)という値は、−1<α<1の時にしか意味を持たない、というわけではない、ということです。もしかりに初期状態A[0]がたまたまこの値、β/(1−α)をとっていたら、どうなるでしょうか? この系は未来永劫、ここから動かないことになります。これは数列A[t]に極限が存在せず、発散して収束しない、α>1ないしα≦−1の場合でも同様です。
 ですから、この状態のことを「不動点」「平衡点」などと呼ぶこともあります。−1<α<1で系のダイナミクスが安定している場合には、系がどこから出発しても長い目で見れば必ずそこに近づくし、α>1ないしα≦−1で系のダイナミクスが不安定な場合にも、仮に最初にそこに位置していればそこから動くことはない、そのような状態です。なお言うまでもなく、α=1の場合には、この系に不動点は存在しないことになります。
 さて、科学的スタンスと工学的スタンスの対比の話に戻りましょう。数式の形にしてしまえば同じになるだろうモデルに対して、科学的スタンスと工学的スタンスはそれぞれに異なった解釈を施し、異なった使い方をする、というのがポイントです。
 工学者、エンジニアが力学系のモデルと使うとは、要するに自作の機械の理論模型として力学系モデルを作る、ということであり、機械の動きをシミュレートする、ということです。そういう発想をこのモデルに当てはめると、どうなるでしょうか? 出発点、手持ちの材料は関数の形、つまりはこの場合は一次関数という性質であり、係数(α、β)の値です。それをもとにして、系の時々刻々の振る舞いを次々に求めていこう、というのが、力学系モデルの工学的な使い方でしょう。モデルに不動点があった場合には、それは系の運動の終点、機械の運動のいきつく先、を表していることになります。
 これに対して科学者が既にそこにある自然現象を力学系モデルで理解しようとする場合には、非常に異なった――ある意味で正反対の使い方をします。問題の現象を生み出しているメカニズム、これが力学系モデルで表現されるわけですが、その具体的な形は未知です。そもそも多くの場合は関数型自体がよくわからないわけですが、かりに一次関数に限ったところで、その係数(α、β)の具体的な値がわからない、という状況が想定されています。その代りに目の前の系の状態は分かっている。
 これがある一瞬の、たまたまの偶然的な状況であれば、ほとんど何の情報も提供してくれませんが、そうではなくある種の安定的な状況であるとしたらどうでしょうか? すなわち、系の運動がそこへと収斂していく極限、そこに到達したらそこから再び外れることはない不動点として、目の前にある安定した系の状態を解釈し、そこから逆に関数のかたちを定める、つまりはこの状態の背後にあるメカニズムを逆算していく、というアプローチがとれそうです。これが自然現象に対する科学者のスタンスというわけです。
 工学には「リバース・エンジニアリング」という言葉があります。これは目標を立て、その目標に合わせて機械を設計し、実際に制作する、という普通のエンジニアリングとは逆に、完成品の機械の動きを分析し、更には分解して構造を解析することによって、その作動原理を理解する、という作業です。工学的スタンスからすれば、科学的探究とは自然のメカニズムに対するリバース・エンジニアリングということになるでしょう。


2.
 簡単に説明しましょう。まず、次の式を見てください。

 dX/dt = f(Xt)

 Xはひとつの数字というより、いくつかの数字の束、ベクトルだと思ってください。右についている添え字のtは時間、ある時点を表します。とするとXtは、ある時点tにおけるシステムの状態を表す、と考えていただいて結構です。たとえば宇宙船の位置を示す座標でもいいでしょう。
 さて、この式の左辺のdは微分記号です。このdX/dtは、ある時点tのその一瞬における、Xの微小な変化である、と考えてください。宇宙船の場合は、ある時点におけるその位置の微小な変化、ですから、つまりはある時点における瞬間速度です。とするとこのdX/dt = f(Xt)という方程式は何を表しているかというと「ある時点tにおける宇宙船の速度は、その時点における宇宙船の位置によってきまる」ということです。
 ここでdX/dt = f(X#) = 0となるようなX#が存在したとします。これは何を意味するでしょうか? 仮に宇宙船がこの座標X#の位置に到達したとしましょう。そこでは速度が0となってしまうので、もうそれ以上宇宙船はどこへも動きません。そこでこのX#のような状態を「不動点」と言います。
 今度は経済学の例で考えましょう。次の式を見てください。

 dP/dt = φ(Pt)

 右辺は「超過需要関数」と呼ばれます。市場での取引においては、価格の運動が、取引のバランスを示す信号として機能します。普通、ある品物に対する需要は、その品物の価格が上がれば減り、供給は反対に価格が上がると上がる、と考えられます。しかし大事なのは需要だけ、でもなく、供給だけ、でもなく、両者のバランスの動向です。更に言えば、価格そのものの水準ではなく、その動き、それが上がっているか、下がっているか、です。
 需要が供給を上回っている(超過需要がある)場合には、価格は需要を引き下げ、供給を引き上げて両者をバランスさせる(経済学風に言うと、均衡させる)ようにはたらきます。つまりこの場合、価格は需要と供給が一致し、取引がバランスするまで上がっていくのです。反対に超過供給がある場合には、価格は下がっていきます。
 右辺はある時点tにおける超過需要を、その時点における価格Ptの関数として表現しています。さて左辺は先ほどと同じく、ある一瞬における価格Pの微小な変化です。この価格の変化が超過需要に比例している、というわけです。
 ここで左辺がゼロである場合、つまりこのシステムにおける「不動点」について考えましょう。これはもちろん、価格がゼロという意味ではありません。価格の変化がゼロ、動かない、ということです。そしてこれは右辺がゼロ、ということでもありますから、超過需要がゼロ、つまり需要と供給がちょうど釣り合っている、ということです。つまりdP/dt = φ(P#) = 0となるような価格P#が成り立っていれば、みんなが売りたいだけ売れ、買いたいだけ買えて不満もない、という状況となるわけです。

 こういうモデルは方程式の束ですから、それを数学的に解く、あるいは実際に解けなくても、解があるのかないのか調べる、ということをやるわけです。(ご存じない方のために確認しますと、こういう方程式において「解がある」ということと、「存在しているその解を具体的に求めることができる」ということとはまったく違います。更にコンピュータが発達した今日では、解けない方程式の解についても、力押しの計算でその近似値をどんどん求めていくことがかなりの程度できます。)さてそれを「解く」といっても具体的には何を目標に何をするのか、についてはいくつかの考え方があります。
 工学的なシステムの場合には、t=0となるシステムの初期状態X0から出発して、Xt = F(t)を求める、つまりある時点におけるXの具体的な状態を求める(そして反対に、ある場所にいつ到達するのかを求める)、あるいはその軌道全体を描き出す、という目標がよく採用されます。宇宙船の場合などは実にわかりやすいですね。
 それに対して、何かを作って、できるだけ思い通りに動かすことを目指す工学とは対照的に、既に存在している何かの振る舞いを理解することを目指す、狭い意味での科学の場合には、不動点を求めることがしばしば目標になります。自然は細かく見れば時々刻々、常に動いているけれども、たとえば、太陽系における天体群の運動にせよ、地球上の気象現象――大気圏における空気、水、あるいは熱の循環など――や生態系――生き物たちの競争と共存のネットワーク――にせよ、そして経済を含めた社会秩序の多くも、動きながらも同じパターンを繰り返し再生産し、少しくらいの揺らぎなら、打ち消してまた元に戻る復元力を備えたシステムとしてみることができそうです。そこで自然に存在する動的だが安定した秩序を、すでに不動点、ないしその周辺に到達しているシステムと解釈する、というわけです。市場経済の場合、時々刻々と人々はものを作り、売り、買い、消費し――と動いているけれども、そのパターンは安定的に反復され、少しぐらいの混乱ではぐらつかないことがわかっています。(ちょうど今現在の「世界恐慌」とも呼べるほどの非常事態のもとにおいてさえ、なお我々は普通に街で買い物をすることができています。)
 経済学、社会学を含めた社会科学は、どちらの立場に立つのでしょうか? 既に示唆したとおり、経済学は主に後者の立場をとります。つまり現実の市場経済は、ほどほどに安定していて、「不動点」周辺に到達した方程式系でモデル化してもそれほど問題はない、と考えるのです。現実に存在している秩序の理解を目標とする「科学」的なアプローチですね。しかし同時に言うまでもなく、経済学は政策科学でもあり、社会に介入して具体的なある状態を実現しようとする「工学」的な側面も持ちます。この二つのスタンスが矛盾する、というわけではありません。「科学」的な認識をもとに、現実の制約を意識した上ではじめて「工学」に意味が出てくるわけですから。しかしながら焦点の置きどころは大いに異なってくることも確かです。