東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」

 今日はグダグダでしたすいません。
 話したことと(いつも以上に)だいぶ違いますがあげときます。


フーコーの「リベラリズム」(承前)


 フーコーによれば中世から17、18世紀までの、法権利による主権者の、その統治の制限が問題となっていた局面においては、統治の目標とはまさに統治の主体たる主権者の目標、主権者の欲望の宛先ということになるだろう。しかしそれが具体的には何を意味することになるかといえば、重商主義政治経済学、官房学、ポリス学等々の絶対王政下での新しい統治の知が教えるように国力、国富ということになる。重農主義自由主義政治経済学もまたこの国富を主権者の、統治の目標として指し示す点において選ぶところはないが、その同じ目標を実現するための政策手段については、決定的に異見を唱えるわけだ。
 目標と目標を遂行できる能力とは別物である。更にいえば、目標それ自体とその目標達成から主体の得る効用、利益もまた別物だ。リベラリズムはそのズレに起源を持つ。乱暴に図式化するならば、国家の目標としての国力の増進を、積極的な政府介入という手段で実現しようとするのが近世官房学・ポリス学であり重商主義であるとするならば、重農主義は同じ目標を、政府介入の抑制によってこそ達成しようとする。国家にもはや経済をコントロールする能力があるとはみなされないのである。
 スミス以降の自由主義政治経済学もまたこの点では重農主義と同様だが、更に微妙だが重大なシフトが生じている、とフーコーは考えている。そのシフトについてこの講義では「市民社会civil society」なる言葉遣いによって語られようとしているが、先述のとおりいま一つフーコーの講述は混乱気味であるため、ここはオーソドックスな経済学史の知見を踏まえて考えてみよう。


 まずは重商主義重農主義・スミス的自由主義との間に切断線を見いだしてみよう。しかる後、重農主義重農主義とスミスとを分かつ切断線に目を転じることとする。
 第一の切断線、重商主義重農主義・スミスとを分かつ分かりやすい断層とは、言うまでもなく政府介入に関する態度である。この切断にはフーコーもまた気づいている。上記の引用ではフーコー重農主義を「専制主義」と呼んでスミス的自由主義との断絶を強調しているが、統治の論理としての重農主義の「啓蒙的専制主義」は、スミス的自由主義から離れている以上に、重商主義から離れていると考えることもできる。重商主義における政策介入の手法は基本的には、王権に直属する中央官庁による専断というよりは、既存の身分制社会の社団的秩序の論理に沿った利益誘導とでも言うべきものである。一部の商人に特許を与えて外国貿易を独占する会社を作らせる、といったやりかたを想起すればよい。そこでは王権は、公的な秩序形成の権能を独占する絶対者ではない。ピラミッド的なヒエラルキーの上位に立つとはいえ、それは中間団体の秩序形成力に決定的に依存している。あるいはここでは私的な利権が公的権威を利用し、食い物にしていると言えなくもない。これに対して重農主義においてもスミスにおいても、国家権力は私的な利害からの超越性を確保したものとして扱われている。
 今度は、重商主義重農主義とをむしろ近づけ、スミスとの間の断絶を強調するパースペクティブに転じてみよう。自己調整的メカニズムとしての市場経済というアイディアはスミスの創見というわけではなく、価格メカニズムについての先駆的な分析は「重商主義」にくくられる先行する論者たちの間にすでに見られる。リチャード・カンティロンやサー・ジェイムズ・ステュアートにおいては、すでに価格メカニズムは一種の自己調整メカニズムとして理解されているといってよい。ではこのパースペクティブにおいては、スミスにおける市場理解の革新はどこに見いだされるのか? それはスミスが資本、土地、労働といった生産要素のレベルにも、明確に市場メカニズムを見出しているところである。スミス以前のほとんどの論者においては、分析が財市場の均衡メカニズムにとどまっている場合が多く、生産要素たる労働・土地の取引もまた市場メカニズムに則っていることへの認識が希薄である。
 重農主義重商主義の論者たちは経済を具体的な素材のレベル、マルクス主義風にいえば使用価値視点で捉えているのに対して、スミスの場合には(交換)価値視点で捉えている、と言ってもよい。スミス以前においてpolitical oeconomyを論じる者のほとんどは、たとえ市場の重要性に気づいている場合にも、経済をあくまでも具体的な産業の連関として捉える。そして市場についても、個々の産業レベルでの売り手と買い手の間の関係として理解するのが通例である。それに対してスミスは、個別の産業―農業、製造業、商業といった――の枠を超えて、そこに投入される生産要素としての資本、土地、労働の取引においても市場メカニズムが動いていることに注目し、逆にそのレベルを経済理解の中心におくことによって、経済を均質な(交換)価値(貨幣で換算できて、価格として表現できる価値、労働としても一般化された「抽象的人間労働」)の運動として捉え、様々の具体的な使用価値(あれこれの具体的な物量、労働としても「具体的有用労働」)のレベルは二次的なものとなる。
 重農主義者が自由な価格メカニズムへの信頼を獲得し、ほとんど自由主義的な抑制的政策論に到達していたとしても、その経済観はなお基本的には重商主義者と同様の、具体的な実物ベースにこだわる、使用価値視点からのものである。重農主義者の自由な市場への信頼は、大地の生産力への信頼とあまり見分けがつかない。スミスの「みえざる手」への信頼は、それと少しばかり違う水準にある。
 すなわち、スミスにおいては「労働」「資本」「土地」といった概念は、実体的なものではなく、形式的、機能的なものである。それゆえ、重農主義者のそれが大地の生産力への実体的信頼としての色彩が濃厚であるのに対して、スミスの「みえざる手」への信頼はより抽象的なシステムの作動原理への信頼である。


 以上を踏まえた上でフーコーに戻ろう。『安全・領土・人口』あるいは『監獄の誕生』で論じられている、絶対主義の内政国家とその周辺における「統治government」「規律訓練discipline」は、ある意味では――フーコーが用いているのとは別の意味合いでは――「主体化」と呼んでもかまわないだろうものである。すなわちそれは人を教え導き、躾ける営為である。こうした「統治」「規律訓練」については、いわばその洗練や深度の発展段階(!)とでもいうべきものを考えてみることができるだろう。
 ハンナ・アーレントが論じたような、それこそアリストテレス政治学』からほの見えるような古典古代的な公私の二分図式に従うならば、公的領域に出現して活動するのは立派な一人前の主体である大人の男であり、そうした大人の男は家長として家を支配し、家のメンバーを支配しケアする。フーコー的な意味での「統治」の源流はこの、私的な支配の方にある。
 ただここで、公民候補である男の子供に対する支配は、女や奴隷に対するそれとはやや異なった意味合いを持つであろう。それが古典的な意味での「教育」ということになる。いまだ一人前ではないが、一人前になりうる潜在的可能性を割り当てられた相手を、まさしくそうした一人前へと導き、鍛えるという作業である。ジョン・ロックが『教育に関する考察』で、あるいはまたジャン=ジャック・ルソーが『エミール』で論じているのも、このような意味での「教育」である。ここで教育はいわば公的な言説の対象にはなっているが、それ自体は私的な営為として位置づけられている。いわばそれは家政学のようなもの(と言うよりその一環)なのである。
 もちろん家だけが「統治」「規律訓練」(そして「教育」更には「ケア」)の場所ではないとしても、近世の時点では国家はまだその主たる担い手ではない。教会はもちろん公的な組織ではあるにしても、その地位は国家とのせめぎあいの中で揺らいでいるし、また教会においても司牧者と司牧される信徒の間の関係は、公民同士のように対等ではなく、むしろ家長と家の他のメンバーとの関係に近い。
 ただしフーコー自身はこの講義で、アリストテレスではなくプラトンの特に『政治家』によりつつ、古典古代ギリシアにおいては統治――に先立つ司牧というパラダイムが、権力理解においては不在ではなかったにせよ周辺的であった、と論じる。フーコーの言うとおり『政治家』においてプラトンは、政治術のモデルを司牧よりは織物の術に求めている。フーコーの解釈では、プラトン「がまさに示そうとしているのは、司牧なるものが存在するとしても、(中略)それはおそらくポリスに必要ではあるけれども、政治的なものの次元に対しては従属的なものにすぎない活動(たとえば医師や農民や体操教師や教育家の活動)なのです。このような人々はじじつ牧者になぞらえることができるが、政治家は、政治家に特融・固有の活動を踏まえると、牧者とは言えない。」(『安全・領土・人口』181頁。)そして西洋における司牧権力の主たるモデルの起源を、キリスト教会に求めていることは、既に見たとおりである。
 ちなみにアリストテレス政治学』『経済学(家政学)』を参照してみよう。アリストテレスによれば権力・支配関係は自由人同士の間での「政治家的支配」と、自由人=主人と奴隷の間での「主人的支配」とに大別され、自由人ではあるが二級存在である女性や子どもへの支配がその中間に位置づけられる。言うまでもなく彼は奴隷と自由人の差をその「本性」に基づくものと論じているのだが、現実がそう簡単に割り切れるものではないこと――戦争捕虜になるなどして自由人が奴隷となることもごく普通にあること、あるいは奴隷をまじめに働かせるインセンティブとして解放=自由人の地位を与えるというやり方もあること、等――も十分にわきまえ、よく言えば懐の広い、悪く言えば無節操な議論を展開している。
 「自由人」とは何者か、についてもアリストテレスは、比較の観点も交えつつ現実的なアプローチを展開し、性急な図式化は避けている。自由人とは奴隷ならぬ者、ととりあえずは言えようが、その自由人の中にも女子どもといった存在がある。また職人や日雇い労務者等、財産が少なく、労働に忙しいために公事に関わる余裕のない者たちもいる。つまり自由人=公民というわけでは必ずしもない、ということだ。国ごとの歴史的な脈絡に応じて、とりわけ君主制、貴族制、民主制等々の政体の違いに応じて、どの身分、どの層が公民に数え入れられるか、には幅がある。となれば公的な政治としての「政治家的支配」と、私的な家政としての「主人的支配」とはあくまでも大雑把な方向性とでも言うべきもので、その中間、あるいはそのカテゴリー分けから漏れる領域――たとえば、公民ではない自由人に対する支配――がありうるわけだが、それらの扱いはあくまでプラクティカルなものにとどまっており、独自のカテゴリーとして理論化されてはいない。
 こうしたカテゴリー漏れは実はルネサンス以降の、主権国家をめぐる西洋近代政治思想の「正統」を形作る偉大な古典群にも引き継がれている。女子どもをも自然権の主体とする(がゆえに主権の絶対性に行きつかざるを得なかった?)ホッブズのラディカリティは無視できないものの、スピノザは未完に終わったその民主制論において当たり前のように女と貧民を政治参加の主体としての公民から除外した。ロックの国家もまた、土地所有者たちのみをその正式の主体=契約の参加者となしており、貧民の法的地位は在留外国人のそれと大差ない。
 事実として厳然と存在していた貧民は、社会的にも、まったく無視され位置づけられていなかったわけではない。イングランドは、少なくとも黒死病以降には国家レベルで貧民の取り締まりと救済のための法制度を作り上げ、その実施責任を地域の生活共同体――教区や都市自治体に担わせた。国家レベルの法制のあるなしは別としても、同様の対応は一般的である。そして言うまでもなく教会は一貫して司牧――霊的のみならず社会的な教導と救済の担い手ではあったはずである。ただそうした貧民に対する、従来の枠組みからすれば公的政治とも私的家政ともつかぬ取り組みが、主権国家の任務として明確に制度化され、それをめぐる知が体系化されるのは、少しばかり遅れたわけである。官房学、ポリツァイ学、政治経済学はその所産である。そしてその際テンプレートとなったのが、伝統的な家政学や司牧の方法論であったというわけだろう。
 更には近世における「軍事革命」について考えてみることも有用かもしれない。言うまでもなくこのプロセスは、フーコーエスライヒらによってまさに「規律」の一例として注目されているわけだが、国制の観点から見ても興味深い。軍事教練というシステムを案出(復活)したナッサウ公マウリッツ、スウェーデン王グスタフ=アドルフらの名と結び付けて語られる「軍事革命」だが、言うまでもなくこれは「財政革命」ならびに主権国家の確立と無縁の過程ではない。「軍事革命」の恩恵に浴するためには、その費用を支弁するに足る国家財政システムが必要であり、これがイタリアなどの都市国家群の没落を招き、一定の領土を確保しえた国家のみが「軍事革命」後の兵制を維持して近代主権国家の原型となることができた。ただし当初はこうした軍隊もまた傭兵から出発したといってよいだろう。これら傭兵たちもパートタイムからやがて常雇いの長期服務兵となり、常備軍化への道が開かれるのだが、(おそらくは義務教育制と並んで国民国家体制の最重要の基軸であるところの)徴兵制に基く国民軍の一般化はまだ先のことである(グスタフ=アドルフの軍隊は先駆け以上のものではなかった)。
 以上を踏まえたうえでフーコーの「規律」「統治」についての議論に立ち戻ろう。フーコーがことに近世について「統治」という言葉で語ろうとしているのは、古典古代ギリシアをモデルとした「公/私」二分法のカテゴリーから漏れ落ちる領域、公民ならざる自由人の処遇についてのことである。たとえば貧民の取り締まりと救済はここにあてはまるだろう。(注意すべきことだが、士官ならぬ兵士の処遇もまた例に漏れない。)この二分法に無理に則り続けるならば、それは「私的家政」の論理に従うものになるわけだが、全ての貧民を実際にはもちろん、「あたかも」という風に擬制的にさえ、教養と財産のある公民の私的支配のもとにおくことには無理がある。どこかで国家と貧民が直接に向き合う回路が設定されなければならない。
 かくしてpoliceやpolitical oeconomyという回路が開かれていくわけであるが、いま少し想像力をはたらかせてみよう。貧民と国家はどのように向き合うのか? まずは、国家がそれ自体でひとつの大きな家となり、貧民はその従属的なメンバーとして位置づけられる、という論理に思い至るが、しかし貧民はどのようなメンバーなのか? 奴隷や奉公人のようなものなのか、あるいは子どものようなものなのか? 後者として貧民がイメージされた場合、「貧民の公民(市民)化」という課題が浮上してこざるを得ない。
 もうひとつ、いったんpolice、political oeconomyという問題領域が開かれてしまえば、貧民のみならず本来何のかげりもない自由人=公民=市民であった人々までもが、「統治」のターゲットとしてその国家にとっての存在意義を変えてしまうだろう。それがどのような含意を有するだろうか? まず第一に、単純に考えてみれば、それは「公民=市民の自由と自律に対する脅威としての国家権力」という近代立憲主義的な問題設定を導くだろう。「統治」は根本的なところで「市民的自由・自律」と相容れない、というわけだ。しかしそれにとどまらず「自由な市民に対する(その自由・自律を否定しない限りでの)統治」という、新たな問題設定もまた、浮上してくるのではないだろうか。


 『監獄の誕生』で描かれるのは、教会、修道院にとどまらず軍隊、学校、病院、工場といった「アンシュタルト」における規律の発展のみならず、ベンサムの「パノプティコン」なるアイディアに象徴される、自己規律というモードの成立までをも含んでいる。これを『安全』『生政治』講義の文脈に引き写して、政治経済学の歴史とすり合わせてみよう。
 カール・マルクスは『資本論』のいわゆる「本源的蓄積」論で、産業革命に先立つ「血の立法」に注目している。産業資本主義に適応したライフスタイルを備えた労働者階級は自然発生したわけではなく、資本の意を呈した国家の強権的政策によって――つまりは「規律化」によって生み出されたのだ、と彼は論じている。やや図式的ではあるが、興味深い議論である。いわゆる重商主義の文献において、労働者は動員される存在であって、それ自体の意思を持って動く主体として扱われることは少なく、いわんやその意思を尊重されてはいない。この点でもアダム・スミスはある飛躍をなしているのであり、彼の分析の中では労働者は自らの利益のために自由に動き回る主体であり、そうした自由をスミスは尊重している。マルクスはそうした労働者階級の存在を否定しているわけではない。しかし彼によれば、それは自然発生したわけではなく、むしろ人為的、政策的な、規律の営為の所産であるわけだ。
 となればフーコー絶対王政の内政(ポリツァイ)国家に見出した、そしておそらくは重商主義重農主義の政治経済学に潜在していた規律の論理は、貧民に対して、二通りの作用を及ぼすものとして観念されていたということになる。(あくまでも観念レベルの問題であって、実体的な作用はまた別の問題であるが。)ひとつには、貧民をまっとうな主体、自由人扱いせず、家の従属的メンバー(奴隷はその極限にして典型)のようなものとしてをただ支配し管理し運用する形で。そしていまひとつには、規律を通して一人前の自由人に、つまりは公民へと鍛え上げる形で。フーコーの解釈するベンサムの「パノプティコン」は、後者の極限に位置する。そこでは人は監督者の視線を内在化させて、自己を自己の規律・統治の主体たらしめるのである。


 以上のように考えるならば、「パノプティコン」とは近世ポリツァイ的統治理性と、近代リベラリズムの統治理性との間の蝶番のごとき形象となるわけであるが、しかし実際のところフーコーリベラリズムの統治をどのように考えていたのか? つまりフーコーは、リベラルな統治の主体をあくまでも国家と考え、国家が「パノプティコン」的な、人をして自己統治の主体たらしめる仕掛けを用意する、という具合にリベラルな統治理性を理解していたのか? それとも、リベラルな統治性においてはもはや国家の中心性・特権性は解体し、まさに個人こそが自己を統治する主体の典型となった、と考えていたのか? 
 この一連の講義を含めて様々な折にフーコーが、国家の実体視を避けるように我々に繰り返し注意を喚起していたことはよく知られている。同じひとつの「国家」という実体、あるいは特定の個体としての国家組織ではなくとも、「国家」という一般的な形式が、歴史的に様々な変容を遂げ、段階的に発展してきた、という類の国家理解、歴史理解を、フーコーは繰り返し拒絶してきた。そうではなく、様々な歴史的局面を、我々は同じ「国家」という概念枠組を用いて解釈してきただけのことであり、そこに歴史貫通的に不変な「国家」なるものの本質が継続しているわけではない、と。そのように考えるならばもちろん、歴史貫通的に不変な「個人」――フーコー風にいえば「人間」の本質があるわけでもない。
 となれば19世紀以降のリベラリズムの統治理性について我々は、上述のごとき二者択一で考えるべきではないだろう。もちろん実態としてみれば、既にマルクス主義的な発展段階論の検討を行った際に見たごとく、19世紀の実際の国家がいかに「小さな政府」や「自由放任」のスローガンを掲げようと、そこに起きていたのは統治の洗練ではあれ統治の縮小などではない。かといってそれを「国家権力の一方向的増大」と片付けるのも単純すぎる。
 それでは、リベラリズムの統治性をどのように捉えればよいのだろうか? 注意深く避けるべきは、「それは個人を「パノプティコン」的な仕掛けを通じて、自由で自律した主体へと強制的に規律していく」といった理解である。それはおそらくことの一面を言い当ててはいるが、ミスリーディングである。それを狭い意味での規律=教育の論理としてのみみるならば、教育され自由で自律した主体に成長してしまったものに対しては、この統治の論理は意味を持たないことになってしまいかねない。もちろん「実際には、人は一生教育から解き放たれることなどなく、規律訓練に晒され続ける」といった解釈も可能だろうが、それでは見えなくなってしまう領域がある。それはどのような問題領域か?
 


 それについて考えるためには、フーコー読解の文脈を離れて、それこそリベラリズムの統治理性の末裔に他ならない、今日の経済学的な観点からの政策論のことを想起すればよい。いや実際、フーコーは『生政治』においてまさにそうした政策論について語っているのだ。経済学を踏まえた政策論は、政策的に操作しようとする相手に対して、その行動の自由を直接に奪おうとはしないし、もちろんその考え方や欲望のあり方を変えようともしない。しかし古典的な意味で「政治」的に、言葉を介して命令したり説得したりというやり方も、否定はされないまでも重視されない。それは基本的に相手の利害関心に訴える。相手の周囲の環境を変えることによって、相手が自発的に、政策当局の望む行動をとるように誘導する。近年、ことにローレンス・レッシグ情報通信法制論以降「アーキテクチャ」といった言葉で論じられるようになった問題領域である。
 だからリベラリズムの統治理性とは、個人的主体や民間組織の自己統治の論理にとどまるものではない。それは近世ポリツァイのそれと同様、依然として、主として国家が担うところの公的な統治の論理である。


監獄の誕生―監視と処罰

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