「分類思考」の呪縛からは逃れられません

 三中先生の新著を読んでつらつら考えた。
 存在論的に見れば「種の論理」「分類思考」は錯誤であるとしても、認識論的に見ればそれは人間にとって不可避である、ということ。
 それはたとえば、人間にとって「種」という枠組によって認識したいことは、「個としての種」だけではなく「複数の種からなる複合構造」でもあるからではないか。


 この間、中西洋先生の整理にならいつつ、講座派・対・労農派(宇野派)の、更に言えば「構造」思考・対・「段階」思考の対立という構図で「日本資本主義と労働問題」研究の復習をしてきたわけだが、ぶっちゃけて言えば「構造」思考も「段階」思考もどちらもけっきょくは「種」の論理であり「分類思考」のバリエーションに他ならないわけです。(そういえば、マルクス主義者グールドの「断続平衡説」は発展段階論に他ならない。)
 いわゆる近代経済学というか、新古典派系統の経済史学においては、どちらかというと質的断絶・飛躍より量的趨勢変化に注目してきているのだけれども、積極的に発展段階論的思考に反逆している論者は存外少ない。近年ではドーキンスが「断続平衡説」に一定の合理化を与えたように、合理的主体理論の延長線上に質的変化を位置づける、ミクロサイドでの「比較制度分析」、マクロサイドでの「内生的成長理論」の歴史解釈への応用も盛んである。


 ただ発展段階論において(そして構造論において)問題の焦点とされている「段階」(「構造」)は、生物学における「種」の単純な対応物ではない。
 まず、一時点における横断面的な「構造」は、三中著でいうところの「種タクソン」ではなく「種カテゴリー」に対応する。そして同時に、複数の「種タクソン」に対応する「群集」が共存する「生態系」の対応概念とも解釈できる。
 どういうことかといえば、『日本資本主義分析』における三セクター論、あるいは開発経済学や戦後日本産業構造論における「二重構造」論は、経済が異質ないくつかの部門に分断されている、というものである。本来ならばひとつの国民経済を形成し、緊密な分業がなされているはずの経済システムの中に、資本市場や労働市場のレベルで質的な分断が見られる、という議論である。これは単純化すれば、本来の統合された国民経済においては基本的に同質の経済主体群――企業群、家計群のみが存在するはずが、どういうわけか異質な複数のグループが共存している、という構図である。


 これに対して発展段階論的な意味での「段階」に対しては、大雑把に二通りの解釈を与えることができるだろう。第一の単純な解釈としては、一時点的に見れば経済は同質の主体群によって占められているが、歴史的に見れば支配的な主体群が入れ替わっており、かつその変化は不連続的な飛躍として起こっている、というものである。しかし大部分の場合、ことに資本主義の発展段階論においては、帝国主義論=後期資本主義論が焦点となるため、このようなシンプルな解釈はほとんど見られない。むしろそこでは「種カテゴリー」そのものの段階的変異、そして経済の「生態系」そのものの構造変動が問題とされている。


 以上のごとく考えるならば、純粋に理論的にみれば「講座派」的な構造分析よりも「宇野派」的な段階論の方が優越している(後者は前者を包含できるが、逆は無理)、ということになってしまう。構造分析をしようとする者は、段階論的な枠組の優越を受け入れた上で、力点の置き所を歴史よりも横断面に置く、という形で切り抜けるしかない。
 とは言えここで「種の論理」の根底に横たわる難題が無視できない。すなわち、経済主体の異質性の判定根拠、「ひとつの経済システムが複数のセクターに分断されている」というときにその「分断」を判定する根拠である。
 市場経済は分業体系であり、個別の主体が異なる行動をとっていること自体は当たり前である。産業構造それ自体は、ここで問題とすべき「構造」ではない(それは因果関係においては「結果」のレベルに属する)。資本主義経済の枠内では、「統合/分断」の基準は生産要素市場としての資本市場と労働市場にある。たとえば、資本市場と労働市場において裁定が行われていなければ――利子率、企業収益率、賃金率等の恒常的・系統的な格差が存在していれば――そこに「異質性」「構造」の存在を云々する余地が生まれる。
 ただしこれだけでは、通時的、かつ不連続な変化を論じるための枠組とはならない。資本市場・労働市場の変化それ自体を説明する枠組が必要となる。
 伝統的なマルクス経済学においてはこの変化を、「生産力と生産関係の矛盾」として、つまり実体経済面の変化が制度的変化を促した、という論理として描いてきた。資本主義内での発展段階論、とりわけ帝国主義への移行の説明においてはそれが顕著である。すなわち、産業構造=実体経済面の変化(重工業化)が資本市場・労働市場の不完全性をもたらした、という風に議論は展開されている。
 ただ問題は、こうした仮説が十分に検証されてはいない、ということである。(同様のことは実は新制度学派、比較制度分析の枠組を採用した歴史分析についてもしばしば言われる。)


 日本資本主義論(日本経済論)の文脈では、かつては橋本寿朗が宇野派の立場から講座派の構造論への精力的な批判を行っていたが、近年ではむしろ、マルクス派のみならず岡崎哲二らの新制度学派をも射程に入れた三輪芳朗の批判の方が目立つ。彼によれば「二重構造(中小企業)」も「企業集団」も「産業政策」もすべて幻想、観念の中に存在しない「分類」であって実在ではない。
 もちろん仮にそれが観念でしかなかったとしても、我々は「分類」せずにはいられないのであればこうした「構造」観念自体は不可避である。そしてそうした観念は「政策」に転換され、実在に跳ね返らざるを得ない。もちろん三輪の批判は、その産業政策分析や戦時統制分析に明らかなとおり、そうした「政策」の無効性までをも含意している。
 しかしながらすべての「政策」の意義が三輪の論法で否定しきれるものであろうか? 少なくとも「制度」として定着した「政策」については単純な無効論は成り立ち得ないのではないだろうか? そして定着した「制度」のいくつかは、「政策」の廃止後も、まさしく「構造」的に一定の慣性をもって持続しうるのではないか? 
 三輪の批判は規範的なレベル(政策の有害性の指摘)と実証的なレベル(政策の無効性)の双方を含んでいるが、その腑分けは実はそれほど容易なことではない。そして規範的なレベルにおけるその説得性はそれなりに大きい(外部性の存在など、政策が有益でありうる局面でも、「政府の失敗」の可能性がある)が、実証的なレベルでは少しばかり減じる(政策が有害な形で実効的でありうる可能性にやや鈍感?)のではないか。

分類思考の世界 (講談社現代新書)

分類思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

政府の能力

政府の能力

計画的戦争準備・軍需動員・経済統制 − 続「政府の能力」

計画的戦争準備・軍需動員・経済統制 − 続「政府の能力」