とりいぞぎ栗本薫「ぼくら」三部作について

 『時代』『気持』は風俗小説として読むことができる。ことに『気持』は「オタク」という言葉もまたおそらくは「やおい」という言葉もなかった頃、もっとも早期におけるコミケ周辺の状況を描いたものとして注目に値する。『世界』は、まあ、なかったことにしたい。『大いなる助走』のあとでこういうものを書くのは大変だ。


 さて、すでにあちこちで指摘されたとおり、この連作は庄司薫の四部作にはっきりと呼応している。
 ことに『時代』はあからさまに庄司第4作『青髭』を継承する。『青髭』ラストでの妊娠した少女の

だって、人間が好き勝手に生きるってことは、頭がよかったり力があったり才能があったりする人だけに許される贅沢なんでしょう? そうじゃない人は、周りの言うことをよく聞いておとなしくしている他ないんでしょう? 人間はみんな同じだなんてうそで、自由に生きる資格のある力のある人と、一所懸命おとなしくしていてそれでやっと生きていける人とがあるんでしょう?
庄司薫『ぼくの大好きな青髭』中公文庫、236頁)

なる語りは、『時代』ラストの薫君の告白、

 おとなの目には、あんなアホみたいなペチャペチャ声のカワイコちゃん歌手――男のくせにピンクのブラウスなんかきて――またそいつにキーキーさわぐ、なんていうブタ娘どもだ、ってことにしか、ならないでしょうね。しかし、あのコたちは、他になんにもないんです。ホントに、なんにもないんです。アタマだってよかない、成績わるいし、顔やスタイルにちょっとばかし自信あったって、あのていどのコならごまんといるんです。(中略)どうしたらいいのかわかんない、だけなんだ。だからあのコたちは、あい光彦に走るんです。ホントは誰だっていいんだ。キャーキャーいってる自分に同化したいんですよ。
栗本薫『ぼくらの時代』講談社文庫、 頁)

に明確にこだましている。


 庄司と栗本がともにここで指摘しているのは、この時代(60年代後半から70年代初め、小熊英二が『1968』で日本の途上国からの最終的離陸と先進国化の時代とした過渡期)において若者が、アンビバレントな存在となったこと――一面では昔と変わらず「半人前」「ガキ」として大人に疎まれながら、他面では金儲けの種として、マーケットとしてちやほやされるようになったこと――である。ある種歴史的に普遍的――とは言わないまでもありふれた現象だった「恐るべき子供たち」が、もはや前衛でもエリートでもなく、大衆そのものとなり、それによって恐ろしくもなんともなくなってしまった。
 ただこの局面についての庄司と栗本の時代診断には、声高な告発調ではもちろんないにせよ「若者は大事にされているように見えて、実は大人の都合で搾取されている」とも読みうるところがある。
 しかしそれから30年あまり。かつての若者はもはや初老に差し掛かり、栗本薫が言うとおり「ロックする最初のジジイたち」となった。彼らの子どもたちの世代もすでに中年であり、親世代とあわせて「サザンな大人たち」を構成している。
 もはや搾取者はいない。というより、もとよりそんなものはいやしなかったのだ。


サザンな大人たち

サザンな大人たち

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)


 しかし中島梓栗本薫という人は、自他双方に対する非常に透徹した醒めた認識を持ちつつも、同時にどうしようもなく節度を欠いたミーハーであり、自分の作品を自分で台無しにすることに有り余るエネルギーを浪費するのがその後半生であった。
 なんとも痛ましいが、しかしそういう痛さ、みっともなさまで含めての中島梓栗本薫なのだろう。普通、あそこまで透徹とした人はあそこまでみっともなくはなれない。普通は眼高手低状態になって自己去勢する。それともあの愚作の垂れ流しこそが、一種の自己去勢だったのか?