フーコーと三つのリベラリズム?

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090519/p2を承けて。


 『生政治の誕生』でフーコーは、新自由主義を単なるスミス的な古典的自由主義の回帰ではない、と明言している。

 アダム・スミスマルクスソルジェニーツィン。自由放任、商業とスペクタクルの社会強制収容所とグラーグの世界。おおざっぱに言って以上が、新自由主義の問題を扱う際に通常用いられる分析と批判の三つの母型です。(中略)私がみなさんに示したいと思うこと、それは、新自由主義はやはりそれとは別の何かであるということです。(162頁)


 今日ではすっかり忘れられつつあるフライブルク学派の経済学・経済法学、旧西ドイツのオルドリベラリスムス、「社会的市場経済」を標榜する経済政策思想と、今日なお「新自由主義」の典型とみなされるシカゴ学派の経済学とをともに「新自由主義」とフーコーが呼ぶ理由は、単にその両者がともにオーストリア学派の影響を受けているから、ではない。

 国家によって規定され、いわば国家による監視の下で維持された市場の自由を受け入れる代わりに――経済的自由の空間を打ち立てよう、そしてそうした空間を国家によって限定させ監視させよう、というのが、自由主義の最初の定式でした。オルド自由主義者たちが主張するのは、この定式を完全に反転し、市場の自由を、国家をその存在の始まりからその介入の最後の形態に至るまで組織化し規則づけるための原理として手に入れなければならない、ということです。つまり、国家の監視下にある市場よりもむしろ、市場の監視下にある国家を、というわけです。(143頁)

 新自由主義者たちにとって、市場における本質的なものは交換のなかにはありません。(中略)彼らにとって、市場における本質的なものは、競争のなかにあります。(146頁)


 フーコー自身はそのような言い方を避けてはいるが、それはもはや国家の統治性というよりも市場の統治性と呼ぶべきものかもしれない。


 古典的自由主義とは異なり(?)、新自由主義には新左翼と通底する国家嫌悪があることをフーコーは指摘する。フーコーにとってフライブルク学派とフランクフルト学派はともにウェーバーの継承者として背中合わせの関係にある。

 マルクスは、一言で言うなら資本の矛盾した論理のようなものを定義し分析しようとしました。これに対し、マックス・ヴェーバーの問題、そしてマックス・ヴェーバーがドイツの社会学的考察、経済的考察、政治的考察のなかに同時に導入したもの、それは、資本の矛盾した論理の問題よりもむしろ、資本主義社会の非合理的合理性の問題です。(中略)そしておおざっぱに言うなら、フランクフルト学派フライブルク学派も、ホルクハイマーもオイケンも、この問題をとり上げ直したのだと言うことができます。ただし、二つの異なる向きへ、二つの異なる方向へと向かって。(中略)フランクフルト学派の問題は、経済的非合理性を解消するようなやり方で定義され形成されうるような新たな社会的合理性とはいかなるものでありうるのかを定義することでした。これに対し、資本主義の非合理的合理性の解読という、フライブルク学派にとっての問題でもあったこの問題を、オイケンやレプケのような人々は別のやり方で解決しようと試みることになります。すなわち、社会的合理性の新たな形式を再び見いだし、発明し、定義しようとするのではなく、資本主義の社会的非合理性の解消を可能にするような経済的合理性を定義したり、再定義したり、再発見しようとするということです。(130-1頁)

 資本主義社会、ブルジョワ社会、功利主義社会、個人主義社会に関してナチスによってなされた分析については、それをゾンバルトに関係づけることができます。(中略)ブルジョワ的かつ資本主義的な経済および国家は、いったい何を産出したのだろうか。それらが産出したのは、一つの社会、即ちそこでは個々人がその自然的共同体から引き離されて大衆といういわば平板で匿名の一つの形態のなかで互いに結合されているような一つの社会である。(中略)ゾンバルトには、実は一九〇〇年代から既に、その分節化と骨格とがどのようなものであるのか定かでないような思考の決まり文句のうちの一つとなってしまった周知の批判が見られます。それはすなわち、大衆社会、一次元的人間の社会、権威主義社会、消費社会、スペクタクルの社会などに対する批判です。(中略)以上はまた、ナチスが自らのためにとり上げ直したことです。(中略)
 しかし、と新自由主義者たちは言います。よく見ると、ナチスは、その組織、その政党、その総統支配によっていったい何をやっているのだろうか。ナチスがやっているのは、実は、あの大衆社会、画一化し規格化するあの消費社会、記号とスペクタクルからなるあの社会を際立たせることに他ならない。(中略)これはなぜだろうか。なぜナチスは、自らが告発しようとしているものを継続することしかしないのだろうか。それはまさしく、それらすべての諸要素が、ゾンバルトそして彼の後にナチスが主張していたのとは異なり、ブルジョワ資本主義によってもたらされた効果ではないからだ。(中略)大衆という現象、画一化という現象、スペクタクルという現象、こうしたすべては、国家主義反自由主義に結びついているのであり、一つの商業経済に結びついているわけではないのだ、と。(139-40頁)


 ナチスは(ゾンバルトが行ったような)大衆社会批判、ブルジョワ的俗物性批判を展開しているが、他ならぬナチスの政策こそが俗物的、享楽的、スペクタクルな大衆消費社会のそれに他ならない、と新自由主義者は指摘する。そこから新自由主義者たちは、俗物的大衆社会は資本主義市場経済の帰結というよりは、むしろ国家による経済介入の産物である、と結論するわけである。フーコーによればこれは新自由主義的な独占観、すなわち、独占は自然発生的現象ではなく国家による介入の所産、というそれと符合している。かくして新自由主義は、ケインズ主義や福祉国家をも社会主義ファシズムと連続線上にあるものとして捉えてしまう。だがそうしたスタンスは、フランクフルト学派などの新左翼にも共有されてしまっているものである。
 おそらくはそれゆえにフーコーは「国家の理論をなしですます」ことを心がけているのだろう。

 これらの互いに隣接し互いに支えあう二つの考え方は――すなわち、[第一に]国家は市民社会という自らの対象でありかつ標的でもあるものとの関係において際限のない拡大の力を持つという考え方、第二に、国家の諸形態は国家に種別的な一つのダイナミズムから出発して互いに他から生み出されるという考え方は――現在非常に頻繁に見いだされる一種の紋切り型を構成しているように私には思われます。(231頁)

 インフレ傾向にあるそのような国家批判、そうしたある種の弛緩に対して、ここで私からいくつかのテーゼを提案させていただきたいと思います。(中略)第一に、福祉国家や厚生国家は、全体主義国家、つまりナチス国家、ファシズム国家、スターリン主義国家と同じ形態をもっていないのはもちろんのこと、同じ根元や同じ起源を持っていもいない、というテーゼ。私はまた、全体主義国家と呼ばれうるような国家を特徴づけるのは、決して、国家のメカニズムの内発的な強化と拡張ではない、というテーゼも提案したいと思います。(中略)全体主義国家の原理は、国家的ならざる統治性の側、政党の統治性と呼びうるようなもののなかに探されなければなりません。(235-6頁)

 私が提出したいと思うもう一つのテーゼ、それは、以下のものです(中略)。すなわち、現在我々の現実のなかで問題となっていること、それは、国家と国家理性の拡大よりもはるかに、その減退であるということです。(236頁)


 残念ながらそれ以上敷衍されることのなかったこれらのテーゼは、たとえばアレント全体主義論などとも呼応するものであることは言うまでもない。


全体主義の起原 3 ――全体主義

全体主義の起原 3 ――全体主義