ゾーニングあれこれ

 ゾーニングというか規制というか。
 法治国家においては「そういうことするやつが少数ながら出てきてしまうことは仕方ないし根絶するわけにも行かないから何とかコントロールしたい」というときに大雑把に言って二つのやり方があって。
 ひとつは正面から「そういうこと」を禁止するやり方。もうひとつはいわゆる「ゾーニング」、「悪場所」を作って「そういうこと」を囲い込むやり方。


 後者は「法の下の平等」を旨とする法治国家にはなじみにくい。要するにこれは身分制の論理。「そういうこと」をしていい場所、していい人々を一般社会とは区別するという発想。これは囲い込まれた営み、そして人々に対する「差別」である一方、被差別者への「特権」の付与でもありうる。
 おおっぴらに身分制であることを標榜し人々がそれを受け入れている社会においてならともかく、現代の法治国家、単一身分の市民社会にこのような身分的構造を持ち込むことは相応の緊張を呼び込むだろう。囲い込まれた少数者は「被差別者」として、反対に多数者は「保護」された少数者を「特権者」として、互いにルサンチマンを蓄積させる。


 前者は「建前」としては「そういうこと」の「根絶」を掲げること以外の何者でもない。ただしその(立法者レベルでの)「本音」が「根絶」にではなくむしろ「統制」にこそある、というのはいかにもありそうなことである。ただしおおっぴらに「根絶しない=ある程度はお目こぼしする」といいにくい場合もあるということだ。この場合おおっぴらのゾーニングはせずに、デファクトゾーニングがその実地運用によってなされる、ということになる。ただしそこでの「お目こぼし」は「既得権」にはなり得ない(少なくとも法廷では争えない)。
 まあ中には多数者の体制側が本気で「根絶」しようとがんばって初めてようやく「統制」可能となるような手強い少数者もいるのだろうが、そうなるともうこれはひとつの社会の中の分裂というより、社会自体の分裂だよねえ。