資本主義経済下の不平等の歴史理論のための勉強ノート(1)

 とりとめのない悪文。あくまでも個人的メモであり、内容はいまだきわめて不正確で間違い含みのはず。興味のある方は、典拠の探索は各自でなさり、当方の間違いにだまされないようにご注意されたい。

 ジェフリー・ウィリアムソンらの計量経済史的研究に従えば、所得分配の歴史はかなりの程度、標準的な経済学の教えるところと符合する。グローバルな文脈でいえば、世界レベルで価格変動が連動し、真の意味での「グローバル資本主義」が成立したのが19世紀のことだとして、それ以降所得の源泉としての生産要素――つまりは労働、資本、土地の用益価格たる賃金、利子率、地代の相対比率が世界的に収斂傾向を見せるようになる。つまり要素価格均等化定理がある程度の説明力を持つ。そのような状況下で、それぞれの国・地域におけるそれら要素価格の動向が、所得分配の動向を相当程度支配する。身も蓋もなく言えば、相対的に稀少な生産要素を支配する階級が、所得分配において優位となる傾向がある、というものである。
 とはいえここで重要なことは、均等化・収斂の傾向があらゆる方向で見られるわけではない、ということだ。何より重要なのは、生産要素価格比率の均等化は見られても、生産要素価格の絶対的水準の均等化となると急に怪しくなるということだ。
 19世紀から20世紀初めの「最初のグローバル化」の時代においては、大規模な移民=労働移動が起こったために、世界レベルでの賃金水準の均等化がみられたが、言うまでもなくこうした傾向は20世紀後半には見られなくなる。もちろん20世紀中葉以降、グローバル化傾向は逆転して移民に対する規制は厳しくなり、20世紀末以降の「第二のグローバル化」のもとでもそのレベルは「最初のグローバル化」には遠く及ばない。こうした世界労働市場への強力な規制もまた、賃金水準の世界レベルでの収斂を妨げる一因ではあろう。しかし、ことに第二次世界大戦以降の世界レベルでの、ことにいわゆる南北格差の拡大は、それだけでは到底説明がつくものではない。労働移動に対する障壁が依然高いのに対して、資本移動への制限は劇的に弱まった。しかしながら研究者たちの指摘によれば、資本の流れは理論的に予想できるほどは大きくない。この途上国の膨大な低賃金労働を活用しようと、先進国から大量の資本が流れ込んでもよさそうなのに、それほどの資本移動は起きていないのだ。
 多くの経済学者たちはここで「人的資本」に注目した。先進国と途上国では、実はその人的資源、労働の質が異なり、先進国の人的資源は、途上国のそれに比べると、少なくとも「グローバル資本主義に参加して金を稼ぐ」という点でははるかに優れたものである。しかしその質の差は、物理的・生物学的に見ればほとんど大差ない人間同士のこと、先天的なものではあり得ない。そうではなく、先進国においては、ちょうど先端技術をもとにつくられた資本設備と同じように、先端技術を使いこなし、あるいは開発に貢献しさえする能力が、手間暇かけて育成されてきたことにより――つまりは先進国と途上国との間の「人的投資」の差により生み出されてきた、というわけである。
 こうした格差への注目は、南北格差に注目する開発研究者だけのものではない。先進国に焦点を合わせても、そこにおける所得格差の主因は、20世紀末より、土地、資本、労働といった生産要素――資産所有の種別よりは、労働、しかも往々にして雇用労働から給与、賃金として得られる所得の中での格差にこそある、との指摘には枚挙にいとまがない。そしてこうした格差もまた、土地や資本といった古典的な資産所有に基づく格差と同様に、「相続」される――世代的に再生産される、とは、むしろセオドア・シュルツ、ゲイリー・ベッカー流の「人的資本」論に反感を抱いていた批判的教育社会学者たちによって喝破されてきた。
 資本(信用)市場の完全性を仮定するならば、このような人的資本格差は、民間奨学金市場=教育ローン市場のはたらきによって均されていき、少なくとも後天的に克服可能な限りでの稼得能力の格差は縮小する方向に導かれるはずである。逆にいえば資本市場の不完全性、とりわけ教育ローン市場の不足ないし不在は、このような格差を温存してしまう。人身売買、奴隷制を否定した社会においては、有効な抵当をとれない人的資本への融資は極めてリスキーであるために、このような人的資本の信用市場の不完全性は極めてありそうなことである。これはただ単に格差・不平等を温存するというだけではなく、資源の有効活用に対して障害となる、という観点からも問題とされうる。ここに、非常にオーソドックスな、あくまでもパレート基準という単純な尺度に照らしてみても正当化されうる、公的介入による人的資本政策の根拠の一つが求められる。


 また「人的資本」については、後に「内生的経済成長理論」の興隆とともに、その「外部経済性」への注目が集まるようになった。単純にいえば「一人だけ賢くなるよりも、みんなが賢くなる方が幸せ」だ、ということだ。
 一昔前の新古典派経済学が、標準的な条件として議論の出発点としたのは「規模に関する収穫逓減ないし一定」「生産要素の限界生産力の逓減」というものだ。簡単にいうと前者は「工場の規模を2倍――設備も人員もすべて2倍にしたら、その結果の生産量は2倍かそれ以下」、という条件である。それに対して後者は、「工場の設備はそのままで、人員だけ2倍に増員したところで、生産量が2倍にはならない――それより少ない」という条件だ。このような条件を想定するのは、きちんと閉じた理論モデル(モデルの連立方程式系が解けて意味のある答えが出る)を作るため(簡単にいうと「作れば作るほど儲かる」という設定にすると、「これだけ作るのが一番儲かるからここでやめる」という「解」がなくなりかねない)に有意義だが、現実にはもちろんこれに反する状況は発生しうる。むしろ新古典派が理論作成の便宜のために典型的に想定する、規模や生産要素に関する収穫一定・逓減、という状況は、現実世界では、ある程度成熟して市場が飽和加減にある産業とか、そこである程度の地位を占めた企業などの近似としては実際リアルに役立ちそうだが、これから成長する産業・企業には似つかわしくない、とも言える。
 このような想定に反する「収穫逓増」――それは実はアダム・スミス以来の課題であったわけだが――をうまく取り扱うテクニックの可能性については、ディキシット=スティグリッツヘルプマンクルーグマンらの有名な「不完全競争貿易理論」あたりで目処がついてきたわけだが、マクロ経済の成長理論においてこの着想を生かしていくのがローマー、ルーカスらによる「内生的成長理論」ということになる。ここでなぜ「内生的」とこの理論が称するかといえば、新古典派の成長理論の出発点とされるソローのモデル以来、長らく技術的要因は理論にとって所与とされ、ことに近代経済成長のもっとも重要な側面であるはずの技術革新、生産性の上昇は、理論的な説明の対象とはならず、モデルを作成するときに最初から与えられた「外生変数」とされてきたのに対して、「内生的成長理論」においてはある程度こうした技術的要因、ことに生産性上昇率が、他の経済変数との兼ね合いで決まる「内生変数」となるからである。従来のモデルでは生産性上昇率は最初から仮定として与えられていて、方程式を解いてその値を求めるべき未知の変数ではなかったが、内生的成長理論においては、生産性の上昇率は連立方程式のなかの未知数の一つとなり、ほかの諸変数との兼ね合いでその具体的な値が決まるのである。言い換えると、ソロー的な成長モデルでは、生産関数自体が何の理由でか時々刻々と変化していく(生産関数の基本的な形が変わらないまま、その効率――総要素生産性だけがアップしていく)、という具合になっていたのに対して、内生的成長理論では、同じ生産関数の中での変化として、生産性の変化がモデル化されうる。労働者の能力の向上や、知識生産が、天から降ってくるのではなく、経済主体の行動の所産として位置づけしなおされるのだ。
 このような発想によって、内生的成長理論の枠組みでは、各国のほとんど質的といってよいほどの経済発展の度合いやその経路の違いを、同じ一つの技術体系、同じ一つの生産関数の中での、ありうべき多様性として――それほど不自然でなしに――解釈することができる。ただその中であえて、そうした違いを生み出す重要な要因とでも呼ぶべきものを取り出すならば――というより、個別の実体的な要因ではなく、そうした状況の構造的特徴そのものに名前を与えるならば――、やはり「収穫逓増」あるいは「規模の経済」「集積の利益」ということになるのだろうか。しかしその実態は何だろうか? 多くの場合こうした「規模の経済」そのものの発生メカニズムはブラックボックスとされ、その存在の可能性を仮定したうえで、それが経済全体のパフォーマンスにどのように影響するのか、が問われるが、少数ながらこの「外部経済」そのものの発生メカニズムに止目した研究も存在する。そしてそのさい焦点となるのが広い意味での人的資本――労働者個人の能力のみならず、社会的に有用な知識も含めた――なのである。しかしこのような「外部経済性」が人的資本にあるのだとすれば、それが自由な市場、私的な経済主体各自の自由な行動に任されていては、仮にそれが先述の、完全な教育ローン市場を経由するものであってさえ、過少投資になってしまう恐れがある。このロジックに従うなら、単に不在・不完全な市場を補完するという意味においてのみならず、人的投資の私的収益と社会的収益の差を埋めるためにも、公的な介入が要請されうることになる。


 以上を整理すると、発達した資本主義経済における不平等・格差の主因として賃金所得の不平等があり、それを人的資本の分配における格差と解釈した場合、その格差の縮小はまずは人的資本の信用市場の不在・不完全性を補う政策によって可能となる、との議論が成り立ちうる。しかしながらこの人的投資の収益性において外部性が認められる場合、市場創出型というよりそれ以上の介入、より具体的には再分配政策の余地があることになる。
 ごく単純に、人的投資に外部性のある場合と、ない場合とを区別して考えよう。後者のケースでは、もしかりに資本市場が完備・完全であれば、そこには格差の是正と成長との間にトレードオフが存在する、ということになるだろう。税制等を通じた所得再分配は、経済主体のインセンティブのゆがみを引き起こし、経済をパレート最適の状態からずらしてしまう、ということになる。これに対して、資本市場が不完備・不完全であれば、このトレードオフは必ずしも発生しない。そこでは格差を縮小しつつ、なおかつ資源のより効率的な活用をすすめる余地がある。もちろんここでもっとも思いつきやすい手、再分配と成長を実現する政策は、まずは資本市場の整備、というものである。ただし場合によっては、一見ただ効率を低下させるだけと思われがちな、単なる再分配政策、すなわち持てる者から持たざる者への所得・富の移転にも、この両立を実現しうる可能性があることを、たとえばロラン・ベナブーなどが指摘している。これは人的投資に外部性・収穫逓増性が認められる時に実現しうる。非常に雑駁にいえば、貧困者への所得移転、それを財源とする人的投資によって実現する、貧困者の稼得能力の上昇の効果が富者にまで及び、それによる富者の所得の増大が、所得移転(課税の負担)を上回る、というシナリオである。しかしこれはもちろんあくまでも可能性の問題であり、現実世界においてこの可能性が実現している状況はどのようなものか、についての実証的検討が必要となることは言うまでもない(直観的には、途上国における初等中等教育についてはこうした効果が顕著であるように思われるが、先進国における高等教育については不分明であろう)。