oさんのコメントより(続々々)

 いよいよ「パイプのけむり」化してきたよ!
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080917/p1
であたかも、「消費可能財集合」とか「所得分配プロフィール」とかの(帰結主義的な意味での)社会の状態は多次元的でそれこそアローの定理に罠にかかりかねないけれど、「生産力」なら一次元的に評価可能であるかのような書き方をしたのに対して、突っ込みがあるかとドキドキしてたのに何もないよ! さびしいから自分で突っ込むよ!


 よく考えてみれば、生産力、生産技術もまた、実は決して一次元的ではない。定式化の仕方にもよるが、普通に経済学的に、単純素朴に生産関数で表現してみたとしても、少なくとも財の数と同程度の生産関数を想定しないとうまくない。マクロ成長モデルとかで使う集計的生産関数ならいざ知らず、経済をよりリアルな多部門モデルでとらえたければ、そういうことになる。そして具体的な技術変化というのは個別的に考えなければいけない。そういえば経済学的な技術変化の概念についても「ヒックス中立的」「ハロッド中立的」「ソロー中立的」とかいろいろあったはずだよね。
 極端に一般的に定式化してしまえば、経済全体での生産技術体系は、社会全体での投入財ベクトルの集合と、産出財ベクトルの集合の間に成り立つ対応というか、二項関係の集合としてあらわせそうだ。となれば二つの生産技術の間の比較もまた、一次元的な評価を許す保証は全くない。
 あえて言えば、技術体系αと技術体系βがあったとして、前者でできることは全て後者でもできるが、逆は成り立たない、つまり前者が後者に集合として完全に含まれてしまうようなことがあるならば、「αよりβが優れている」とあっさり言ってしまうことが可能だろうが、αとβは重なり合う部分もあればずれる部分もある、つまり「ある財の生産についてはαの方が効率的だが、また別の財についてはβの方が効率的である」ということもある、という方がより一般的なケースだろう。
 すごく乱暴に、プラクティカルな言葉づかいをすれば、総要素生産性を上げる(これのみを上げて生産要素間の投入比率を変えないのが「ヒックス中立的」だっけ?)ようなタイプの技術変化だけを考えない限り、生産力、生産性を一次元的に「こっちが高い」という風に評価することはできない、ということになる。


 たぶん理論的にかつ一般論としてはこうなんだろう。あとは実践的にはどれくらいこの手の議論が利くか、だろうな。