まあ要するに「従属理論」とか「世界システム論」のことだと思ってくださって結構。
『教養』ではこの辺をほぼカットして、どちらかというとオーソドックスな守旧派、つまりは「世界資本主義」としてではなく、「一国資本主義」の集まりとして世界経済――というより国際経済を理解する立場を念頭において議論した。『「公共性」論』では「従属理論」の源流としてのローザ・ルクセンブルグに少しだけ触れ、最終的には否定的――正統派マルクス主義とブルジョワ経済学の方が正しかった――に評価した。
それでも20年ほど前は、ぼくも結構これらの新潮流について熱心に勉強したのである。しかしその中でとりわけ強い印象を受けたのが、海外のこれら新潮流の紹介に先駆けて、主として日本マルクス経済学界の蓄積を踏まえて書かれた本山美彦先生の『世界経済論』なる小著であった。
- 作者: 本山美彦
- 出版社/メーカー: 同文舘
- 発売日: 1981
- メディア: 単行本
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その基本的なモチーフは巻頭論文「分業一般と国際分業の区別について」にはっきり表れている。のちの「生産様式の接合理論」の紹介に先駆け、基本的に日本の学界動向を踏まえながら独自に、国際分業、世界経済のレベルでの固有の問題として、資本主義市場経済という同じ(マルクス主義のジャーゴンでいう)「生産様式」の中での分業ではなく、異なる「生産様式」に属する経済主体の間での分業について考えるのが、世界経済論の基本課題である――というわけだ。
オーソドックスな国際経済論(マルクス経済学であれ主流であれ)が国民経済を基本単位とし、世界経済を国際経済――つまり国民経済の単なる集りとみなし、そこに固有のシステム性を見出さないのに対して、ここでは世界経済は異質なもの(「生産様式」とか「ウクラード」といった言葉で形容される)の複合体であり、かつその異質なもの同士の境界線は国境とは必ずしも一致しない。「国民経済」という単位はそれゆえ、必ずしも特権的ではないことになる。つまり資本主義について考えようとするなら、国民経済を単位としてではなく、はじめから世界経済を、つまり世界資本主義として考えねばならず、かつそれを均質な空間としてではなく、異質なサブシステムからなる複合体としてとらえねばならない、というわけである。ここには既に完璧に「世界システム論」の発想がウォーラーステインとは独立に成立している。
さてではこのような、それなりに有意義な世界資本主義理解の、どこに弱点があったのか? 『教養』ではすっ飛ばしたこの問題につき、少し考えてみたい(続く)。