「疎外」「物象化」をめぐってあれこれ無秩序に

 考え方はいろいろあって、まず「マルクスの思想は現代経済学・ゲーム理論と整合的である」という大前提から出発する。そうするとここで「だからマルクスも再読に堪える」という考え方も出てくれば、逆に「だったらマルクスイラネ」という考え方も出る。この違いはどちらが正しいか、という問題ではない。要はそれぞれの受け手の側での事情の違いである。マルクスを含めた「思想」によりなじみの深い人文系インテリにとって「だからマルクスも再読jに堪える」という結論には十分に意味がある。こうした層にとってはマルクスと併せ読むことによって、現代経済学・ゲーム理論の理解がはかどる可能性があるからだ。
 ただそれだけで済ますわけにもいかない。
 山形の場合も「だったらマルクスイラネ」という結論は、何の気なしに出されているわけではない。マルクスには激烈な副作用があり、その副作用を勘案するならば、なくてすませられるなら敬して遠ざけるに越したことはない、という判断がそこにはある。この副作用について山形がどの程度深く考えているかは、実はぼくにはよく分からない。いうまでもなく松尾自身もマルクスの副作用については自分なりの問題意識を持っていて、スターリニズムと区別された疎外論ヒューマニストマルクス主義を提示することでその解答としているわけだが、山形はそこまでわかって松尾を批判しているのか、は微妙である。どうせ松尾を批判するなら、「スターリニズムだけではなく、疎外論も地獄への舗装道なのだ!」とはっきり言わないといけないわけだが。


 疎外論的な「人間的本質」の発想がやばい、という指摘自体はもちろん、新しいものではない。古くはハンナ・アレントが『人間の条件』で、問題は「人間疎外」ではなく、自分をそんな御大層な「人間」様にまつりあげて他のことに目がいかない「世界疎外」である、なんて趣旨のことを言っていたが、「疎外論」流行の時代についていえばそれこそ論敵「物象化論」――もちろん疎外論も「物象化」概念を用いるが、ここでは廣松渉流のものを念頭に置く――がこの種の批判を精力的に展開していた。
 キャッチーで分かりやすかったのは見田宗介真木悠介の「からの疎外/への疎外」の対概念をもちいたレトリックである。乱暴に言えば「お金がなくて辛い(お金からの疎外)のは、お金がないと辛い世の中に生きている(お金への疎外)からだ」というわけだ。この伝で言えば「人間性を疎外されて辛いのは、人間性が疎外されていると辛い世の中に生きているからだ」ということになる。より根底的であるのは後者の「への疎外」の方であり、その前提の上に初めて「からの疎外」が成り立ちうる。そしてここでは、疎外を克服するよりラディカルな仕方は当然、「お金」だの「人間性」だのといった欲望の対象(フェティッシュ=物神)を十分に獲得することよりも、そうした欲望そのものから脱却することだ、ということになる。またかわいそうなのはお金のない貧乏人や疎外された人々だけではなく、お金持ちや幸福な善人もまた、実は疎外されていてかわいそう、ということになる。
 物象化論によれば、こういうフェティッシュマッチポンプ的な構造を持っているから、その呪縛のうちにとどまる限り、人は決して満たされることはない(お金はいくらあっても足りない)。となると、より根底的な人間の解放は、後者の路線によってのみなされうる、という理屈がここからは容易に出てくる。しかし実はこの理屈――このような「物象化論」解釈では、批判の対象であったはずの「疎外論」から帰結する解放戦略と五十歩百歩のものしか出てこなくなる。どういうことかといえば、こういう「物象化論」解釈では結局、あらゆる疎外から解放された「無の境地」――ドゥルーズガタリ流に言えば「器官なき身体」が「疎外論」的な「人間性」と言葉は違えど実質的に同じ意味を持ってしまうからだ。


 この手の「疎外論」「物象化論」などの広義の新左翼マルクス主義は資本主義と正統派マルクス主義の両面批判をしていたわけだが、ここで避けられていたのは「あえて言えばどちらがよりましな疎外か」という類の議論であったと思われる。しかしながら「物象化論」のより穏当な解釈によれば、このような議論が出てもおかしくはなかった。つまり非「疎外論」的「物象化論」によれば、「疎外」と「物象化」は避けることのできない「人間の条件」であるということになる。
 雑駁な言い方をすればこれは「型」の問題だ。人は「型」なしでは生きられない。世の中を「型」にはめてみることによってはじめてそこに有意味な秩序を見出し、「型」に合わせてふるまうことによって、有意味な結果を生み出せる。もちろん「型」にはいろいろあり、人がどの「型」に従って生きていくか、については実はそれなりの自由度がある。だから一つ一つの「型」は決して必然的な運命ではなく、それに完全に縛られて生きることは不自由で、時に不幸かもしれない。しかしながら、人は一つ一つの、特定の「型」からならば自由にはなりえても、全くいかなる「型」をも持たずに生きることは、おそらくできない――「物象化論」の含意を、穏健に通俗人生論風に敷衍すれば、ラディカルな人間解放論よりも、むしろこんなところに落ち着くはずだ。
 このような観点からすれば、ブルジョワ自由主義という「型」とマルクスレーニン主義という「型」のどちらがよりましな「型」なのか、といった議論も可能だったはずであるし、またその両者を拒絶するラディカリズムも、「型」そのものの拒絶ではなく別の「型」の模索につながりえたはずである――実際新左翼ラディカリストの少なからずは、社会民主主義への転向・合流やエコロジズムへの転回を通して、こうした道についたはずである。松尾のアソシエーショニズムもまたそうした新たな「型」の追求なのであって、「本来性への回帰」などではないはずだ。


 松尾の疎外論のゲーム論的解釈で個人的に興味深いのは、ある種の「疎外」や「フェティシズム」を「シグナリング」現象として解釈するところである。「逆選択」の困難の緩和方法として、それ自体は無用で無価値な何かが「シグナル」として機能し、そのシグナル生産に過剰な資源が投入される不都合は、それこそ「疎外論」「物象化論」が資本主義的疎外として解釈してきた現象の多くをより簡明に定式化できる。
 おそらくはそもそもこうしたシグナリングのメカニズムなくして、現実の市場経済は作動し得ない。理論的にはともかく、現実的には我々は本格的な市場経済貨幣経済としてしか経験しておらず、そして貨幣とは一種のシグナルであるからだ。
 また松尾は論及してはいないが、おそらく「モラル・ハザード」のアイディアについても、似たような議論が展開できそうだ。たとえば「疎外された労働」「労働力商品」の問題は、雇用関係における「モラル・ハザード」対策とその副作用として理解できる可能性がある。雇用関係においては、雇い人が雇い主のいうことをちゃんと聞いてくれるか、命令に忠実に手を抜かずに働いてくれるかどうか、について不確実性が存在する(モラル・ハザード)があるため、それをカバーする仕組みが必要となる。一時期の新左翼的「労働疎外論」は、今から思えばこのモラル・ハザード回避の仕組みとして、資本主義的な対等取引のイデオロギー――実態としては支配関係、指揮命令関係であるのに、あたかも対等な取引関係であるかのように、労働者は錯覚させられてしまう――を理解する傾向があったと思われる。
 しかしながらこと雇用関係については、実態はそのように単純なものではなかったことは言うまでもない。イデオロギー的な偽装もへったくれもない、端的な暴力や国家権力の担保によってそれがなされる(「まじめに働かないとぶっ殺す!」)こともあれば、もうちょっとソフトな脅し(「まじめに働かないと給料減るよ、首にするよ」)、そして前向きの報償(「まじめに働いたら給料上がるよ、出世できるよ」)こそが重要だったこともある、というべきである。「労働力商品」のフェティシズムに惑わされていたのは、現実の雇用労働者よりもむしろマルクス主義インテリだったとしたら、どうだろうか? 


 しかしここでより重要なことは、こうした「逆選択」「モラル・ハザード」といった病理を病理として判定するための基準、つまりそれらを「疎外」として、疎外されていない本来の境地はどんなものなのか、を提示するのが何か、と言えば、結局のところここで持ち出されるのは、完全競争市場(が仮にあったとしたら、それがあげられる成果)だということだ。もちろんこれは「完全競争市場」そのものではなく「資源の効率的な配分と活用の成果」ということであるわけだが、それを実現する具体的な仕組みの中でもっとも情報効率的なのが「完全競争市場」である(指令経済よりも、民主的話し合いよりも、コミュニケーションの負担がはるかに少ない!)のだから、大概厄介な話である。


 「人間性」を含めた「本質」とか「本来性」とかいった概念自体が、危険であることは認めるが、かといって無用であるともぼくは思わない。むしろそれは注意して使えば有用であるし、総合的にいえば不可欠であるとさえ考える。しかしまず第一に、そのような意味での「本質」「本来性」あるいは「人間的自然」とはあくまでも「理念」「理論的虚構」の水準にしかないものであろうし、また第二に、そのような意味での「本質」「本来性」であれば「市場」とは(そしてたぶん「法」や「国家」とも)矛盾しないものなのではないだろうか。(純然たる理論的虚構にとどめるのであれば、あのおぞましいルソーの「一般意志」だって我々は捨てなくたってかまわない。)


 話はそれるが見田宗介先生の業績は、もちろんいろいろな問題(結果的にはスピリチュアルブームへの加担者と言わざるを得ない――ご当人は冷静に距離を保ったけれども、氏の影響で人生誤った人もいたはずだ。「誤読した方が悪い」とばかりも言いきれまい)はあるけれども、初期の実証的モノグラフだけではなく、中期以降の社会哲学的な作業についても再読の価値がありそうだ。
 たとえば

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

の末尾など非常にシンプルな経済成長礼賛論であり、それを通じてしか環境危機も克服できない、という暴論である。そして7年ほど後、期せずしてぼくも同じ結論に到達してしまったのだ。なんてこった。
 見田=真木物象化論についてはこれだろう。
現代社会の存立構造

現代社会の存立構造

 初期の社会心理研究についてはこれ。旧版と新版両方を示しておく。
現代日本の精神構造 (1965年) (フロンティア・ライブラリー)

現代日本の精神構造 (1965年) (フロンティア・ライブラリー)

現代日本の精神構造

現代日本の精神構造

 冒頭には著名な傑作論文「現代における不幸の諸類型」がある。旧版末尾には『価値意識の理論』からの採録と未発表稿からなる調査方法論があって、こちらもそれなりに価値がある。