カーをちょこっとかじっただけで、モーゲンソーもウォルツももちろんミアシャイマーも読んでいないのに、無理矢理リアリズム国際政治学について考えてみるよ。

 そもそもここでいう「リアル」って何なのだろうか。通俗的な理解ではここでのリアリズムというのは必ずしも「実証的」とか「実現可能性を重んじた」という意味ではないと思う。そもそもまともな社会科学であればそれを実践できているかどうかはともかくそれを目指していないはずはないし。となると「リアリズム」と他の立場を分かつのは実証性とかではなくて、どのような視線が実証的か、何を実現可能とみるか、の違いであるはずだ。
 通常リアリズム国際政治学を他の学派から分かつのは、そのパワーポリティクス至上主義であろう。まず実証的なレベルでは国際社会をホッブズ的な自然状態とみなす。問題はそこから先、つまりそのような観点から実証分析をしたうえで、誰に対して、どのような政策指針を提示するのか、である。
 通常、リアリズムにおいては、ここで「誰」、というときの相手、処方箋の宛先は、結局具体的には一つ一つの国家であって、その集合体としての国際共同体ではない。そして与えられる指針の中身も、その個別の国家の安全保障担当者、ということになる。
 しかもこの場合、たとえば経営学の場合などと違って、いくら地球上にたくさん国家があるからと言って、その数は企業と比べれば知れたものであり、それゆえにそれぞれが抱える事情も有意味に異なるだろう。ことに「大国」と見なしうる国家であれば、互いの間の相違は極めて大きい。だからリアリズム国際政治学者の書く処方箋は、宛先の国家に応じて、内容が異なったものにならざるを得ないはずだ。
 更にその上で、国家がどのような目的を目指すか、についての具体的な考え方の微妙な違いについて検討してみよう。リアリストであれば誰でも国家の基本目標は、まず第一、というより最低限度としてその生存、存続――具体的には何をもって国家の「生存」と見なすか、疑問は尽きないのだがとりあえず――であり、その上でより積極的な国益――これだって具体的には何? ではあるが――の追求、と考えるだろう。問題はそれをどのように達成するか、である。リアリズム国際政治学において伝統的であったのは「勢力均衡」論であったわけだが、近年ではたとえばミアシャイマーなどの名と結び付けられる「オフェンシヴ・リアリズム」では、多少ニュアンスの異なる議論が展開される。オフェンシヴ・リアリズムが「勢力均衡」の概念を否定するわけではなく、実際に国際平和を一時的にでも達成するためには国家間の「勢力均衡」が必要だと認めるであろう。ただしオフェンシヴ・リアリズムは、「勢力均衡」それ自体を、国際社会における国家の達成目標とは考えない。この立場をとる論者は生存、安全を最も確実にする道はいわば覇権国家となることである、と考え、覇権の追求を国家の基本目標と見なすのである。
 とはいえこの覇権とは大体において「地域覇権」であって、必ずしも「世界征服」までを展望するものではない。また「小国」にはそもそも覇権追求という野望それ自体が「リアル」な選択肢ではあり得ないことも、論者たちは認めるであろう。となれば地域覇権国同士の関係においては、「勢力均衡」の達成が自己目的化するとしても不思議ではない。となればこのオフェンシブ・リアリズムも結論的にいえば、伝統的な勢力均衡論と大差ないものになりそうにも思われる。
 そして「勢力均衡」が自己目的化するのであれば、結局のところリアリズム国際政治学の提言は、実際のところいわゆるリベラリズム国際政治学のそれと大差ないものになりうる。国際政治学でいうところのリベラリズムとは、国際社会を必ずしもホッブズ的戦争状態とは考えず、多国間協調による国際平和の達成と維持は可能でありまたそれが望ましい、と考える立場であるが、彼らとて国家エゴイズムの存在を否定しているわけではなく、それゆえの国家の武力行使の可能性を否定しているわけでもない。もちろんリアリズムに比べると、個別国家の武力行使の抑制において、「国際社会による制裁」といった契機に期待をかけすぎるきらいがあるとはいえ、たとえば国連軍の実態が各国軍からの派遣でしかない以上、やはり各国間の国力・武力の一定の均衡を平和の必要条件と見なさざるを得ないことに変わりはない。
 ただしここで問題となるのが、典型的にはアメリカ合衆国がそうであり、かつてのソビエト、そしてひょっとしたら将来の中華人民共和国という、「世界征服」をも目指せそうに見える「帝国」的「超大国」の存在である。こうした国家は必ずしも「勢力均衡」を目指す必要はない。そうすると、こうした国家に諮問するオフェンシヴ・リアリストは、ひたすらパトロンたる超大国の利益にだけ奉仕することとなる。
 そこで気になるのは「最強国が世界征服すれば、それでみんな幸せになるの?」ってことだ。もちろんオフェンシヴ・リアリストはそんなこと気にしないんだろうけれど、帝国臣民ではないこちらとしては気にもなろうさ。ひょっとしてハート&ネグリは暗にこう主張したいのかな? 


 ここで経営学・経済学とのアナロジーを展開してみたい。企業は競争のさなかにいて、どちらかというと競争を逃れたいとさえ思っている。だから差別化や革新に走り、その結果は公益に貢献してくれるわけだが、その動機はあくまで利己的なものだ。そして企業には機会主義的行動(つまりズル)とそして何より独占への動機も発生しうる。そして独占企業に奉仕する経営学、ってものもありうるわけだ。
 経営学は基本的に個別企業の私益に貢献することを目指す学だが、それがお目こぼしを受けているのは、あくまでも経済学が存在し、企業が存在する市場という環境が、「見えざる手」によって「私悪すなわち公益」の可能性を開いてくれるからであろう。そして経済学の正統な教えは、「最終的には「独占企業に奉仕する経営学」はうまくいかない」と示唆する(計画経済の失敗によって?)。
 さて我々はこのアナロジーによって「オフェンシヴ・リアリズムはうまくいかない」と言いうるか? 「世界征服は割に合わないよ」と。


危機の二十年――理想と現実 (岩波文庫)

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国際政治―権力と平和

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Theory of International Politics

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大国政治の悲劇 米中は必ず衝突する!

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「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書)

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