本田由紀『「家庭教育」の隘路』(勁草書房)

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

 店頭で少し立ち読み。
 本書は若年労働市場研究と前後して進めてられていた、ワーキングマザー研究のまとめである。既に共同報告書が刊行されており、前作『多元化する能力と日本社会』でもその分析が紹介されていたが、ここで改めて議論をまとめ直している。


 子を持つ親としてまったく他人事ではないネタであり、データとその分析自体大変に有意義だと思うのだが、ことに興味深いのは、あとがきでの本田の述懐である。
 前著が大佛次郎論壇賞奨励賞を受けた際の講評を読み、「あちゃー」と頭を抱えたのはぼくだけではないはずだ。端的には以下の橘木俊詔のコメント:

 これまでは学力、つまりメリトクラシーの下で人の能力が判断されてきたが、これからはコミュニケーション能力など勉強以外の能力が重要になると主張し、説得力がある。このためには母親の役割の見直しが必要と述べるが、3歳児神話や母性の尊さを否定してきたフェミニストの反応が知りたいものである。

http://d.hatena.ne.jp/debyu-bo/20061214/1166027831
である。ぼく自身は本田の、ポストメリトクラシー、つまり社会の新たな局面、発展段階を示すものとして「ハイパーメリトクラシー」を捉えるやり方には否定的であったわけだが、それ以上に、仮にそれが正しかったとしても、この分析が一種の煽りとして機能してしまうことに変わりはないのではないか――つまり橘木のような「誤解」を必然的に誘発してしまうのではないか、ということが大変に気になったのである。
 しかしどうやら誰よりもここで頭を抱えたのは、本田自身であったようだ。本書のあとがきで本田は、自分の分析が橘木のような「誤解」を生むことへの危惧を率直にもらしている。本田の分析によれば「がんばって子育てするかしないか、そしてそれができる条件があるかないか、という格差が、更に子どもの社会的達成における格差に結びつき、格差は再生産される」という傾向がたしかにあるのだ。当然本田はここで、主として公共政策によるこうした格差の解消を、という主張を展開するわけだが、これが世間には、そして現に子育てをしていて、本だの著作に触れる程度の問題意識のある母親たちに対しては、公共政策への要求以上に、自分たちのサバイバル、せめて自分の子どもはきちんとしつけてきちんと教育してあげよう、という方向への促しとして働いてしまう――その結果格差を温存更には拡大し、またこうした問題意識ある母親たちを更に「パーフェクトマザー」コンプレックスへと追い込んでいくことの危険に、本田は十分に自覚的である。


 それにしても、この隘路をどう抜ければよいのか? あるいは、果たしてそこに隘路など存在するのか? 
 そもそも問題意識を持ち、子育てに努力を傾注することは悪いことなのか? 後ろめたく思わねばならないようなことなのか? 必ずしもそうではあるまい。子育てに努力して、自分の子どもたちのために資源を投入することは、必ずしも他の子どもたちのチャンスを、資源を奪い、未来を狭めることではないはずだ。
 社会的地位達成ゲームは、必ずしもゼロサムゲームではない。たしかに短期的にはそれは、たとえば限られた名門校の入学枠とか、一流企業への就職とかいった、固定された資源を奪い合うゼロサムゲームとしての様相を呈するし、またキャリア形成、人的投資はしばしば後戻り不能、やり直し不能の局面にも直面する。それゆえ受験とか就職とかいった局面にのみ目を取られてしまうと、それはゼロサムゲームに見え、そこでうまくやることは、必ず誰か他人に割を食わせることになる、見えてしまう。しかし実際には必ずしもそうではない。名門校の入学枠や一流企業の就職枠でさえ、長期的に見れば需給バランスを反映して変化する。更に言えば経済成長が順調に進行し、社会的な資源の総量自体が増大していけば、そしてその中で有意な仕事と社会的地位の総量も増えていけば、社会的地位達成ゲームは必ずしもゼロサムゲームとはならない。
 「一億総中流」と呼ばれた時代にも、格差ははっきりと存在していた。それがさほど重大な問題として認知されなかったのは、もちろん「幻想」の中流意識のせいであったわけである。しかしこの中流意識にも、現実的な根拠はあった。すなわち、ほとんどすべての人々にとって、生活水準の向上が現実に起きていたのである。つまりそこには、必ずしもゼロサムゲームではない状況が発生していた。


 もちろん「自分(の子ども)さえよければ」という考え方は合理的ではない。人間は、子どもは社会的な存在であり、エゴイストであると同時に、共同性と連帯をも必要としている。初等中等教育においては、みんなで一緒に伸びていくことの意義はきわめて大きい。経済学的に言うところの、外部効果である。だから公共政策への期待はもっともだし、コミュニティレベルでの努力の必要ももっと言ってもよい。しかしながら、ヘタレ中流インテリの親たちが、「自分(の子ども)によかれと努力する」こと自体に、やましさを感じる必要はない。他の子どもたち、とりあえずは自分の子どもの周囲の子どもたちにも、もっと配慮しようよ、と言うだけでよいはずだ。