カール・シュミットの「制度保障」概念について:石川健治『自由と特権の距離』読書ノート

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 1928年の『憲法論』におけるカール・シュミット自身の「institutionelle Garantie」なる言葉は、「何かを制度的に保障する」のではなく、「何らかの制度を保障する」という意味である。
 この場合の「制度」の中に基本権は入らない。シュミットの解釈によるワイマール憲法はあくまでも市民的法治国、リベラル・デモクラシーの憲法であり、その主眼は基本権である。ただし基本権、ことにその中核たる個人の自由権は前国家的、超国家的権利であり、国家によって保障されるまでもなく存在しており、国家はただそれを承認し保護するだけである。
 それでは「institutionelle Garantie」において保障されている制度とは何かと言うと、このような意味での個人の基本権ではないにもかかわらず、ワイマール憲法によって実際に保障され、特別の保護が与えられているいくつかの制度である。
 わかりやすいのは石川健治が「(公法上)の制度体」と呼ぶもの、シュミットの言葉ではInsititutionで、具体的には官僚身分の特権、教会の自治その他特権、地方公共団体自治権である。これらの制度(体)はほとんど「中間団体」と言い換え可能である。近代国家の主権の絶対性確立、それと対をなす個人の基本権の析出と承認の間で、引き裂かれ、解体されていくはずの伝統的中間団体の既得権のうち、にもかかわらずワイマール憲法によって実際に(法律的にではなく、憲法的に)保護されてしまったものについて、シュミットは「institutionelle Garantie」なる概念を適用している、というわけである。
 しかしこの時点でシュミットの言う「institutionelle Garantie」は「制度体保障」にはとどまらない。シュミットによれば婚姻、相続、そして所有権(Eigentumは「所有(権)」とも「財産(権)」とも訳せてしまうが、今日の日本の私法用語では、財産権が上位概念として物権と債権を含み、物権の下位概念として所有権がある、という位置付けである。こう考えると、この文脈でシュミットの言うEigentumは狭義の所有権の方に対応すると考えた方がよい。理由は後述)など、いくつかの私法上の制度、シュミットの言葉ではInstitut、石川の訳語では「法制度」もまた「institutionelle Garantie」の対象なのである。
 もっともこの難点は31年の論文「ワイマール憲法における自由権と制度保障」では解消されている。というのは、公法上の制度体≒中間団体(Insititution)に対しては「institutionelle Garantie」、私法上の制度=法制度(Insititut)に対しては「Institutsgarantie」という具合に明確に別の語が割り当てられているからである。
 むしろやっかいな問題は以下の通りである;シュミット(の解釈する市民的法治国の理念)にとっては、所有権は自然権、真正の基本権であるはずである。しかしながらワイマール憲法は所有権について「保障」なる語を用いてしまっている。他の財産権にかかわる契約の自由だの営業の自由だのは、シュミットにとっては真正の基本権ではなく、それゆえ憲法によって制度的に保障される必要さえなく、単に法律的に保障されればよい(だからEigentumは現代日本の法用語では「財産権」ではなく「所有権」である)。しかし所有権についてはそうはいかない。ワイマール憲法の条文上そうだというだけでなく、シュミット自身もまた、所有権が前国家的自然権であると同時に、単なる法律上の制度でもあることを認めてしまっている。