話題の佐藤優国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)[amazon, bk1]であるが、梶谷懐氏やbewaad氏の評価が正当だと思う。佐藤氏と問題意識を共有しながら、なおかつ地政学派(ロシアスクール)だった佐藤氏とは別派閥の、チャイナスクールや狭義親米派に属している外交官がおられるなら、是非その意見/異見を聞きたいものである。


 本田由紀『若者と仕事 「学校経由の就職」を超えて』(東京大学出版会)[amazon, bk1]を読みながら考えるのは、この業績自体への違和感というよりは(高卒就職についての師匠苅谷剛彦らの所説や、あるいは日本労働研究機構での自分たちのグループのかつての分析への自己批判とデータの洗い直し、あるいは「歴史としての高度成長」へのまなざしなど、学ぶところは多い著作である)、経済・産業社会学という学問の現状への違和感である。
 経済・産業社会学というのは、経済学における(拙著『経済学という教養』のことばで言えば)「実物的ケインジアン」のカウンターパートであり、つまり経済における非市場的・組織論的・共同体論的・その他人間的・社会的な諸々のファクターの絡みあいを重視するわけだが、しかしいくら話を複雑にしても、それらは結局、経済学のことばでいえば「供給側」「実物面」に終始している。つまり彼らの分析には「貨幣面」「(ケインズ的な意味での)需要側」の視点が欠如している。ぶっちゃけた話、「貨幣の社会学」はあっても「金融の社会学」には語るほどの業績はない。「貨幣の社会学」だって、実際にはマルクスの物神性論をいじるのが関の山で、そのアプローチからこの先何かが出てくることは期待できない。
 本書の場合も、結局のところ現在の若者の就職難の主因はマクロ経済的な要因=不況であることを認めた上で、ミクロ的な要因としての戦後日本の「学校経由の就職」慣行のほころびがこのタイミングで出てしまって状況をより悪化させていることの分析が主題となっているし、政策提言もこのレベルでの、つまり若年労働市場における学校の位置付けの再編、というミクロ的「構造改革」提言に終わっている。
 しかし経済社会学には、本当にマクロを語ることはできないのだろうか? 
 これを言ってしまうと正面から喧嘩を売ることになりかねないが、しかしこの際、膿は出しとくべきだろうから、言ってみよう。特にミクロとマクロにおける政策割り当ての重要性を力説してきたリフレ派、野口旭氏や田中秀臣氏は、現代の構造改革主義からマルクス主義者までを骨がらみにしている「型」、「構造という思考の罠」についてしばしば言及していたが、実のところ社会学というのは――少なくともデュルケムからこっち、20世紀のあらかたは――まさにこの「型」の科学であった。デュルケムの「社会的事実」もポスト構造主義の「エクリチュール」も、更にはルーマンの「システム」もブルデューの「ハビトゥス」も、みんなみんなこの「型」、つまり「構造」理論にはまりこむか、あるいは積極的にはまってはいなくとも結局足をとられてしまったか、であった。
 そのどこがおかしいのか。どの辺でこうした潮流は、かつての威信を失ってしまったのか。思うにそれは「構造」の「再生産」という理論構図にあったのではないか。大雑把に言えばこれらの「型」においては、個別的な実践主体としての人とその社会集団に先立って、人々の思考と行為をかたどり方向付け拘束する「構造」が存在し、その「構造」は人々の社会的な生の実践を通じて再生産されていく――という構図があった。しかしながら「ドーキンス革命」以後の我々には、ここに抜け落ちていたものが何かは明らかである――「状況」あるいは「環境」だ。
 実はドーキンスの理論も、ある意味では「型」を継承してはいる。実のところ、彼の言う「遺伝子」も「ミーム」も「型」「構造」の一種だ。では一体ドーキンスのどこが新しかった(というのは正確な言い方ではないが)のか? 「進化」ではない。より正確に言えば「構造」の変異のメカニズムとしての「突然変異」ではない(むしろそこはブラックボックスだ)。そうではなく、「構造」というマトリクスを実現する生き物個体や社会的実践が、そこにおいて適応の善し悪しを自然選択のテストにかけられるフィールド、すなわち「環境」というファクターが入っているところが、ドーキンスの理論のポイントである。
 ところが従来の「型」にはまった「構造」社会学のほとんどは、「構造」と「環境」の区別を見失っていたのではないか。ドゥルーズガタリ構造主義批判や、あるいはルーマンのシステム論なども、この辺の問題に気づいていたが、どういうわけか一種の袋小路に入っていった――ありていに言えば、外界との生産的な対話のルートが意図してかせずしてか断ち切られ、カルト的に自閉していった。その結果が今日の、進化的認知科学による社会科学包囲の始まりにつながっているのではなかろうか。
 社会学において単なる「全体」とは区別される意味での「マクロ」のレベルについて語りうるとしたら、それは(ルーマンの言う意味でのそれと無関係ではないが、それにはとどまらない)「環境」ではなかろうか。そこにはもちろんマクロ経済的な「景気」もはいるが、それだけではない。さて、経済学には捉えられないが、社会学には捉えられる「マクロ」現象は果たして存在するだろうか。
 本田の準拠理論はなんとルーマンのシステム論らしいのだが、そこであえてその土俵で付き合うなら、こんな感じだろう――全体社会の脈絡で言うなら、個別の機能システム、更にシステム間関係が(ミクロ経済学に対応するという意味での)ミクロ社会学(だから普通に言う「ミクロ社会学」つまりゴフマン流の相互行為分析や合理的選択理論とは直接の関係はない)にあたり、システム間関係のおかれたコンテクストそのもの、システムにとっての環境というのがマクロ社会学の対象、ということになりそうだ。しかし困ったことに、ルーマンの枠組みだともちろん「環境」という実体は存在しないわけで「個別具体的なシステムにとっての、その場その場での環境」という形でしか、差し当たり現われないはずなのだ。
 もちろんそのような事情は、実は経済(学)にとっても同様なのだが、しかし経済においては、マクロ的な「環境」を表象する仕組みとしてのマクロ的な経済指標(物価、GDP、等)が存在するが、社会にはそれに当たるものはない。

 とまあそんな妄想じみた話ばかりをしているわけにはいかないので、本田の本に移るなら、もちろんここでも政策提言はミクロレベルのそれに限られている。(1)従来高校が果たしていた職安機能を学校から切り離し、新規学卒者専門の就職支援事業を多元的に展開する、(2)学校において「教育の職業的意義」を回復するために、具体的には後期中等教育を原則的に「基礎専門高校」化する、という提案のどちらも、基本的に「供給側」の議論である。ここにはミクロ的な意味での「需要側」である雇用者、実業界の側に何を求めるか、またマクロ的な意味での「需要側」に対して学校教育は何かできないのか、という問いかけが欠けている。
 このような批判は超越的に過ぎるのでもう少し具体的にいえば、「教育の職業的意義」の見直しと再建という趣旨にはもとより異論はないが、そのために職業教育そのものを充実する――というより後期中等教育の柱とする、というのはかなり危うい議論だと思う。そもそもそれを公教育でやる理由が見つからない。公教育における職業教育のあるべき姿は、著者が「市民的意義」の範囲に含めている「消費者教育、金融教育、司法教育、政治参加に関する教育、メディア・リテラシー、環境教育、食育、育児・介護に関する教育など」と同列のそれ――「はたらくとはどういうことか」についてのリベラル・エデュケーション――にとどまるべきであり、より特定化された、直接に職業生活への準備、訓練の機能を果たす、狭義の職業教育の基本的なビジョンは、専門学校・大学等の高等教育(現代では後期中等教育デファクトの義務教育――というより標準教育となっていることに鑑み)と、企業の導入教育を主とし、公的職業訓練、そして若干の「基礎専門高校」を従とする、とすべきではないか。
 まず第一に、不平等・格差是正という観点を括弧に入れるならば、狭義の職業教育は基本的にはその成果が個人に帰属するものであると考えるべきであるから、受益者負担でいくべきである。教育への公的投資は、外部効果の高いと思われる初等教育に市民教育、そして学術研究の担い手に対する先端的高等教育に限定されべきであろう。 そして第二に、ビジネスのスピードに学校がついていけるとは期待できないし、また期待すべきでもない。職業教育を公教育にゆだねるということは、労働市場の需要側、ビジネスの側での人材需要の時に劇的な変転に、普通学校が振り回されるということを意味する。基本的には市民教育の担い手たるべき普通学校を守るためにも、公教育に職業教育の負担をあまりかけるべきではない。
 さてではどうすればよいか? もちろん、リベラル・エデュケーションとしての広義の職業教育を拡充するのは大賛成である。しかしより重要なのは(ひょっとしたらこれが「マクロ」につながるのかもしれないが)学校における「裏カリキュラム」、生徒たちのサブカルチャーの再建ではなかろうか。このサブカルチャーはもちろん、生徒会とかクラブ活動のことではない(時にそれとは重なるだろうがそれ自体ではない)。まだしもかつての不良学生の「番」の秩序の方がそれに近いが、一見その対極に見えようが、かつての特に文系大学院を支えていた、学生・院生の自主的な非公式勉強ネットワークなどもそこに含まれるであろう。学校においてこのような「裏カリキュラム」が自生し、更にそれが外の労働市場とつながるようになれば、教育と職業の間の断絶状況は、ずいぶん改善すると思われる。
 問題はもちろん、果たしてこんなインフォーマルな仕組みを、公的な政策介入で持って作ることができるとは到底思えない、ということだが。