立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院)[bk1, amazon]、いつも思うのだが、立岩さんはタイトルのつけ方(本書もそうだが、本書の原型となった『現代思想』の連載「生存の争い ――医療の現代史のために」もまた見事だ)をはじめとして、ことばのひねり出し方が非常にうまい。文章も非常に巧みである。とは言え、普通の意味でのうまい文章ではない。たとえばアドルノを引き合いに出してよく言われるような、「安易にわかられる・わかった気になられることを避けるために、わざと難しく書く」というやり方をとっているようにも見える。ただこのアドルノを引き合いに出して正当化されるような文章とは、立岩さんの文章の難解さは少しばかり違う。事柄自体が複雑で手におえない、そういう主題を、丹念に、できるだけその事柄の複雑さ、難しさそれ自体をわかってもらえるように、愚直に書く、ということを目指しているように思われる。立岩さんが難しいことを書いている場合には、問題は本当に難しいか、あるいは立岩さんの思考がまだ不十分で、問題についての見通しをまだきちんとつけていないか(率直に言えば、『自由の平等』の場合はこちらに当たると思う。この本で言われていることのうち、わかりやすくかつ有意義な部分は既に『私的所有論』で言われてしまったことであり、それを超えること、特に所有レベルには還元しきれない、市場レベル固有の問題については、立岩さんの思考はいまだに十分煮詰められていない)のどちらかである。少なくともそこには、俗流アドルノ派的なこけおどしはない。立岩さんは本当に慎重に、事態を正確にあらわし、かつ読み手にもそれがわかってもらえそうな表現をつねに探している。
 そして本書であるが、タイトルの巧みなことはもちろんだが、その中身の文章がある種(悪い意味ではなく)文芸作品と呼べるものになっていることに注意を喚起したい。とはいえ本書は、これまでの立岩さんの単行本とは違い、実証的な調査研究のモノグラフとしても読めるものになっている。ご本人は「実証研究としてはとっかかりに過ぎない」と謙遜しておられるし、ある意味でそれはそのとおりなのだが、日本の医療社会学の現状から言えばやはりパイオニア的な意味をもつだろう。
 本書はALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者や家族、その他関係者の証言を公開された文書を中心に集め、分析したものであるが、本文の過半はまさにその引用そのものからなっている。「ベンヤミンみたいだ」という感想をあえて口にするのはあまりにかっこ悪いことだが、立岩さんの手で見事に配列されたこの引用そのものが、その圧倒的な量の迫力もあるが実に読ませる。もちろん「読ませる」だけではなく、この国における「安楽死」についての通念を裏切るファクト・ファインディング――それはこの間市野川容孝が執拗にこだわってきた問題でもある――もまたそこから浮かび上がってくる。
 ぼくが現在日本でもっとも信頼している左翼知識人というのは、実は立岩さんなのだが(あと決して全幅の信頼を置いているわけではなく、結構ひやひやしながら見守っているという感じなのが小泉義之さんである。『現代思想』11月号での二人の対談はとても面白い――ことにピンカー『人間の本性を考える』が出たばかりの昨今というタイミングで読むならば。)、それはなぜかというと、まずはもちろんこのような研究者、書き手としての誠実さによる。そして第二に、そこから浮かび上がってくるそこはかとない――内田樹の言い方を借りれば――「とほほ」感である。自信がない、というのではない。何ごとか正しいこと、正義を語ろうという人は、つまるところ「権威」を打ち立てなければならないのだから、自信がなければ困る。しかし同時に何ほどかの「とほほ」感がないのも、やっぱりこまりものだ。
 「誰にでも間違いはあり、無論自分も例外ではない。それを認めることによって責任逃れをするつもりはないが、やはりひょっとしたら俺は間違っているということもありうる……」立岩さんはそういう気分を確実に読者に届ける力があるように思う。それは問題の複雑さ、手に負えなさをきちんと読み手に伝えようとする姿勢にあるのではないか。
 『自由の平等』をくさしたついでに一言。本書はリバタリアニズムならびに古典的リベラリズムの分配に対する消極論を批判することを目的のひとつとしている、とぼくは読んだ。ぼく自身としては、それより前にやっておくべきこと、つまり古典的リベラリズムが分配に関する消極主義をとることで何を守ろうとしているのか、それは守るに値するのか、は必ずしも自明ではないので、それを確認しておく必要がある、と思った。『リベラリズムの存在証明』はとりあえず、古典的リベラリズムの土俵の上にとどまる限りで何が言えるのか、を考えた本だったが、それは立岩さんも言うとおり、あまり成功しているとは――何か新しいことを提示できたとはたしかに言えない。それはひとつには、古典的リベラリズムが守ろうとするものの核心に、まだ十分に触れていなかったからではないか。
 リフレ論争のおかげで「ケインズ主義」についての考え方が根本的に改まったがゆえに可能になったことなのだが、『経済学という教養』でやろうとしたのは、権利論的なスタンスをとっていた『存在証明』の時よりもやや「功利主義」寄りの方向にシフトすることによって、古典的リベラリズムの核に対して、別な角度からアプローチしなおそう、ということである。それは"Taking Paretian Liberal seriously"とでも言うべきスタンスとなった。そして「平等・対・不平等」という軸よりもより根本的な対立軸として「弱肉強食・対・共存共栄(含むパレート効率的競争)」を重視すべきだ、という提案がなされたわけである。(付言すると橋本努の「成長論的自由主義」の問題提起もほぼ同じことを言っていることになるはずである。と言うより、おそらく橋本くんの方が早い。)
 そう考えると『経済学という教養』は、『自由の平等』の出鼻をくじいた仕事である、とうぬぼれていいのかもしれない。もちろんそんなことはぼくは意識してはいなかったが。しかし立岩さんのことを全然意識していなかったわけではない。ぼくが考えていたのは、立岩さんの予告している『停滞する資本主義のために』の出鼻をくじく、と言うよりもその本の出版を不可能としてしまうことであった。もちろん悪意でそうするわけではない。立岩さんに前向きな形でしかし根本的に考え直してもらうこと、プロジェクトをあきらめるのではなく、重大な針路変更をしてもらうことこそが本意である。ぼくの介入が成功したならば、おそらく『停滞する資本主義のために』という題名の本は出ない――とはいえ本は出てもらわなければ困る。ただしその本のタイトルは、もしぼくの目論見がうまくいっていれば、まったく別のものになっているはずだ。
 ……そのためにもちくま新書のほうを頑張らないと。