アントニオ・ネグリマルクスを超えるマルクス 『経済学批判要綱』研究(作品社)[bk1, amazon]、どーにもうざい。なぜこんなにうざいのか。前提とされているマルクス主義的教養が既に過去のものとなっているからか。そのことに無頓着に本書を流通させようとする連中のバカさ加減にむかつくからか。

 と思いつつ『コンクリート・アイランド』の前に読んどこうとバラード『クラッシュ』ペヨトル工房、版元倒産)をめくっていてはたと気が付く。やっぱりネグリはおめでたいのだ。マルクスプロレタリアートというのはドゥルーズは多分気づいていたんだろうが変態、倒錯者である。貨幣というフェティッシュにやられた変態がブルジョワジーだとしたら、機械というフェテイッシュにやられたのがマルクスプロレタリアートだ。問題は、そんな機械フェティシズム(普通に言う「メカフェチ」なんてなまやさしいものじゃない)なんて凄いビョーキには、現実の、生身の人間はそうそうかかれるもんじゃないし、またかかりながらもそれに適応して生き延びることは相当難儀だ、ということだ。ドゥルーズ流に言えば「欲望する機械は壊れることによってしか作動しない。」だからほとんどの欲望する機械は生まれてはすぐさま壊れて消えていく。まれにほんの少しのものだけが、生き延びて再生産され、安定したパターンを形成して世界を変えていくのだが、そういう新種が登場するまでは無数の変種の屍が累々というわけだ。そして多分「機械フェティシズム」に適応して生き延びた新種は、もはや我々と同じ「人間」ではない「怪物」だろう。だから小泉義之は「怪物を肯定せよ」と言うし、ハンス・ヨナスは「人類を生き延びさせよ」とそれぞれ正反対の立場から言うのだ。

 バラードの70年代三部作というのは、この機械、テクノロジーへのフェティシズムについての先駆的分析だと言える。もちろんバラードが描いているのは、いまやほとんど我々の現実と地続きの世界だが、まだまだ過渡期だ。テクノロジーを新たな欲望の対象とする新種の「怪物」はまだこの地上には登場していない(そんなものが本当にありうるのかどうか自体実はわからない)。しかしこの「怪物」への予感はたしかにある。テクノロジーに魅入られて人間以外の何かに変貌しつつ、しかし「怪物」になりきれずじたばたする者たちが描かれている。

 本書を見ても、ネグリの「反人間主義」は残念ながら、とてもここまで及ぶようなものではないようだ。「政治主義」ってのは所詮「人間」の手の内じゃないか。