小泉義之『生殖の哲学』河出書房新社)[bk1amazon]を読んで頭を抱える。相変わらずあちこちにアラやでたらめが目立つ。しかし今回は基本的に有意義なことを書いているような気がしてならない、というか、気分のレベルでは肯定するぞ私はとりあえず。

 前著『レヴィナス』ではしめくくりが「繁殖」論であり、次なる課題として肯定的思想としての「人間家畜論」が提起されていたのだが、その展開が早くもここに開始されている。それは『ドゥルーズの哲学』においてよりも明快かつ積極的に、ドゥルーズ継承のひとつのあり方をネグリ&ハートなどよりまっとうに提示するものになっている。

 時論的にいえば本書のテーマは優生思想批判の批判である。既存の左翼の生殖技術批判、生殖技術を悪しき生−権力と見て社会的にコントロールしようという志向を批判し、むしろ逆に「できることはなんでもやれ」と生殖技術の社会化、その肯定的な生−権力への奪還を主張するその論法は一昔前、科学批判以前の伝統的進歩主義左翼を思い起こさせる(生殖技術に女性解放の希望をかけたファイアーストーンなど旧ラディカルフェミニストも)。実際それだけなら旧左翼と、そしてネグリ&ハートと変わらないわけだが、一点重要な違いがある。解放された生殖技術の恩恵をこうむる・収穫を受け取る主体は、われわれではない――プロレタリアートでもなく、人間でもない。それは怪物たち、生殖技術によって出現するであろう怪物たち――つまり、ダナ・ハラウェイのいう意味でのサイボーグ――である、というのだ。ここにその思考はマルクス主義的左翼の臨界を越え、逆説的な形でヨナスやレヴィナスと通じていく(ヨナスやレヴィナスにとって来るべき次世代はなお「人間」であろうがしかしそれはやはり「他者」である)。あるいは『ナウシカ』を思い出されてもよい。これに比べればネグリ&ハートの「マルチチュード」なんてしょせん人間であるから、たかがしれている。

 もちろんこうした議論はある意味過度の楽観主義とも言える。そして本書には、それへの戒めにつながりうる議論も見られる。すなわち、生殖技術・優生思想とは人間家畜化であるわけだが、人間家畜化はすでに既定の事実であって否定してもしようがない。しかし人間家畜化が家畜化の一種である以上、しょせん優生思想にできることもせいぜいそんなところでたかが知れている。自然選択と人為選択は結局のところ連続しているのであり、生殖技術もダーウィン的進化の地平を越えられない――と。だとすれば、アホな優生思想家が夢見るような「神のごとき人々」も期待できないのと同じくらい、小泉が期待する「想像を絶する怪物」も望み薄ではないか、とぼくなどは思う。

 しかし一応この「怪物」について考えてみることは意味のあることではないか。時に「怪物」を生む生殖技術を、そして自然を肯定できないことには、何事も始まらないのではないか。この問題提起は至当であると思える。