いいかげんスレが延びたので

 また仕切りなおして上げます。
 山形氏がクルーグマンの「生産性、所得分配、失業」の話をしていたので、まず、生産性について昔書いたことを転載、リンクしておきます。ここまでの議論では「経済学が社会学を追い詰める」という感じにともすればなってますが、経済学で言えることもたかが知れています。
「生産性のメカニズムは実のところ経済学にとっては解明の対象と言うよりは議論の前提である、という印象はかつて労働問題を学んできた私自身がかねてから抱いていたものである。
 たとえばこのことは、現代マクロ経済学の主潮流となった内生的成長理論には明確に当てはまる。内生的成長理論はかつての経済成長の理論モデルでは外生変数、モデルを作る際に前提として与えられていた技術進歩、生産性上昇を、モデルの中で決定されてくる内生変数として取り扱うところにポイントがあるわけだが、それにしたって、やれ、規模の経済がはたらいて(要するに、たくさん作れば作るほど単価が安くなって)だとか、人的資本の蓄積によって(仕事に慣れたり訓練を受けたりして労働者の練度が上がって)とか、知識資本の蓄積によって(新技術の開発がうまくいって)とか、いった常識の範囲に属することを、きちんと数理モデルにできるようになった、というだけのことだ。数理モデルにできるということの意義はもちろん存外に大きいが、過大評価も慎まなければいけない。
 重要なのは、それがその名前が素人に与えかねない印象ほどには、技術進歩、生産性上昇の具体的メカニズムを十分に理論化した、とは決して言えないということである。教育訓練投資や研究開発投資が生産性の向上をもたらすメカニズムについての数理的な記述をそれは与える。しかし実は肝心なことはほとんど何も解明されていない。いくらの金をかけた投資が、ではなく、具体的に、その金を使ってどのような研究開発とか教育訓練とか組織設計とかをすれば生産性が上がったり新製品ができたりするのか、についてはそのモデルはほとんど何も語らないのだ。
 他方現代ミクロ経済学の組織理論においても、企業組織の「組織」としての側面、どうすれば情報が効率的に処理されるかとか、どうすればメンバーの動機付けがうまくいくか、といった議論が中心で、その「企業」としての側面、どうやって新しい事業を興してそれを成功させるか、という問題についてはほとんど寄与するところがない。というよりそもそもそれが通常の意味での経済学が理想とするような「科学」の対象となるのかどうかさえさだかではない。
 この意味での「企業」の研究は今なお経営学の領分である(このあたり高橋伸夫『経営の再生』有斐閣、など参考になるかもしれない)わけだが、それは結局のところ事例研究となるしかなく、更に言えば、訳の分からない説教となることを避けようとすれば歴史学になるしかないように私には思われる。実際経営戦略論の父たるアルフレッド・チャンドラーは経営史学者であるし(『経営組織』実業之日本社、『経営者の時代』東洋経済新報社、『スケール・アンド・スコープ』有斐閣。なお経営史学の教科書としては個人的には大河内暁男『経営史講義』東京大学出版会、がおすすめ。)、大立て者マイケル・ポーターも『国の競争優位』(ダイヤモンド社)ではかなり歴史的アプローチに接近してはいないか? 
 クルーグマンは本書[『クルーグマン教授の経済入門』]では内生的成長理論について特に何も言っていないが、生産性についての経済学者のおしゃべり一般を「宴会の雑談に毛の生えたような」「しろうと社会学の爆発」と片付けている。こう言われてカッとなる経済学者は多いだろうし、それ以上に経営学者、産業社会学者は頭にくるに違いない。生産性のメカニズムこそは、マルクス経済学、(旧)制度学派経済学残党(具体的にはフランスのレギュラシオニストアメリカのラディカルズ)、そして経営戦略論、生産管理論、労働過程論のまさに中心課題であるのだから。しかしながら「しろうと社会学」ならぬ「くろうと社会学」による生産性研究においてもなお、「生産性が上がった場合にはこのようなことが起きている」とは言えても「こうすれば生産性が上がる」とはとても言えないのが現状ではないか。」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks9811.htm


 リフレと左翼との関係については、svnseedsさんのところでワルモノたちがdojinくんをいじってます。ぼくもどっちかというとワルモノさんたちの側です。というかまるで俺の代弁してくれてるみたいだよみんな。
http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/comment?date=20051118#c


 Apemanさんとこでは、なんと「たいむぽかん」氏が正体をあらわしています。
http://hpcgi3.nifty.com/biogon_21/aska/aska.cgi
273。ちょっと邪悪すぎ。

教育の政治経済学(含む「経済の教育社会学」by末廣昭)おさらい

 出発点はやはりボールズ&ギンタス『アメリカ資本主義と教育』の「対応理論」ということになるのか。ところでボールズ&ギンタスはもともと、開発経済学で人的投資としての教育政策を研究していて、それがあまりうまくいかないので考え方を変えたのではなかったか。
 ボールズ&ギンタスの議論は、主流派風にいえば学校教育を実効的に生徒の能力を上げる人的投資としてよりは、もともとの能力を示すインデックスとみなす、「シグナリング」の考え方にのっとっている。ただしそのもともとの能力を生来のものではなく、階級的な出自に規定されたものと見なすわけである。この辺りで彼らの議論は、ブルデュー文化資本論などとも呼応している。
 しかしいずれにしても、ベッカー、シュルツの人的資本理論が、たとえネガティブに評価されることが多いとはいえ、議論のベンチマークを提供しているといえよう。


 ところでここで時代を一気にさかのぼり、古典派の議論まで行くとどうなるか。そもそもスミスの場合には、人的投資という概念がほとんどない。スミスにとっての学校教育の意義は、人的資本とはまったく関係がない。まずジェントルマン層の子弟のための学校は大学である(その前は家庭教師)。そしてスミスの大学論はこれはもうほとんどストレートな自由化、民営化論に他ならない。しかも大学教育の投資としての意義についてはほとんど論じられない。
 では庶民層のための教育はどのようなことになるのか? もちろんスミスの時代、18世紀後半にはまだ義務教育はない。にもかかわらずスミスは『国富論』で庶民層子弟のための無償の義務教育を提唱するのだが、その理由は人的投資とは関係がない。それは基本的に治安対策である。読み書きができるようになれば、庶民は狂信(政治的・宗教的)に惑わされなくなる、というのである。大人のための教会に対してスミスが要求する機能も基本的には同じである。
 19世紀、産業革命下の工場法による児童労働規制、そしてそれとタイミングを合わせて進行していく学校教育機構の整備を、どの程度までこのスミス的発想の上に位置するものと見なすか、には議論の余地があろうが、議論の出発点にはできるのではないか。
 しかしスミスは、同業組合と徒弟制の話をしているのではないか? 無給での徒弟修業を学校教育のような投資とみなし、その後の高賃金でその投資は回収される、という議論を展開してはいないか? そうではない。スミスは同業組合の熟練職人の高賃金を、基本的には独占的なレントとみなす。スミスは、徒弟修業が実質的な投資であるとは認めない。職業的熟練は、基本的にはLearning by Doingで十分に獲得できる、と考えている。同様のロジックは法律家や医師といったliberal professionにまで基本的には当てはまると彼は考えているのだ。
 いわゆるイギリス古典派経済学の教育政策論は、こうしたスミス的なラインを大きく踏み超えることは無かったと私は見ている。