お買いもの

 

ダルちゃん(1) (コミックス単行本)

ダルちゃん(1) (コミックス単行本)

 

 

ダルちゃん(2) (コミックス単行本)

ダルちゃん(2) (コミックス単行本)

 

  これ発売前重版かかってますね。

 

大阪環状結界都市 1 (ボニータ・コミックス)

大阪環状結界都市 1 (ボニータ・コミックス)

 

 

お買いもの

 

イギリス史10講 (岩波新書)

イギリス史10講 (岩波新書)

 

 

 

国際法 (ちくま新書)

国際法 (ちくま新書)

 

 

『社会学入門・中級編』の予告を兼ねて(続)


shinichiroinaba.hatenablog.com

 

のまた続き。

 

 

 『どこどこ』においてもまた2018年12月23日のトークセッションにおいても、議論はやはり岸の疑問だか煩悶だかに対する「岸さんは何を気にしているのでしょうか」という応酬に終始したととりあえずは言ってよいが、そこで考えたことをいくつか。
 第一に、岸がやはり執拗に一般化と理論にこだわり(そういえば『マンゴー』もまた「理論」と副題されていた)、稲葉に対しても「『入門』において理論の不可能性を宣告しつつやはり『中級編』において一般理論を再建しようとしているのではないか?」と問うので、その点について思うところを述べるならば。
 岸が「モデル」というとき実際にはいくつかの意味合いがそこに混交している。ひとつにはそれは一般的、普遍的に適用可能な理論として、対象の振る舞いの理解と、理解を踏まえての予測に役に立つ理論モデルという意味合いで用いられている。しかしながらそれとは別に岸はこの「モデル」という語を、もっと具体的な意味合いで、つまりは「お手本」というほどの意味で用いているのではないか、と私は邪推する。
 ここで「お手本」というのは――実はトマス・クーンが「パラダイム」の語に与えた基本的な意味合いは、このようなものであったともいわれているが――、単なる理論とか、試行枠組みのことではない。理論であれ実証であれその双方を含みこむものであれ、要するにそれは抽象的なアイディアや情報のことではなく、具体的な研究の実践であり、著作物のことである。
 もう一つこれに関連して述べておきたいのは、これは岸の発言ではないし岸のこだわりとも直接の関係はないのだが、滅びたといわれている一般理論だのグランドセオリーだのといったものについても、その意味は必ずしも確定しない、ということである。つまりそこで求められていたのは、ありとあらゆる事象の分析に使えるという意味でのまさに「一般」理論なのか、それとも、ありとあらゆる事象を含みこむ社会という全体を描き出す「大」理論なのか、である。かつてのパーソンズ的社会システム理論においてはっはもちろん、そのオーラが消えて久しい時代にかかれたギデンズの教科書においても、このような意味での「一般理論」と同時に「大理論」が志向されていたように思われる。
 「一般理論」と「大理論」の関係は、おおむね、「そもそも何らかの一般理論がなければ、それに立脚して初めて可能となる大理論もありえない」ということになるだろうから、社会学の現状を一般理論の不在と仮に形容するならば、大理論も存在していないことになる。しかしながら社会学教科書の現状を見る限り、大理論は志向されていないかもしれないが、全体社会のパノラミックな眺望を与えようという志向は絶えてはいないように見える。さて果たして、一般理論や大理論なしに全体社会を描くことは可能だろうか?  むろん「理論」という言葉で何を意味するかが問題である。「理論」という言葉で「適切な記述の枠組み」を意味するのであればつまるところ「理論なしの記述」が不可能になるのであるから、答えは「否」であるが、「理論」という言葉で「対象の振る舞いに対する理解と同時にそれに基づく対象の振る舞いの予測を可能とする見通しの良いモデル」程度のことを意味するのであれば、そこまでなくとも可能、ということになろう。物理学に範をとり、また今日の経済学においても支配的であるような「理論」の解釈はどちらかと言えば後者である。稲葉『入門』また『中級編』における「社会変動の一般理論は不可能である」というときの「理論」、これはまた実は「「産業社会論」は単なる趨勢命題の寄せ集めで、対象の理解と予測を可能とする「理論」とは呼べない」というときにおける「理論」もまたこちらである。
 岸が求めているのがこの(フォーマル)モデルという意味での理論ではなく、記述の枠組みとしての理論、あるいはそれにのっとったうえでの全体像であるとすれば、また抽象的な理論の知識そのものではなく、お手本(という意味でのパラダイム)となるような具体的な業績のことであるならば、こう答えるしかない――「具体的には思い当たらないのでそれはないものねだりだが、論理的に不可能ではないので自分がそうした「パラダイム」になるような業績を上げてください(知らんけど)。」

 

 だからここで『どこどこ』『中級編』の手の内を明かす(はっきりとは書いてはいないが大体そう考えている)と、こういうことになる。
 社会学において、グランドセオリー(を可能にする社会変動の一般理論)は不可能ではあるが、「中範囲の理論」の基礎として、また「記述の枠組み」として大体どこでも使える汎用性の高い一般理論なら存在するといってよい。まずいわゆるエスノメソドロジーは、まずは会話分析、そして動画などマルチモーダルデータが利用可能になってから以降は動作研究や人工知能などとあわせて、汎用的な「記述の枠組み」として長期的には圧倒的な影響力を及ぼすだろうし、もちろんそれ以上の可能性を秘めている。「記述の枠組み」から踏み込んで対象の振る舞いの理解と再現に資する「モデル」としては、デイヴィドソンやブラットマン、あるいはグライスを受けてのBDI論理に基づくマルチエージェントシミュレーションが利用できるし、これは長期的にはゲーム理論と統合されていくだろう。
 つまり稲葉『入門』『中級編』で「一般理論ができない」というのは、「多様な合理的主体の目標関数の具体的な中身は、その時その時の状況に合わせて実証的な「歴史研究」で特定していくしかなく、理論的に導出できるものではない」というほどの謂いである。『中級編』では明らかにデイヴィドソン主義がある種の「一般理論」として用いられている。それに対して「デイヴィドソンよりブランダムだ!」といった批判は当然ありうるだろうが、実証科学としての方向性はもうマルチエージェント研究≒ゲーム理論でほぼ確定だろう。もちろんそのような統合において、リーダーシップは経済学者、人工知能研究者、あるいは物理学者の方にとられてしまう可能性は高い。しかし質的社会調査に照準し、「多様な合理的主体の目標関数の具体的な中身」を絶えず問い続ける際には、社会学者、人類学者、そしておそらくは経営学者は相応の比較優位を確保し続けると期待したい。
 ただこのような意味での「理論」のありがたみは、実証研究と切り離せるものではない。その意味での社会学的公共性の核は、理論から方法にシフトする、と言えるだろう。
 今一つの社会学的公共性の(失われた?)核の候補は「全体像」である。(モデルとしての)一般理論(に立脚したグランドセオリー)が不可能となれば、それは結局のところ(記述の枠組みとしての)一般理論を踏まえた全体的な記述、ということになる。それはつまるところ歴史記述ということになってしまう。社会学プロパーではスコッチポル、ティリー以降のマクロ歴史社会学、とりわけマイケル・マンのあえて時代錯誤にも二次文献に立脚した『ソーシャル・パワー』連作が今日におけるその達成ということになるだろうが、彼ははっきりと「社会学固有の対象としての単一の「社会的なるもの」など存在しない」と言っている。
 思い返せば、「歴史が理論の代替の役目を果たす」という状況は、末期のマルクス経済学系の実証研究においては顕著であった。80年代日本において、財政金融や経営・労使関係といった対象に取り組むマルクス経済学者にとって、マルクス経済学の原理論は基本的には役に立たず、参照されたマルクス的理論枠組みは結局のところ「段階論」だったのである(段階論の意義については稲葉『「新自由主義」の妖怪』参照)。

 

 

 

ソーシャルパワー:社会的な“力”の世界歴史〈1〉先史からヨーロッパ文明の形成へ (叢書「世界認識の最前線」)

ソーシャルパワー:社会的な“力”の世界歴史〈1〉先史からヨーロッパ文明の形成へ (叢書「世界認識の最前線」)

 

 

 

 

 

 

 

お買いもの

 

プライバシー保護入門: 法制度と数理的基礎

プライバシー保護入門: 法制度と数理的基礎

 

 中川先生ならではの、数理と法制の両方の話がある珍しい本。 

 

資本主義の歴史: 起源・拡大・現在

資本主義の歴史: 起源・拡大・現在

 

  コッカまだ生きてたのか、と思ったら案外若かった(といっても70代半ば)。