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信頼を考える: リヴァイアサンから人工知能まで

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Work: A Critique (Key Concepts)

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世界神話学入門 (講談社現代新書)

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数理科学 2018年 08 月号 [雑誌]

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稲葉振一郎『「新自由主義」の妖怪 資本主義史論の試み』(亜紀書房)8月24日発売予定

http://www.akishobo.com/book/detail.html?id=865&st=4

 よろしくお願いします。

エドワード・ルトワックと木庭顕

エドワード・ルトワックの戦略論』を読んでいて開巻早々に驚くべき記述に出くわす。

ここで私が展開する主張は、さまざまな逆説的命題や露骨な矛盾を抱えていても、戦略は必然的に妥当な考えを伴うということではない。むしろ、戦略の全領域が逆説的論理に満ちている、というものである。それは、生活の他の全領域で適用される通常の「直線的」論理とはまったく異なるものだ。生産と消費、商業と文化、社会・家族関係と合意に基づく政治であれば紛争は存在しないか、あるいはそれらの諸目的に付随するにすぎない**。その場合、闘争や競争は、常識に基づく法や慣習といった矛盾のない直線的論理に基づくルールによって抑制される。しかし、戦略の領域では、人間関係が、実際の、あるいは起こり得る武力紛争によって左右される。そこでは、まったく異なる別の論理が働き、反対の一致や逆転を促すことによって通常の直線的論理に常に背くことになる。したがって、戦略は、直截な論理的行動を妨害したり、皮肉な結果を生んだり、致命的打撃さえ与える結果を生む一方で、逆説的行為に報いる傾向があるのである。


** 反対に、抑圧政治は、たとえ血が流れずとも戦争と同じ状況である。それは軍事作戦と似ており、政治独特の攻撃と防御、待ち伏せと襲撃がある。戦争では、隠蔽と欺瞞は基本である。警察は、欺瞞によって反体制サークルに浸透しようとする。他方で、反体制派にとって隠蔽は生き残ることであり、どんな行為にも奇襲は不可欠である。


 まだ十分に理解しているわけでは到底ないが、小著『戦争にチャンスを与えよ』のタイトルにも表れているとおり、軍事学者・軍事戦略論者としてのルトワックの発想の根本は「とりわけ戦争における戦略の本質はその逆説性にある」というものだろう。
 むろん伝統的なリアリスト国際政治学の誤りではなかろうが陳腐な解釈からする「平和を実現したければ戦争への準備を怠るな」といった金言も彼の言う「逆説」に含まれるだろうが、しかし彼の議論の射程はもっと広い。先の金言をそれこそ金科玉条化してしまえば、もうそれが「答え」だと納得してただひたすら戦争準備、軍備拡大に備えるだけにつとめるならば、そこに逆説はない。しかしルトワックの本旨はそこにはもちろんない。
 そもそも状況は絶えず変化し、以前の常識は常に転覆される。それに適応して生き延びようとするならば、ひとつの「答え」に安住してはならない。しかしそれだけではない。おそらくは軍事、戦争以外においてのみならず、それこそ「経営戦略」、平時におけるビジネスにおいても、およそ人間社会のありとあらゆる領域における「戦略」とは、こうした変化する状況への受動的適応のみを意味するわけではない。「戦略」の語で語られるのは、絶えず変化する状況は決して外から与えられる環境ではなく、まさに人間の側の「戦略」的な行動によって引き起こされるものでもあるからだ。戦争とは一定のフィールドにおいて一定のルールの下で行われるゲームではなく、フィールドの性質もルールも可変的なゲームであり、そしてプレーヤーはしばしばまさにそうしたフィールドやルールそれ自体に介入してつくりかえることを要求される。
 先の事例に戻るならば、互いに抑止戦略を追求しての軍拡競争は、たしかに他の状況が変わらないままで行われるならば、それこそ冷戦時の核軍拡競争のごとく、戦争の抑止に一定の有効性を発揮するが、他方偶発事故によって戦端が開かれた場合の損害を非常識なレベルまで拡大する。このことはよく知られていた。しかしそれだけではない。ポスト冷戦期に顕著になったことではあるが、こうした軍拡競争による軍事衝突の抑止は、対等な戦力を備えた国家レベルの大勢力間においては有効だが、非国家主体の相手の非正規戦、非対称紛争においてはあまり意味を持たない。
 ルトワックにせよ、あるいは非対称紛争の重要性を先駆的に指摘したマーティン・クレフェルトにせよ、彼らの問題意識は俗流クラウゼヴィッツ主義とでもいうべきものへの批判によって導かれているように思われる。ここで俗流クラウゼヴィッツ主義と呼ぶのは、20世紀の両大戦において完成した国家総動員体制と、そうした体制によって担われる総力戦を戦争を考える際の基準とする発想である。戦争を国家の行為に一元化して考えるスタイルである。クレフェルト、あるいはジョン・キーガンらが歴史をさかのぼって提示するのは、軍事紛争、戦争は国家の行為、あるいはその限りでの政治に還元することができない独立した次元の現象である、というものだった。そしてルトワックが提示するのは、それこそ「総力戦」のようなモデルを基準にして考えることができないところにこそ戦争、軍事戦略の本質が存する、という問題である。
 ところで、上記のごとき苛酷な世界観のもとにあるルトワックの上記の記述からは、いまひとつの奇妙な響きが伝わってこないだろうか?
「反対に、抑圧政治は、たとえ血が流れずとも戦争と同じ状況である。」というこの注記は、もちろん本文の「生産と消費、商業と文化、社会・家族関係と合意に基づく政治であれば紛争は存在しないか、あるいはそれらの諸目的に付随するにすぎない。その場合、闘争や競争は、常識に基づく法や慣習といった矛盾のない直線的論理に基づくルールによって抑制される。」に対応している。俗流クラウゼヴィッツ主義に従うならば、戦争は国家の営為であり、そのようなものとして「別の手段をもってする政治の継続」であるが、ルトワックによれば「抑圧政治」ではない通常の政治(と市民社会関係)とは、戦争における戦略的行動とは全く異質の何ものかなのである。
 この発想は、それこそ逆説的にも、ルトワックと全く対極的な世界観に立つと見える、自衛権まで否定し、改正限界についても「政治システム存立にとって不可欠の原則を宣明したこれらの規定は憲法に不可欠であり、削除することは政治システムの破壊に等しいから、改正は違法である。」とする木庭顕の極端な憲法九条解釈、軍事化の否定としての政治という発想と、どこかで相通じているのではないだろうか?

憲法9条へのカタバシス

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戦争の変遷

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戦略の歴史(上) (中公文庫)

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戦略の歴史(下) (中公文庫)

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